空の深淵 -5-


「それじゃ、組合に行って来るよ」
「行ってらっしゃい」
そう言って戸口で送り出したら、ゾロがすかさず異議を唱えた。
「違うだろ、ここはお前の家じゃねえ」
「硬いこと言うなよ」
サンジの肩を抱いてキスでもするように顔を近付けるエースの背中を、乱暴に鞘でどつく。
「いったいなあ」
「今夜は帰ってくるなよ」
「さあね」
塩でも撒かれそうな勢いで追い出された
それでも機嫌よくスキップでもしそうな軽い足取りで、エースは閉店している酒場の裏口から表通りへと出て行く。
それを見送ってから、サンジはさてとテーブルの後片付けを始めた。

エースが去って、途端部屋の中は硬い雰囲気に包まれた。
ゾロと二人きり・・・
ゼフの城から出て以降、ずっと二人で旅をしてきたはずなのに、なんだか妙に意識してしまって居心地が悪い。
なんというか、エースがあからさまにサンジにアピールしてきたからだろうか。
―――ゾロは別に、いつもと変わらないのに。
凝り固まった首をほぐすように回してとりあえず洗い物を始めたサンジの後ろで、ゾロもまた手持ち無沙汰でベッドの上に転がっていた。
どうもエースのせいで妙にサンジを意識してしまうようになった気がする。
ぶっちゃけ“餌”の生態を聞かされたせいか、今後また二人で狩りをした後の対処について真剣に考えていたりして。

サンジは、怒るだろうか。
嫌がるだろうか。
それが当然だろうとは思うし、ゾロだってただの親切心でどうこうしてやろうなんて思っている訳ではない。
というか、多いに刺激されているのは下心の方だ。
堂々と手を出せる大義名分ができたというか。
だからと言って、それにほいほいと乗っかるのもなんだか癪だし。
とは言えこのまま無防備なサンジを放置して、うっかり横からエースに掻っ攫われるなんて論外だし。

客観的に見て、自分がサンジを慰める行為に関してはまったく抵抗は感じなかった。
別にそっちの趣味がある訳ではないが、最初に会った時から美味そうな奴だと本能的に察知していたのだ。
ヴァンパイアが餌を見る目ではなく、欲望を刺激される類の匂いがサンジからはする。
それが自分にだけ特別なのかどうかは、ゾロにはわからない。
でもエースがあれだけあからさまなアプローチをしてくるなら、それなりに“普通”のことなのかも知れない。
けれど、エースは元々男女に拘らず博愛精神が旺盛だと自分でも吹聴していたし。
あれを基準に物事を考えると、道端の蛙だって性愛の対象になりはしないかとか、いらぬ心配までしたりして―――


「おいゾロ」
「ん?ああ?」
気が付けば、サンジはベッドの箸に腰掛けてゾロを見下ろしていた。
「お前また寝る気じゃねえだろうな。今夜も俺たちで狩りをする予定がないんなら、昼間は起きてた方がいいんじゃねえか」
「別に、寝る気はねえよ」
言いながら勢いよく起き上がる。
スプリングが跳ねて、サンジの身体がゾロの方に傾いだ。
胸で受け止める形になって、咄嗟に出かけた腕を意識して引っ込める。
サンジの肩が,心持ち後ろに引いた。
こいつも意識してんのかと気付いて、喉の奥辺りが一瞬かっと熱くなる。

「街に、出るか」
唾を飲み込んで、ことさら億劫そうに立ち上がった。
サンジはまだベッドの上に座り、そんなゾロを見上げている。
「エースが言ってたろう。ハーフやクオーターは昼間でも平気な顔で出歩いて、餌がいても涎を垂らしやしねえって」
「ああ」
「ほんとにそうか、試してみようぜ」
「どうやって」
目を丸くするサンジに、お前がと指を刺す。
「とりあえず、街をぶらぶら歩いてみろ。辛抱ならねえ奴は、昼間でも引っ掛かるだろう」
「そんなに上手く行くもんかね」
サンジは自信なさげに呟きながらも、他にすることもなしとゾロの後に続いた。



外に出て見れば曇り空で、今にも一雨来そうな天気だ。
陽射しが弱ければ弱いほど、ヴァンパイアの活動は活発になる。
「純血種は無理でも、ハーフやクオーター辺りならウヨウヨで歩いてそうな日だ」
ゾロはそう言うと、片頬だけ歪めるようにして暗い笑みを浮かべた。

