空の深淵 -3-


エースに連れてこられた先は、どこにでもあるような酒場だった。
開店前のカウンターにいる主人に声を掛け、倉庫に続く階段を下りる。
突き当たりの扉とは別に反対側にもう1枚、岩肌と同じ色をした扉があった。
そこを勝手に開けて中に入る。

エースは何処から出したのか、廊下に並べたランプに明かりを灯した。
石造りの堅牢な廊下が浮かび上がったが、奥は暗くて先が見通せない。
まだ昼間なのにひやりとした冷気に包まれた。
「あれ?」
サンジは足を止め、一歩踏み込んだ場所から後ずさりして扉から出る。
上を見上げてからもう一度歩いて再び扉をくぐった。
「なんだろ、ジジイの城になんか似てる」
「お、よくわかったね」
エースはどこまでも飄々として軽い口調だ。
「この扉には結界が張ってあるんだ。対ヴァンパイア用のね」
「へえ」
「そうでないと、通りすがりのヴァンパイアが“餌”の匂いを嗅ぎつけちゃうでしょ。ここにいるとサンちゃんは安心なんだ」
「お前よく、こんなとこ知ってたな」
ゾロの呆れたような声に、エースはちちちと人差し指を振って見せた。
「少なくとも、この街でのキャリアはお前と段違いだぜ。流れハンターのお前は行き当たりばったりでしか狩りをしてねえだろう」
だからハンター同士の組織や規律にも無頓着だ。
勝手にやってきて気まぐれにヴァンパイアを狩り尽くすゾロの存在を、忌々しく思っているハンターも多い。

「俺が何度忠告してやっても態度を改めねえ。サンちゃん、こんな奴の傍にいたらいらないとばっちり食うよ、俺に乗り換えなよ」
腰を抱き寄せられそうになって、サンジはするりと身体をかわした。
「もう散々とばっちり食ってるよ。あちこち連れ回されて扱き使われてる」
「安住の地がないのは、辛いだろ」
二人の会話の間で、ゾロは憮然としたままだ。
ゾロ自身どこにも定住しないで、ずっと一人で旅を続けてきていた。
この先もどこかに落ち着くつもりはない。

「俺となら、ここで落ち着いて暮らしていけるよ」
豪奢な装飾がなされた重い鉄の扉を開くと、部屋の中の灯りがぱっと一斉に灯った。
眩しさに目を細め、それから驚愕に目を丸くする。
「すげえ・・・」
「だろ?」
どこか自慢げに言って、エースはサンジの前から退いた。

地下とは思えないほど広く明るい部屋がそこにあった。
花柄の壁紙、柔らかな色の天井に豪華なシャンデリア。
飾り窓には、たっぷりとドレープを取ったレースのカーテン。
品の良い調度品が設えられ、中央には天蓋付きのベッドがどんと据えられている。
「ジジイの城でも、ここまで豪華じゃなかったぜ」
「豪華っつうか、これ女の部屋じゃねえか」
仄かに匂う花の香りに眉を顰め、ゾロは痒そうに後ろ頭に手をやった。
「そうさ、ここは元々、もう20年以上前に死んだ大ヴァンパイアの“餌”だった女性の部屋だ」
「ここが・・・」
サンジは明るい窓辺にそっと近寄った。
カーテンを捲ると、出窓の向こうは壁で塗りこめられ、外の光は一切差さない。
けれど暗くならないよう、人口の光で明るさを保っていた。

「ここならサンちゃんは襲い来るヴァンパイアに怯えないですむよ。まず絶対に嗅ぎつけられない」
「別に怯えてなんかねえ」
ただ鬱陶しいだけだと付け加えると、そうだねごめんとエースは素直に詫びた。
「ともかく、安心して暮らせるだろう。ゾロに引っ張りまわされてあちこち放浪することもないし、ここだと入念に作戦会議も立てられる」
そう言いつつサンジの肩を軽く押して、二人雪崩れ込むようにベッドの上にダイブした。
「ほらね、こんな風に親密に」
スプリングが効いたベッドに埋もれるサンジの肩を押さえ込んで、エースは上から圧し掛かった。
背後でゾロが鯉口を切っている。
それとほぼ同時にサンジの膝がエースの腹に打ち込まれた。

「―――がっは?!」
「重いんだよ」
靴の踵で厚い胸板を押し退けてベッドの脇に転がす。
エースは軽く咳き込んでから、横たわったままケラケラと笑い出した。
「参ったな、益々気に入っちゃった」
一人でニヤついているエースを気味悪そうに眺めながら、サンジはベッドの上に胡坐を掻いた。
「持ち主のレディは、どうしたんだ」
「もう死んだよ、それも10年以上前の話だ」
「お前が言っていた、見たことのある“餌”ってのはそれか」
口を挟んだゾロに、エースは一瞬表情を強張らせてからそうだと応えた。
「それからずっとここは空き部屋に?そんなことないな、すごく綺麗だ」
「なんせ大ヴァンパイアの遺物だから貴重な場所だ。結界だって立派なもんだし、何かコトがあれば必要だってんで政府が維持管理していた。つか、俺も時々別荘代わりに使ってる。サンちゃんの塒には打ってつけだろう?」
確かに、現役の“餌”でもなければ、使い道がない場所ではある。

