空の深淵 -9-



「求人あり」のチラシを手に、サンジが訪れたのは小さな食堂だった。
年配の夫婦だけで営んでいたが最近主人が腰を悪くし、いっそ店を畳んで隠居しようかと話し合いながらもダメ元で募集してみたという。
若く見目良いサンジが応募してきたことを驚き訝しみながらも、その腕を目の当たりにして夫婦は多いに喜んだ。
早速2階の空き部屋に住み込みという形で雇ってもらう。
サンジは当てもなく田舎から出て来た、ちょっと訳ありな勤労青年の設定で曖昧な身の上話をし、善良な夫婦の同情を上手に買った。
「私たちを本当の親だと思って、甘えるといいよ」
初対面の男にそこまで気を許して大丈夫かと、世間知らずのサンジでさえ心配になるほどお人好しな夫婦の元、サンジの新生活はスタートした。

この食堂は昔から街の中心地に位置し、近代的な建物が建ち昇る現在もボロ家のままで残り続けている隠れた老舗だった。
バロック・ワークスの本社はもとより、その系列のバーや娼館の従業員達も多く利用している。
まともに組織の中に入り込むより安全で関係者との接触が容易い、まさに偵察にはうってつけの店だった。
とは言え、上質の“餌”でもあるサンジだ。
普通に寝泊りしていても窓にヴァンパイアが群がるほどの威力だから、この夫婦たちの身にも危険が及ぶ可能性がある。
一般市民を巻き込まないのがハンターの鉄則でもあるから、サンジの身というより何も知らない夫婦の身を守るべく、組合のハンター達は日替わりで警護に当たった。
マルコは店の常連となり、毎日カウンターの一席を占領してサンジに軽口を叩いている。

「どうだい、この店には慣れたかよい」
「ああ、古くて小汚いけどいい店だよ」
「小汚いは余計だよ」
後で皿を洗いながら、大柄な女将が突っ込みを入れてくる。
「すんません女将さん。けどほんとにいい店だ。働きやすいし机も椅子も使い込まれて綺麗な色に磨かれている。皿やカトラリーだってとても丁寧に扱われて、料理を盛り付けられるのを喜んでるのが見えるみてえだ」
「そんなもんかねえ」
マルコは自分の顔が移るナイフを目の前に翳した。
「そりゃあ皿の方がよっぽど喜んでるさあ。サンちゃんの料理を載せられるんだからね」
「喜んでるのは客だけじゃないってか」
マルコの隣に座る常連客も話に乗ってきた。
「俺あ嬉しいねえサンちゃん。何度も言うようだけど、ほんとに嬉しいんだ。そりゃあ、ここのおやっさんの腕は確かで、俺らは長いこと随分美味いもんを食わせてもらってきた。ぱっと見派手じゃあねえけどあったかくてじわんと味が沁みててよ、そりゃあ美味い飯だったんだ。そんなおやっさんが店閉めるとか言い出した時は、そりゃあ絶望したさ」
「そんな大げさな」
腹を揺すって笑う女将に、別の常連客が真顔で指を振る。
「いやいや女将さん、大げさじゃないってよ。ここで飯を食えなきゃ、俺らの人生の楽しみは半減だ。本気でそう嘆いてたときに、サンちゃんの出現だ」
ぴゅうと、誰かが口を鳴らす。
「そりゃあ驚いたね、どっからこんな子連れて来たんだって一時すげえ話題だった。こんな若いのにおやっさんに勝るとも劣らねえ料理を作ってさ」
「いやあ、俺はもう完敗だ」
テーブルを片付けている主人が、振り向かないで声を出した。
どっと周りの客が笑う。
「いやいや、おやっさんとはちと違うんだな。見た目も綺麗だし垢抜けてる。けどな、どこかこう・・・おやっさんの味と似てんだよ」
うんうんと、別の常連客も目を細めて頷いた。
「そうだ、どっか似てんだよな。あったかくて腹の底がほっとする」
「疲れが癒されるつうか」
「癒されるほど疲れてねえだろ、お前」
「なんだと、失敬な」
またどっと客が沸いた。
「俺らほんとに嬉しいんだサンちゃん、あんたが来てくれて。おやっさん達も嬉しいだろうけど、俺らも嬉しいんだ」
「俺だって嬉しいぞ」
「サンちゃん、愛してるー」
「どさくさ紛れに何言ってやがる!」
あちこちからおしぼりが飛び交う中、サンジは赤い顔をして笑っていた。



