空の深淵 -8-


ゾロが与える感覚のすべてに、サンジは溺れた。
自分でも知らぬ部分を無遠慮に触られる不快感より、ためらいのない力強さや心地よい肌の熱に呑まれていく。
時に痛みを伴うほどの強引さで押し入りながらも、ゾロの動きには一定の慎重さが窺えた。
己の欲望だけを満足させるためではない、まるで愛しむかのような丁寧な愛撫。
サンジの身体が不相応なほど昂ぶるのに便乗せず、敢えて制して緩やかな快楽を導いてくれている。

言葉で話すよりずっと、確かなことが伝わった。
口では“餌”としてしか扱わず、時に憎しみさえ感じさせるような冷たい態度を取りながら、ゾロの掌はサンジにとってどこまでも優しく温かい。
ゾロ自身が自覚しているかどうかはわからないが、少なくとも心底憎まれてはいないことをサンジは肌で感じ取った。





ゾロのために準備されていた夕食は、結局遅い朝食となった。
多少の気まずさを感じながら、向かい合わせで食事を取る。
窓から朝日が差し込まない辺り、まだ夜の余韻が残っていて気恥ずかしさは若干和らいだ。
「日の光がないから、いまいち時間の感覚がねえな」
時計を見れば、もう10時だ。
「そろそろエース、来るんじゃねえかな」
そう言った途端、ゾロは目に見えて不機嫌な顔付きになった。
「エースのことなんかいいじゃねえか」
「そうは行くかよ。寝てる間に来てたらどうしようとか、俺は朝から冷や汗掻いたんだぜ」
目が覚めたら素っ裸でお互い抱き合って眠っていたのだ。
エースは部屋の合鍵も持っていそうだし、眠っている間にこっそり訪問されているんじゃないかと思いついたら気が気じゃなくて落ち着かなかった。
「構わねえだろ、てめえはどうせ“餌”だ」
「構うに決まってんだろうが!つか、その言い方むかつく」
テーブルの下で思い切りゾロの足を踏み付けてやる。
いってえなと顔を顰め、拗ねた子どもみたいにぷいと横を向いた。
サンジを単なる“餌”呼ばわりして貶めるのは以前と変わらないが、これも単なる憎まれ口だと今のサンジには理解できる。
ただ、できることなら“餌”として使われ守られるだけじゃなく、共に狩りができるパートナーでありたい。

