空の深淵 -10-


あくる日、バロック・ワークスの社員を名乗る男が正式にサンジに会いに来た。
「この食堂の評判を聞いて、社長が即断したガネ。毎年一流ホテルの総料理長を招くのが恒例になってるんだガネ、今年は趣向を変えようという話になったガネ」
随分と無礼な物言いを、屈託なく話す。
悪気がないのを示したいのか、単なる馬鹿なのか。
呆れながら、サンジは余裕の笑みで頷いて見せた。
「大会社でありながら、地元を大切にしたいとのお心遣いなのでしょう。俺でよければ喜んでお引き受けしますよ」
「そう言ってくれると思ってたガネ」
商談成立とばかりに、気軽に握手を求めてくる。
話す素振りといい目つきといい、只者でない雰囲気はあるがさりとてヴァンパイアの血を引いているとも思えなかった。
どちらかと言うと、カタギでない胡散臭さ満載のおっさんだ。
ハーフやクオーターってのは、ここまで人間との境目がないものなのだろうか。
怪しい会社の社員だからって、みんながみんなヴァンパイアとは限らない。
ヴァンパイアと人間を区別して狩りをすることの難しさを、サンジは他人事ながら難儀なことだと感じていた。



「こんばんは、サンジさん」
夜になって常連客で賑わう店の片隅に久しぶりの顔を見て、サンジはおうと咥え煙草のまま笑顔で振り向いた。
「久しぶりだな、ギン」
「あんたのお勧めを、頼む」
ここで働き始めてまだ一月も経たないのに、サンジには随分と顔見知りが増えた。
いつも顔色の悪いギンも、またその一人だ。
勤め始めて間もない頃、ゴミを出すために出た裏口でへたり込んでいるギンを見つけた。
腹が減って立ち上がれねえとの声に、サンジは取るものもとりあえず料理してその場でこっそり食べさせた。
いくら温厚な主人夫婦とは言え、飢えた男を餌付けするような真似は嫌がるだろうし、さりとて見てみぬふりをできる性分でもない。
ギンの尋常でない顔色にもしかしたら腹を空かせたヴァンパイアかもとの懸念が頭を掠めもしたが、その旺盛な食欲を見て違うと確信した。
飢えたヴァンパイアが何より欲するのは人間の血だ。
“餌”であるサンジを目の前にして、料理にがっつくなどヴァンパイアの血を引いているものならあり得ない。

「あん時のサンジさんは、俺にとってもう神か仏か・・・いや、天使様だ」
今でもそう思うと、ギンはまるで熱にでも浮かされたみたいに毎回控えめながら熱弁を振るっている。
決して楽な暮らしではないが、ある程度金が稼げるとこの店に食べに来るのが唯一の楽しみなのだと。
「あんたのお陰で働く喜びを見つけた、ありがとうよ」
「野郎に感謝されても嬉しかねえや」
憎まれ口を叩くサンジに、ギンは笑いながら酒も注文した。
「お、今日は大盤振る舞いか?」
「それほどじゃねえが、まとまった金が入りそうなんだ。そうしたら、また今度はご馳走を食いに来るぜ」
酒を飲む前から赤い顔をして、ギンは陽気に笑った。



パーティに使用する食材も調理器具も、すべて会社側が用意すると言う。
文字通り身一つで来てくれとのお達しを受け、サンジはやや拍子抜けした気分でいた。
当日のメニューもあらかじめ決めてあって、それを作るだけだ。
やりがいがないと言えばそれまでだが、それでもできるだけ自分のカラーを出せるように一工夫したいと思っていた。

―――って、俺が料理するのが目的じゃねえのによ
いつの間にか、パーティへの心積もりだけで胸がときめいていた自分がいた。
そうじゃない。
元々自分は“餌”で、ヴァンパイアの巣窟とも言える会社からコンタクトを取ってきたのだから、敵地に乗り込むようなものだ。
「コック」だって、口実のようなもの。
奴らの目的は料理じゃなくこの身体。
自分だってそう覚悟しているはずなのに、つい料理にばかり気が取られてしまっている。