それほど長い付き合いではないが、寝食を共にして最も身近にいるはずなのに、いつまでも理解できない。
ゾロは基本、物事にこだわらないあっさりした性格だし、いわゆる“人間”には無害なタイプだ。
勿論ガラの悪いのやごろつきだっているから喧嘩を売られれば買うが、殺しはしないし深手も負わせない。
正義感ぶることはないが、女、子どもや年寄りには当たり前のような優しさを見せる。
強面で無愛想だからそれとは気付かれないけれど、一緒にいればサンジにだってそれくらいわかった。
人間として、ゾロは悪くないと思う。
寧ろかなり“いい人”だ。
至極真っ当な感性を持っていて、本人の生活態度と迷子気質は非常識だが、それ以外は常識を保っている。
そんなゾロなのに、なぜかヴァンパイアに関してだけは常軌を逸した反応を見せた。
常に殺すことだけを考えている殺人鬼のように、目をぎらつかせ薄ら笑いさえ浮かべて、呪いの言葉を吐き蔑む。
その豹変振りにはいつまでも慣れず、寧ろ毎回戦慄を覚えるのだ。

何がゾロをそこまで掻き立てるのか。
復讐心であろうことは間違いないが、時にゾロはサンジ自身にも冷たい目を向ける。
ヴァンパイアに関わった者は“人間”であろうと“餌”であろうと、お構いなしに皆殺しにしてしまいたい衝動をひた隠しにしているようで、サンジは恐ろしいと思うより哀れさが先に立った。
ゾロは復讐にだけ取り憑かれている。
人生を豊かに生きることや、快楽を貪欲に求めることよりも、ただひたすらにヴァンパイアの死を願い、血に餓えた獣のように獲物を追い求めて―――

「本気で降って来たぞ」
ゾロの声に我に返れば、ポツポツと顔に冷たいしずくが落ちていた。
見る間に黒い雲が空を覆い、足元の石畳が濡れて色を濃くしていく。
「どっかに入るか」
街歩きは止めだと促され、路地から裏通りへと入る。
目に付いた酒場は昼間でも空いているようで、ゾロはためらわずその中に入った。
また酒かよと、うんざりしながらサンジも仕方なく続く。

「いらっしゃい」
昼間なのに薄暗く気だるい雰囲気に包まれた店は、酒と煙草の匂いが立ち込めていた。
黒い巻き髪の女が際どい服を着てカウンターの中から微笑む。
ぽったりと厚い唇が扇情的だ。
「なんって素敵な店なんだ、急な雨は君に出会うために降らせてくれた天からの恵みだったんだね!」
サンジがいきなり頓狂な声を上げ、大げさな身振りで一歩踏み出す。
ゾロはああと額に手を当てて嘆息した。
幼い頃からヴァンパイアの元で日陰に育てられた反動なのか、原因は不明だが、サンジは女性に対して過剰に反応する悪癖がある。
そしてゾロはそれを止められない。
「お上手ね」
「やだな、俺は本気だよ」
女のしなやかな手が伸びて、綺麗に磨かれたグラスを取り出す。
「ご注文は」
「そうだね、君のオススメを」
サンジはすっかりその気になって女の前に座り、カウンターに両肘を着いた。
「私のオススメはきついわよ」
「アルコールなんていらないさ、君の香りだけで酔ってしまいそうだ」
サンジはうっとりと目を細めた。
その顔を、女は煌くような黒い瞳でじっと見詰めている。
赤い唇の端が釣り上がり、にっと笑みを浮かべた。
眇められた瞳は、暗い店内を照らすランプの灯りを弾いて妖しく光っている。

―――ビンゴかよ
ゾロはサンジの隣にさり気なく腰掛けながら、口元に浮かぶ笑みを隠した。
「きつい酒は俺にくれ」
女は頷き、不必要なほど腰をくねらせて背を向けた。
昼間でも暗い店。
妖艶な美女。
二人連れで入ったのに、女は最初からサンジにしか目を向けなかった。
その場で襲わないよう我慢ができるとは言え、意識が集中してしまうのは抑えきれないのだろう。
―――しばらく、泳がせるか
気配だけを探れば、店内のそこかしこからサンジに向けた意識が感じられる。
客にもまた、ヴァンパイアの血を受け継ぐものがいるらしい。
人間も入り混じっているから、すべてを薙ぎ払って血の海にしてしまう訳には行くまい。

「おまたせ」
赤く色付いたマニキュアを煌かせながら、女はサンジの手を取るようにしてグラスを渡した。
「ありがとう、君のその美しい瞳に乾杯」
「うふ、ありがと」
見詰め合ってグラスを合わせる二人を置いて、ゾロは先に杯を開けた。
「なんだ、水みてえだな」
グラスを空けるなり、不愉快そうに眉を顰めて女に突き返す。
「あんだとお?マリモのクセになに生意気言ってんだ」
「は、酒は俺のが詳しいんだよ。この程度の濃さじゃ俺は酔えねえ」
そう言って立ち上がる。
「店を替えるぞ」
「は?なに言ってんだ、冗談じゃねえ」
「ならてめえ一人で飲んでろ」
ゾロはあっさりそう言うと、腹巻から紙幣だけ手渡してとっとと店を出てしまった。