「俺には、狩りはできねえだろうか」
ためらいがちに・・・でもはっきりと、サンジはゾロの目を見据えて言った。
ゾロはと言えば、口の中にフォークを突っ込んだまま動きを止めている。
「あ?」
「狩りだよ。俺もヴァンパイアを狩るハンターになりてえ」
その辺のごろつきが金に困ってハンターになる時代だ。
特に資格や免許は必要ないだろう。
ただ実力がなければ、返り討ちにあって命を落とすというだけで。
「ヴァンパイアを殺して政府に届ければ金が出る。それでハンターだろ」
「それはそうだが」
ゾロは眉を顰めたままモグモグと咀嚼した。
どうも不満らしい。
「てめえは確かに強え、だがそれは人間に対してだけだ。俺でも吹き飛ばすような強靭な蹴り技を持ってたとしても、相手に当たらなければ意味がねえ」
「てめえの刀なら斬れると?」
「俺に限らず、ハンターが持つ刀はすべて海楼石が仕込まれている」
ヴァンパイアの霧化を阻み、確実にダメージを与えられる魔石だ。
「なら俺も刀の扱いを覚えれば、なれるだろう」
刃物の扱いは得意だ。
ただ、それを料理する以外に使うことに抵抗がないとは言い切れないだけで。
「てめえに、できるのか?」
ゾロはテーブルに肘を着き、真剣な眼差しで問うて来た。
その声は低く落ち着いていて、からかいも蔑みの色もない。
「“餌”としてでも、ヴァンパイアに可愛がられ愛されて育ったてめえだ。それが、ヴァンパイアを狩りの対象にできんのか?」
「できる」
サンジは毅然として言い返す。
「ジジイは確かに大ヴァンパイアだったが、多分ヴァンパイアの中じゃ特殊だったと思う。大体“餌”に情が移って食を断つなんて、あっちの世界じゃありえねえことだろう。だから、俺は確かにジジイに恩を感じてヴァンパイアに対しても負のイメージはあまり持ってねえけど、大切な人を奪われる哀しさや悔しさは、俺にだってわかんだ」
そう言ってから、目を伏せた。
ゾロの顔を真っ直ぐ見ないのはゾロに対しての気遣いなのか、サンジ自身の負い目なのか。
いずれにしろ、サンジはもう恨みや敵意を露わにする演技すら放棄したようだ。
「普通のヴァンパイアは情け容赦なく人間を殺す。今まで幾多の人間がその毒牙にかかって命を落とし、悲しい別れが幾つもあった。それは今も、続いている」
ヴァンパイアは滅ぼさなければならない。
人間を食料にしている限り。
「だから俺は―――」
「てめえにゃ無理だ」
サンジが言い終わる前に、ゾロはきっぱりと遮った。
「なんで!」
「確かに、“餌”のてめえ自身がハンターになりゃ結構な稼ぎになるし、俺の傍を離れても一人でやっていけるがな」
ゾロの意外な言葉に、サンジは目を剥いた。
「俺は一人でやってく気はねえぞ。てめえに“餌”として使われるだけじゃなく、一緒に狩れればいいと思ったんだ。くいなちゃんみてえにはできねえかもしれねえけ・・・」
ゾロの目の光が一瞬きつくなった。
はっとして口を閉じる。
「・・・なんでお前がくいなのことを、知ってる」
感情のこもらない、平坦な声だ。
それなのにこちらを見つめる双眸には、明らかな怒りの色が浮かんでいた。
「エースか、あいつが余計なことを?」
声音はあくまで柔らかい。
サンジはゾロに睨まれたまま、こくこくと頷いた。
「何を吹き込まれたか知らないが、てめえはあくまでただの“餌”だ。俺と一緒に狩りをする必要はねえ」
ゾロはガタンと椅子を鳴らして立ち上がると、サンジの横をすり抜けた。
「パートナーは、あいつ一人で充分だ」
そういい置いて、部屋から出て行く。

サンジはテーブルに着いたまま振り返らず、ゾロの足音が遠退いていくのを聞いていた。
―――パートナーは、あいつ一人で充分だ
ゾロの声がいつまでも耳について、離れない。




ゾロが行ってしまってから、サンジはどこにも出かけられず一人で部屋の中で過ごした。
食料の買い足しにくらい出掛けたいが、日光も平気なハーフ・ヴァンパイアがいる以上、不用意な一人歩きは避けた方がいい。
また昨日みたいに魅惑的なヴァンパイア美女に誘われでもしたら、やはり今の自分じゃその毒牙にかかるほかないだろう。
――――お前に、ヴァンパイアが狩れるのか
真に問われたら、答えはNOだ。
気持ち悪い野郎ヴァンパイアなら躊躇いもなく殺せるけれど、女性や子どもが相手ではどうしたって腕が怯む。
その隙を突かれて捉えられたら、“餌”である自分はもう抵抗できない。
そういう意味でも、ヴァンパイアを引き寄せられてもそこから狩りに転じるのは相当難しいだろう。
何より快楽に弱い自分の体質は、もう嫌というほど知り尽くしているのだし。

「凹むなあ・・・」
やはり、ゾロの傍にいて“餌”として使われる以外生きる手立てはないのだろうか。
今まではヴァンパイアに飼われていて、今はハンターに飼われる。
“餌”の宿命に抗えはしないのか。
一人、部屋で煙草を吹かしながらサンジはソファに深々と寝そべった。
密閉された部屋では、紫煙は立ち昇り天井に溜まるだけでどこにも流れては行かない。
まるで行き場をなくした自分のようだ。