初めての一人暮らしは、思った以上に快適で平和だった。
ヴァンパイアという共通の天敵がいる以上、人間同士は仲間であり無言の絆が感じられる。
ずっとヴァンパイアに囲まれて育ってきたサンジにとって、それは新鮮な驚きだった。
どこへ行っても、人間だからというだけで信頼され受け入れられる。
牽制し合い勢力争いに明け暮れた殺伐としたヴァンパイアとは違う、穏やかな生活がまだ夢のようだ。
優しい人の下で、大好きな料理を作って喜ばれる毎日。
人間と言うのは、等しく非力でヴァンパイアの餌となるべき生き物だと思っていたのに―――
人間には人間の、世界がある。
そこにヴァンパイアが介在することの方が間違いではないのか。
そう感じ取られるようになったことこそ、サンジが真に“人間側”となった証なのかもしれない。

「すっかり評判になったねえ」
人が引けて暇になった頃、またマルコがひょっこり顔を出した。
サンジの知り合いで頻繁にやってくる常連客として、マルコもまたこの店に定着している。
「ランチAでいいか」
「勿論、サンジが作るもんはなんでも美味いよい」
「ゆっくりねえ」
残る客はマルコ一人と見たか、女将は裏の片付けにと外を出た。
主人は買出しに出かけている。
「みんな、元気か」
二人きりになってから、サンジは小声で尋ねた。
「ああ、忙しく働いてるよい。エースは、たまに来るだろ?」
「うん、昼間にね。けど一度にあんまりたくさん食うからすぐに覚えられそうで、あんまり来られないって言っていた」
「目立つ男だからなあ」
折角“餌”たるサンジを一人暮らしさせているのに、その周りを名の知れたハンターがウロついていては罠にならない。
頬杖を着いて笑うマルコの前に、Aランチのトレイを置いた。
大盛はサービスだ。
「いただきます」
手を合わせたマルコに一旦断ってから、煙草を咥える。
軽く吸ってから、なんでもないことのように首を巡らせて口を開いた。
「ゾロ、は?」
「忙しいよい」
大口でパクつきながら、意味ありげに視線を上げる。
「寝てる間が一番危険だからって、あいつは毎晩あんたの寝てる部屋の下に張り付いてんだ。そりゃあもう欠かさず、毎晩さ」
「え」
驚きに目を見開いた。
そんなこと、ずっと知らなかった。
「目立って見張る訳にはいかないしよ。気配殺して影みたいに潜んでるよい」
そん代わり昼間は寝てるから、とフォローする。
「あんたが寝てるってだけで、部屋の外はヴァンパイアの人だかりだ。だが、誰も襲おうとはしていない。ってことは裏を返せば、大物があんたを狙ってるってこった。その命令で、無闇に襲うのはご法度なんだろうよい」
「そう、だったのか」
知らなかった驚きよりも、どこか嬉しさが勝った。
ゾロは、いつだって傍にいてくれた。
サンジが眠る間もずっと起きて、この身に危険が及ばないように・・・
「そんな可愛い顔されちゃ、ゾロじゃなくても張り切るよなあ」
マルコの呟きに、はっとして顔を上げる。
「なんだって?」
「無理に怖い顔作らなくてもいいってよ。そんな訳だから、この先あんたに何らかの接触があるかもしれない。せいぜい気を付けて普通に生活してくれよい」
神妙な顔で頷くサンジを前に、マルコはご馳走様でしたと行儀よく手を合わせた。



その夜、「接触」は思いもかけない形でやってきた。
「晩餐会?」
店を閉め、賄を食べ終えて人心地ついた頃、女将が興奮した面持ちで話を切り出した。
「あのバロック・ワークスが創立パーティをするんですって、その晩餐会にシェフとしてサンちゃんに来て欲しいって言うのよ」
すごい名誉だわ〜と当人よりはしゃいでいる。
今は王族や貴族より、金持ちの大会社の方が羽振りがいい時代だ。
「俺なんかでいいのかなあ」
謙遜するサンジに、主人は丸顔を酒で染めてニコニコ頷いた。
「いいんだよ、先方さんは地元に根付いた料理人をと言っている。ここはあそこに勤めてる人達が常連さんに多いしね、彼らが推薦してくれたんだろう」
「あたし達だって、自慢のサンちゃんを大っぴらに紹介できる機会だから、すごく嬉しいよ」
「女将さん・・・」
本当に、この夫婦はまるでサンジを本物の息子だと思ってくれているようだ。
その好意に甘えながら、いつかこの役目が過ぎたらこの人達の下を離れねばならないのだと思うと、サンジの胸は痛んだ。
「じゃあ俺、お引き受けします」
「ありがとう」
なぜか女将に礼を言われ、いやあとサンジは頭を掻いた。
「こうして料理人としてやっていけるのは女将さん達のお陰だから、俺でよかったら喜んで」
「じゃあ早速、明日にでも先方さんに連絡するよ。創立パーティは25日だって」
その日はお店休まなくちゃねとウキウキしている女将を前に、サンジは「25日か・・・」と一人頷いていた。