「俺って、馬鹿だな」
「そんなことないよ」
思わず知らず呟いたら、いきなり後ろから否定されて飛び上がるほどビックリした。・
早朝の魚市場。
買い付けを任された帰り道、路地裏で一服していた時だったからまったくの無防備だ。
「エース」
振り向けば、久しぶりの人懐っこい笑顔がある。
「最近全然、食いに来てくれなかったな」
「これでも割と忙しかったんだよ。大きな狩りの前は特にね」
ああそうか、と頷く。
やはりこれは、あくまでも大きな狩りの下準備でしかない。

少し寂しげな顔をしたサンジを、ん?とエースは覗き見るように首を傾けた。
トレードマークのテンガロンハットが、朝日を遮るようにサンジの顔に影を作る。
「元気ないねサンちゃん。最近ゾロに会えないからかな」
「んなことねえよ」
反射的に口を尖らせるのに、エースはははっと快活に笑った。
「なら、俺に会えなかったからだ」
「それはもっとありえねえ」
即座に否定されて、あんまりだと嘆く。
「そんな冷たいと、いいこと教えてやんないよ」
「・・・なんだよ」
エースのいいことってのは、本当にいいことのような気がするのは気のせいか。
不審そうに見やるサンジに、エースはにやんと人の悪い笑みを返した。

「この街の地下ってさあ、結構繋がってる訳。前に塒にしてた大ヴァンパイアの別荘地、あそこにゾロは寝泊りしてっけど、そこにも表に出ないで通じる道が実はあるんだなあ」
「ほんとか?」
「迷路みたくなってっから、ゾロには教えてないんだ。あいつなら絶対、もう二度とお日様見られないことになるに決まってるから」
「・・・そうかも」
素直に同意してしまう。
そういう余計な情報は、ゾロには与えない方がいい。
「んで、サンちゃんが住んでる店の隣に酒屋があるだろ、ここの酒蔵の入り口扉のすぐ横に、壁と同じ色した隠し扉がある」
そう言って、エースは壁に図面を書くように指を動かした。
何故か道筋のように壁に光が残って、ありありと目で確認できる。
「この扉を開いたところでまた壁しかないんだけど、これは横にスライドさせれば開く引き戸なんだ。押しても引いてもだめだよ、横にスライド」
「うん」
「ハンター仲間は結構この道使ってるから、錆付いたり開かないってことはないと思う。この扉入って、ひたすら右へ右へと曲がって道なりに歩くと100mほどで別の扉に行き当たるから、それもスライドするとゾロがいる部屋の真横に出るよ」
「・・・マジ?!」
驚いた。
そんな便利な道があっただなんて。
「これなら目立たずに、逢瀬を楽しめるっしょ」
「・・・そうだなって、え?何言ってんだ」
慌てて否定するサンジに、冗談だよと苦笑する。
「実際のところ、どうもサンちゃんが独り立ちして以降、ゾロはろくに食事してないみたいに見えるんだよなあ。まあ、今までの三食昼寝付って生活がそもそも贅沢だった訳だけど、それを抜きにしても酒飲んで寝てばっかみたいなんだよね。昼間に誰も見てないのをいいことに自堕落っていうか面倒臭がりっていうか・・・」
途端サンジは、むうと眉間に深い皺を寄せた。
「確かに、あれこれ俺から言わないといつまでも寝てるようなぐうたら男だから」
「まあ甘えてるっちゃあそれまでだけど、一応夜は活躍してる訳だから俺らとしても大事な戦力で、だからこそちょっとはまともな食事くらい取って欲しいんだよなあ」
でも昼間はいっつも部屋に篭って寝てるし・・・
そう続けられると、サンジとて心配にならなくもない。
そんな便利なルートがあるんなら、ちょっとくらい差し入れしてやってもいいかもしれないな。
「サンキュ。今日辺り、昼ひけたら行って見るよ。エースに心配かけるようじゃハンター失格だし、ハッパかけてやる」
「そうしてくれる、悪いね」
まるでゾロの保護者みたいな口ぶりで、エースは両手を合わせて拝む仕草をした。
「・・・そうしてくれると、夕べみたいな無駄狩りしなくても済むし」
「ん?なんか言ったか」
「いやなんでも」
そいじゃね〜と言うだけ伝えると軽く手を振って、エースは朝靄の中をジョギングするみたいに駆けて行った。
エースこそ、前みたいにあの部屋に寝泊りしないんだろうかと素朴な疑問が頭に浮かんだが、狩りの準備が忙しいんだろうと勝手に了解する。
「しょうがねえ、何作ってやろうかな」
仕方ない風を装いながらも、サンジは自然とにやけてくる口元を抑えるのが大変だった。