サンジはふと顔を上げて、部屋を見渡した。
豪奢な作りの広い部屋。
天井から下がるシャンデリアは煌びやかで、書棚には綺麗な装丁の本が並び、家具の一つ一つに瑞を凝らしている。
この部屋に住んでいた女性も、こうして一人でひたすら主を待っていたのだろうか。
壁に掛けられた大きな姿見。
そこに美しく着飾った己を映し出し、愛しい人の帰りを待ちながら輝く髪を梳いたりしたのだろうか。
なぜかサンジには、この部屋の主は愛し合っていたというイメージしか沸かなかった。
キッチンもよく手入れされていたし、生活に必要なものは全て揃えられ大切に使われていた形跡がある。
“餌”として飼われた憎しみや悲しみ、憤りが露ほどにも感じられない、ささやかな“巣”のような温かさ。
愛し愛されていたんだと、過去の名残が如実に物語っている。
――――俺はこの部屋で、ゾロに愛されただろうか
愛された、と今でも思う。
彼の手は彼自身の言葉より能弁に、サンジに想いを伝えてくれていた。
決して自惚れや勘違いなんかじゃないとサンジの身体は言っている。
それなのに、ゾロの変貌がサンジには理解できない。
―――パートナーは、あいつ一人で充分だ
何度もリフレインするゾロの捨て台詞に、サンジの胸はキリキリと痛んだ。
これが嫉妬だということも、わかっている。




夕暮れになって、ゾロは誰かと一緒に帰ってきた。
もしかしたらエースかもと、予め多めに夕食を用意していたサンジは得意気に振り返り動きを止める。
ゾロの後ろにいたのは、見知らぬ男だ。
「始めまして、あんたがサンジかい」
特徴のある節で飄々と話す男だ。
つるりと剃りあげた頭の上にだけ、ちょこんと乗せたように毛が生えている。
威圧感を感じさせないとぼけた感じの表情は、ちょっとエースに似ていた。
「エースのハンター仲間で、マルコってんだよい」
よろしくと手を掲げ、勝手に部屋に上がりこんでテーブルに着いてしまった。
「昼間に一人で来てもよかったんだが、あんたとは面識ないから怪しまれると思ってよ。ゾロを探して一緒にと連れ帰ったんだよい」
ゾロは相変わらずの仏頂面で、後から扉を閉めて億劫そうに入ってくる。
「エースはどうしたんだ」
「別の場所に張り込みに行ってる。俺が代わりに打ち合わせに来たんだよい」
ここに来ればご馳走にありつけると思ってよ。
そう言って笑うマルコは、エースとよく似た柔和な笑い方をした。

結果的に、エースの分まで用意していた夕食は綺麗に平らげられた。
このところ立て続けに、自分の料理を誰かに食べ尽くして貰える喜びにサンジの胸は躍っている。
ゾロがずっと不機嫌そうなのも気にならない。
恐らくは、捨て台詞を残して出て行った気まずさを一人で感じているのだろう。
「いやあ美味かった。エースが言った通りだよい」
「口に合ってよかったよ」
今度は酒を取り出したゾロの前にグラスを用意している間に、マルコはシンクまで皿を下げてくれた。
エースと同じようにマメでよく気が付く男だ。
「それで、打ち合わせってのは?」
サンジが話を促すと、マルコは美味そうに酒で喉を湿らせた後ゆっくりと口を開いた。


「西の国からこの街に入り込んだと思われる、砂王の話は聞いてるかい」
「エースから、少しだけ」
「ゾロは?」
いきなり振られて、ゾロは酒瓶を逆向けたまま片眉だけ上げて見せた。
「ゾロだって知らないと思うぜ。なんせ適当に流れては狩るだけで、計画性も何もねえもの」
サンジの軽口にじろりと視線を投げてきたが、その表情は幾分和らいでいた。
「なるほど、図星ね」
ついでに俺は仲直りのきっかけになるかねえと一人ごちて、マルコは片付けられたテーブルの上に地図を広げた。
「昨日、ゾロが盛大に狩ってくれた酒場がここだ」
この部屋からさして遠くない場所に、赤い丸を付ける。
「その酒場のオーナーは最近株を上げている貿易会社の系列だった」
「会社?」
「西の国でも商いをしていた、バロック・ワークスって会社だ」
知ってるか?とサンジに問われ、ゾロは素直に首を振った。
世間的なことに疎いのはお互い様だ。
なにより、こうしてわだかまりなく会話を交わせることに、内心お互いにほっとしている。