自分の部屋に帰り、灯りを消してベッドの中に入る。
この家に移り住んでから、一人で眠ることにもなれた。
いつも感じていたゾロの息吹がないのは寂しかったけれど、今日からはそうじゃない。
この窓の下、恐らくは店の裏側の路地にはゾロがいるのだ。
毎晩欠かさず、見張ってくれていたのだと言う。
そんな風に言われたら、それがいくら任務だとは言え単純に嬉しいとか思えてしまう。
ゾロは、今もこの窓を見上げているのだろうか。
明かりが消えた部屋の中に、俺がいることを認めて見守ってくれているのだろうか。
「ゾロ・・・」
声に出さないで呟いたら、勝手に身体が熱くなった。
いけないと頭では思っているのに、勝手に胸がドキドキしてくる。
ゾロが、すぐ傍にいる。
ずっと会えなくて寂しかった。
あの腕をもう一度と望むのは躊躇われるが、他のヴァンパイアを狩るために奔走して自分のことが忘れ去られているんじゃないかと思っていたから、本当に嬉しかった。
ゾロは、俺を見ていてくれる。
気にしていてくれる。
多分、ちょっとは好きでいてくれる。
そう思える自分の自惚れ具合を叱咤しつつ、それでもやっぱりちょっとはそうだろうとか、一人で悶々と考え込んでしまった。
だってそうじゃなきゃ、あんな風に優しく触れては来ない。
いらないことまで思い出して、サンジは毛布を頭までで引っ被って益々身体を縮込ませた。
思い出しちゃいけないと思えば思うほど、あの夜のゾロがありありと脳裏に浮かんだ。
酷く熱いてや荒い息遣いや、思いの外優しい愛撫―――
ズクンと身体の芯が疼き出して、丸めた両足の膝頭を無意識に擦り合わせた。
―――やべー・・・
こうなると、治まりがつかない。
サンジはもそもそと手を動かし、パジャマの中の素肌に触れる。
今までは中心を擦るだけだったのに、ふと思いついて胸元に手を差し入れた。
いつもはふにゃりとしている乳首に触れると、若干硬くなってる気がする。
「やべえ」
声に出して口元を抑え、そのままオズオズと下肢に手を伸ばした。
―――ゾロ
ゾロを思い描きながら、何度か毛布の中で熱い吐息を漏らす。
窓の外に時折閃光が走ったが、雷かもしれないと特に気には留めなかった。





「おはようさん」
マルコがモーニングを食べに現れた。
朝から姿を見せるのは初めてのことで、サンジは何事かと身構えながら、適当なセットを準備する。
「どうした?」
「ちょっとね」
忙しい時間帯ではあるが、だからこそ会話が目立たない。
テキパキと手を動かしながら話を続ける。
「昨夜、ゾロがヴァンパイアを一匹狩ったんだよい」
「どこで?」
「ここで」
マルコは目立たないように指だけ伸ばして、店の横を指した。
「・・・マジ?」
「おう、なんでも半端ない数のヴァンパイアが群がってたらしくてな。その内一匹が辛抱ならなくなったか、窓に手をかけたんだとよ。やむを得ず、通りすがりを装って狩ったらしい」
「そう、だったんだ」
全然知らなかった。
モーニングセットを前に、マルコはコーヒーの香りに目を細めながら一口啜った。
「それはそうと、一体昨夜なにがあったんだよい?」
ぎくっとして、視線を逸らす。
「別に、なんにも」
「本当に、とんでもねえ数だったとよ。しかも数匹は、まるで匂いにでも誘われたみたいにフラフラ引き寄せられてたって。なんかしたか?」
ダイレクトに聞かれて、サンジはいいやと首を振った。
がしかし、その顔は耳どころか首元まで真っ赤に染まっている。
「あー・・・そういう、こと?」
一人で納得したマルコに、そう言えばと話の矛先を変えた。
「動きがあったぜ、バロック・ワークスは25日に創立パーティを開くらしい。その時のシェフとして俺が招かれた」
マルコはカップに口をつけたまま、目だけ上げた。
「いよいよだ、よい」
口元に不適な笑みを浮かべ、ご馳走様と立ち上がる。
ありがとうございましたーと見送る主人の後ろで、サンジも「いよいよか」と覚悟を決めた。



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