嵐のようなランチタイムを終えて一旦店を閉めた後、サンジはこっそり取り置いてあった料理をタッパーに詰め主人夫婦におずおずと切り出した。
「夕方までちょっと、出かけて来ます」
そう言った途端、女将さんは跳ねるように大きな身体を弾ませて手を叩いた。
「それがいいわあ。お買い物でもデートでも、行ってらっしゃい」
「デ、デート?」
予想外の激励みたいな返事にびっくりしつつ、過剰に反応してしまった。
「いやあの、デートとか別に相手は・・・」
慌てて否定するサンジに、おっとりした主人がいやいやと手を振って見せる。
「例えばの話だよ、前からわしらは心配しとったんだ。あんたうちに来てからずっと働きづめで、休みの日でも外に出ることなかっただろ。ちょっとは訳ありみたいだけど、それにしちゃあ若いのに不憫だってんで、これが気を揉んでてね」
これ、と指さされた女将さんは文字通り揉む感じで、豊満な身体をもじもじくねらせた。
「いやだねお前さん、あんただってサンちゃんたまには羽目外すといいのにって言ってたじゃないか」
どうやら夫婦には、サンジが思っている以上に気遣わせていたらしい。

「すんません、じゃあお言葉に甘えてちょっと行って来ます」
「ゆっくりしといでよ」
「開店遅らせたっていいんだから」
「いや、ちゃんと時間までには戻りますんで」
どこまでも人の良い夫婦に頭を下げて、サンジはやや大きめな荷物を隠すように抱え表に出た。
そのまま横歩きで移動して裏口へと回る。
エースがに教えられたとおりの場所へいけば、なるほど地下への道が見付かった。

入ってから右に曲がってさらに道なり。
また右へ―――
迷路みたいに入り組んでいる通路だが、使っている道は限られているようだ。
灯りが点してある通路ばかりを目指して進んで行く。
あの部屋からサンジが働く店までは、地上での距離は結構あるように感じたが、地下を通るとあっという間だった。
こんなに近いのかといぶかしみながら扉をスライドさせ、見知った場所に出る。
「エースは、何でも知ってるな」
来た通路を振り返り、その冷たく暗い洞穴のようなルートを確認する。
この道も、外部からの光をまったく通さない。
きっとヴァンパイアのために作られた通路なんだ。
あの部屋といいこの道といい、エースは随分と過去のヴァンパイアの生活に詳しいと言える。

サンジはドアの前で一旦立ち止まって、どうしようかと思案した。
ゾロがいるかどうかはわからないが、もしいたとしたらもう昼寝から覚めてるだろうか。
つか、今俺はこの扉をノックして入るべきか?
けどなんか、中にマリモしかいねえのにノックするってムカつかね?
けど、もしマリモ以外にも人がいたら、やっぱノックしねえと失礼だよなあ。
つか、寝てたら起こさないといけないしな。
やっぱノックするしかねえのか。
でもなんか、ノックして入るって抵抗あるなあ。
マリモのくせに。

散々迷ってから、妥協案として足でノックした。
両手は荷物を抱えたままだし、これが一番合理的だろう。
ガンガンと蹴って、しばし待つ。
「誰だ」と問われる前に扉が開いて、そのことにびっくりした。
「なんだ随分無用心だな、確認しねえのか?」
サンジの前に不機嫌そうな顔を突き出して、ゾロは心外そうに片眉を上げてみせる。
「んなもん、確認するまでもなくてめえだろうが。それよりなんだってここに来た。てめえのが無用心だろうが」
「それは心配ねえ、俺は・・・」
そこまで言いかけて言葉を止める。
ゾロにこの地下通路の話をすると、ややこしいことになりかねない。
「俺は、誰にも見られずにうまくここまでたどり着いた」
そう言い換えると、ゾロはけっと横を向いた。
「誰も心配なんざしてねえ」
とか言いながら一歩下がって扉を押さえている辺り、中に入れと言いたいらしい。