「ハーフ・ヴァンパイアの一族が西の国の街を一つ滅ぼしたという情報があっても、実際にうちの街にどれくらい入り込んでるか、まったくわかりはしなかったよい。それを昨夜みたいに、多少乱暴ながら炙り出してくれたのは大手柄だったな」
「多少・・・ね」
サンジは肩を竦めながら、ほかに印がついた箇所を指で辿った。
「んで、そのバロック・ワークスって会社がヴァンパイア達の組織だと、そう踏んでるわけ?」
「単純だが、その通り。このバツ印は会社の系列で営業されてる店だ」
バーに娼館、遊戯場に宿屋だという。
「貿易会社なのに、夜の商売が多いな」
「あくまで出資してるって話だけどよい。港にあるでかい会社からは常に船が行き来してるが、夜の航海が多い」
あからさまに怪しいなとゾロが呟く。

「それで、俺はどうすればいい?」
これは俺に持って来た仕事だろうと、サンジは煙草を取り出しながら水を向けた。
「あんたには、“餌”として奴らを誘き出して欲しいのさ。手始めに、このバツ印がついてる辺りをウロついてもらいたい」
「そんなんで、引っ掛かるかな」
「なに、ヴァンパイアの本性に賭けるまでよい」
あんたは相当美味い匂いを放つらしいからと、マルコはカラカラと笑う。
「エースは貿易会社の方を張ってる。こないだ酒場で大量虐殺・・・もとい、大掛かりな狩りがあったところだから奴らもそう表立った動きはしないだろうし、慎重にもなってるだろう。そこであんたは、この区域で普通の生活をして欲しいんだ」
「普通の生活?」
興味をそそられたのか、サンジは心持ち身体を起こした。
「ヴァンパイアの元を逃れ、“餌”であることを隠しながら必死で人間として生きようとする男だよい。それを演じて欲しい。無論一人で」
「無茶だ」
ゾロは気色ばんで口を挟んだ。
「こんだけ派手な野郎がほんの数日でも“普通”に暮らせる訳ねえじゃねえか。早々にヴァンパイアに掛かって終わりだ」
「ハーフやクオーターは滅多なことじゃ誘惑に負けないよい」
「問題はそっちじゃねえ、こっちのが我慢が足らん」
「なんだとう!」
サンジは真っ赤になりながら、乱暴に灰皿に煙草を押し潰した。
言い返したいが、何も言い返せない。
「もうちょっと信用しちゃってもいいんじゃねえかよい?」
「できるか、仇である俺の誘いにもホイホイ乗るような男だぞ」
「・・・てめっ」
サンジは今度こそ椅子を蹴って立ち上がった。
そのまま掴み掛かろうとするのを、間に入ったマルコが意外なほどの強い力でまあまあと双方抑える。

「その強気ならサンジは大丈夫だよい。いいかゾロ、純粋なヴァンパイアと違ってハーフやクオーターは塵化しねえ。つまり、サンジの抵抗も効くんだよ」
サンジの方がはっとしてマルコに振り向いた。
「そうか、俺の蹴りも有効なのか」
「そうだよい、んでもってこの組織は頭である砂王以外はみな純粋なヴァンパイアじゃねえ、ここはサンジの出番だろう」
「しかし―――」
「てめえは黙ってろ腐れマリモ!」
サンジは腹に力を入れて怒鳴った。
「これは俺の仕事だ。てめえがなんと言おうと俺は引き受けるぞ」
しばしギリギリと睨み合ったが、先に視線を外したのはゾロだった。
「勝手にしろ」




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