「なんだあいつ…」
「乱暴な方ね」
女の呟きに、サンジは慌てて振り返る。
「あああ、いつもああじゃないんだけどね。時々突拍子もないこと言ったりすんだよ、がさつでごめん」
「貴方が謝ることないのに」
女は向き直り、カウンター越しに肘を着いてサンジに顔を近付けた。
「私、紳士的な人の方がスキ」
「そう?安心した」
にっこりと笑いながら、サンジはグラスを傾ける。
「ゆっくりしていって頂戴、これは私の奢りよ」
別のグラスを差し出して、女は妖艶な笑みを浮かべた。



少し酔ったみたいねと、耳元で甘く囁かれサンジはゆっくりと首を巡らせる。
視界がぼやけて、上の方がぐるぐると回っている。
それほど酒に酔っただろうか。
カウンターから立ち上がろうにも膝に力が入らなくて、横で支える女の身体に凭れてしまった。
「ごめんね、重いだろ」
「いいえ大丈夫よ」
立てる?と優しく囁かれ、首を振った。
立てないし、よく見えない。

「奥の部屋で休んで行くといいわ」
サンジの身体がふわりと横抱きになった。
視界の隅で、女は優しい笑みを浮かべている。
まさか彼女にサンジを抱き上げる力があるとは思えない。
他に誰か手伝っているんだろうか。
何人に抱きかかえられているのかも定かではなく、サンジはそのまま天井だけを見つめながら運ばれていった。

通された部屋は尚暗く、ろうそくの明かりだけが揺らめいていた。
柔らかなベッドの上に寝かされて、優しい仕種で髪を梳かれる。
香水の匂いが鼻腔を擽り、サンジはドキドキしながら辛うじて首を擡げた。
女はベッドに横座りして、寄り添うように肘を着いている。
大きく開いた胸元から、豊かな乳房の盛り上がりが間近で見えた。
「大丈夫?」
「大丈夫じゃ、ないよ」
綺麗に伸ばされた爪がサンジの髪を梳き、首筋から襟足を撫でた。
「せめて、君と二人きりなら良かったのに」
あら?と女は含み笑いをする。
「気にしないで」
「ギャラリーは、ごめん…だな」
君と二人で愛を語りたいのに。
そう言いたいけれど、もう声も出ない。
女の後ろの暗がりで、幾つもの目が光っている。

「順番よ、まずは私から」
そう言いながら、唇よりも赤い舌をちろりと覗かせた。
「吸い尽くさないように、加減できるかしら」
ボタンを外し襟元を開いて、白い手を差し入れ肩口を撫でる。
サンジはベッドに仰向けになったまま、ゾクゾクと身を震わせていた。
女の掌で触れられるだけで大きな快楽の波が押し寄せ、どうしたって期待に胸が膨らんでしまう。
早く―――
―――早くあの唇が、欲しい

「いいコね」
鎖骨から首元にかけての肌を露わにして、女は顔を近付けた。
長い舌を伸ばして、下から上へとゆっくりと舐め上げる。
「あ・あ…」
サンジは背を撓らせて身震いした。

突然闇を切り取るような光が走り、背後から悲鳴が上がる。
はっとして顔を上げた女の首を、サンジは咄嗟に抱きかかえ身体を捻った。
サンジの髪を数本薙ぎ払い、刀が空を切る。
「やめろ!」
制止の声など聞かず、ゾロは懐に突っ込むようにして女の腹に刀を突き立てた。
「あうっ!」
短い悲鳴が上がり、髪を振り乱しながらベッドの上に倒れこむ。
流れ出した血でシーツが見る見るうちに赤く染まり、女は苦悶の表情を浮かべながら呻いた。
「へえ、塵にならねえのか」
女と一緒に倒れこみながら、サンジは不自由な身体を必死で動かしてその上に被さろうともがく。
「ゾロ、ダメだっ!殺すな」
「退け」
遮られた手を払い除け、女の首に刃を走らせる。
新たな血が迸り、サンジの視界を赤く染めた。
「あ…あ―――」
声もなく倒れたサンジの隣で、冷たくなった女は白い目を見開いている。

「死んでも塵にならなけりゃ、紋章の探しようがねえな」
ゾロは血糊を拭って刀を鞘に収めると、やれやれと肩を竦めた。
その足元には幾つもの死体が転がっている。
中には塵化して、紋章が残っているものもあった。
「これじゃあ、ヴァンパイアを殺ったのか人間を殺ったのか区別がつかねえ。厄介だ」
どこまでも冷静なゾロの声を遠くに聞きながら、サンジは意識を失った。



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