「なんかこの部屋、久しぶりだな」
緋色の絨毯に足を踏み入れ、相変わらず豪奢な室内を見渡した。
ゾロが一人で使っているなんて、ギャグにしかならない広さと乙女チック具合だ。
どんと据えられた巨大なベッドがやたらと目に入ってきて、なんとも気恥ずかしい。
「飯持って来た、腹減ってねえか?」
「減ってる」
素直に答えて、ゾロは待ち構えるようにテーブルに着いた。
サンジ出現=食料とでも刷り込まれているかのようだ。
「じゃあちょっとそこで待ってろ、なんだほんとに何もねえな」
酒しか入ってない冷蔵庫の中身を確認して、あれこれ文句を唱えながら持って来た料理を皿に取り分ける。
「まさか毎日酒飲んで寝てばかりじゃねえだろうな。ちゃんと朝飯とか・・・・起きるのが朝じゃねえのか。ともかく、飯食ってんだろうな」
「腹減れば食う」
「そうじゃなくても乱れた生活してんだから、せめて食事はちゃんとしろよ。食う店はいくらでもあるだろうが」
ドンと乱暴な仕草でテーブルに皿を置くと、ゾロはやけに畏まって両手を合わせた。
「どこで食ったって、てめえのほど美味くねえしな」
「・・・・・えっ」
思いもかけぬ返事に絶句したサンジの目の前で、ゾロは大口開けて掻き込むように食べながら一人頷いている。
「うん」
「・・・う、うんって」
なんとも突っ込めず、サンジは真っ赤になった顔を隠すように横を向いて椅子に腰掛け、煙草を吹かした。
気恥ずかしくて間が持たない。

スパスパ煙を吐きながら下を向いていると、部屋の隅に丸まった埃を見つけた。
きっと掃除なんてしてないのだろう。
「お前さあ、寝てばっかりじゃなくてたまには掃除しろよ」
「掃除?」
「埃溜まってるじゃねえか」
「埃なんかで死なん」
「そういう問題じゃねえ」
便利な部屋を貸して貰ってるんだから、ちゃんと綺麗に使おうぜ。
そういうと、ゾロはそれも一理あるかと思い直したのか神妙な顔で頷いた。
とは言え、ちょっとは口答えしたいらしい。
「どうせ、狩りが終わったら離れる部屋じゃねえか」
「使う前より美しく、だ」
そう諭しながら、サンジは急に寂しくなった。

今度の大掛かりな狩りが終わったら、ゾロはこの街から離れるつもりなんだろう。
そうするとエースともマルコとも、あの善良な夫婦ともお別れで。
特に本気で我が子のように可愛がってくれている夫婦のことを思うと、サンジの胸は軋むように痛んだ。
「ずっとこの街で暮らせねえか?」
知らずと、思ったことがそのまま口をついて滑り出た。
しまったと思ったがもう遅い。
ゾロはフォークを動かす手を止めて、顔を上げた。
怒ったかと思ったが、予想に反して無表情だ。
「お前は、その方がいいかもしれねえな」
「え」
指の先に挟んだ煙草から、紫煙だけが立ち昇る。
「この街ならハンター同士の組合もあるし、“餌”としてのてめえの立場もはっきりさせてて、その庇護もある。てめえが一番生きていきやすい街かもしれねえ」
ゾロはそう呟くと、決意したように一人で頷いて酒の入ったグラスを空けた。
「それがいい、てめえはここに残れ」
「ちょっと待てよ」
サンジはテーブルに手を着いて勢い欲立ち上がった。
「なんでそんな話になんだよ。てめえはどうすんだ」
「俺は又、旅を続ける」
「なんで?」
なんで一緒に、いてくれねえんだと。
言葉にするのはさすがに躊躇われた。
「・・・お前も、ここに残ればいいじゃねえか」
「この街にはたくさんのハンターがいる。それに結構な腕利きばかりだ。別に俺がいなくたって街の奴らは困らねえ」
そうだろ?と聞かれれば、頷くしかない。
「この狩りが終わったら、俺はまた別の場所に行く」
サンジは灰皿に煙草を押し潰して、飛び出そうな言葉を飲み下すみたいに唇を噛んだ。
なら俺も一緒に行くなんて、言えるもんか。



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