「ってことで、これからここで俺と暮らそうよ」
「「なんでそうなる」」
ゾロとサンジは同時に振り返って声を揃えた。
「俺の塒にもすりゃあいいじゃねえか。毎晩宿に泊まってたのがこの部屋に変わった、それだけのことだ」
「俺はサンちゃんにこの部屋を提供したんであって、ゾロは誘ってねえぞ」
「こんだけ広けりゃ一人住もうが二人住もうが一緒だろうが」
「そんなこと言って、一つきりのベッドで悪さしようってんじゃねえだろうなあ」
額を突き合わせて言い合いを始めた二人を置いて、サンジは部屋の隣の間に足を踏み入れた。
小さいながらもきちんと機能する台所がついている。

「ここで料理、できんのか?」
「ああ、俺もたまにここ使ってっから、自炊もできるぜ」
「へえ、この部屋で一人で寝てんのか」
挑発するゾロに、エースはにやんと悪い笑みを返す。
「いつも一人とは限らないよ。でもサンちゃんが暮らしてくれるなら、これからはサンちゃん一筋で」
「だからなんでそうなる」
また小競り合いを始めた二人を無視して、サンジは水道やオーブンなど点検した。
なんと最新式の冷蔵庫も完備だ。

「気に入った、ここ使わせてくれるか?」
「勿論、大歓迎!」
「その代わり“餌”として働かされるぞ」
「てめえにタダで働かされるよりずっといい」
即座に言い返され、ゾロはむっとして黙ってしまった。
してやったりとばかりにエースがニヤニヤしている。
「やっぱり。ゾロの傍にいたってサンちゃん的にはなんのメリットもないだろ。俺と組もうぜ」
その申し出にはきっぱり首を振った。
「俺は、こいつの首取るために張り付いてんだ」
「・・・ってことは?」
「俺も一緒にここに居座る」
当然のように後を継いだゾロに、エースは子どもっぽい仕種で足を踏み鳴らした。
「なんでそうなる?!」
「仕方ねえだろ。それより、晩飯とか作ってもいいかな」
早速やる気で腕まくりをし始めたサンジに、エースが「え?」と首を伸ばした。
「なに、サンちゃん料理できんの?」
「まあ・・・少しは」
「そりゃ楽しみだ、早速晩飯にありつきたいな」
「まだ食うのかよ!」
ゾロの突っ込みもエースの文句も、サンジの耳には軽いBGMだ。
自分の手で調理できる喜びで、胸が躍っている。




持ち歩く程度の荷物しかないから、一時とは言え塒を確保できても身軽なものだ。
早速着替えを持ち込んで、それなりに暮らしやすいよう整える。
ベッドが一つしかないのは難儀だけれど、ゾロはいつでも壁に凭れて眠っているから支障はないだろう。
ゾロはしばらく昼寝すると言って部屋に居残り、エースと二人で買出しに出かけた。
今日会ったばかりの男だが、人の懐にするりと入って来るような適度な厚かましさと警戒心を薄めるような無防備さを併せ持っていて、却って油断できない。

「サンちゃんはさあ、ハンターの“餌”に使われること、抵抗ないの?」
ブラブラと市場を歩き、いつの間にか手にしていたリンゴを齧りながらエースが聞いてくる。
「抵抗もクソも、それしか俺が生きる道はねえじゃねえか」
齧り差しのリンゴを差し出され、掌を掲げて丁重に断った。
「まあね、言っちゃあそうなんだけどさあ」
しゃくしゃくリンゴを咀嚼しながら、ちろりと目線だけを投げ掛ける。
「ゾロの首狙ってるってことは、育ててくれたバラティエ公に恩義を感じてんだろう。同じヴァンパイアを狩るハンターのことも、ほんとは憎いんじゃないのか」
「俺が恩義を感じているのはジジイだけだ。別にヴァンパイアだからってんじゃねえ」
サンジは煙草に火を点けると、横を向いてスパーと鼻から煙を吐いた。
「ゾロは仇だから殺してやりたい。それだけだ、他のヴァンパイアがどうなろうが知ったこっちゃねえ」
「なるほど、実にシンプル」
エースは満足そうに目を細め、リンゴの芯までぼりぼり食べて指を舐める。
「それなら、無事仇を討った暁にはどうする気?」
サンジは足を止め、エースを振り仰いだ。
エースは相変わらず柔和な表情で微笑んだままだ。
「ゾロの首を取って、俺だけが生き延びて?」
「そう」
「…そん時は、あんたの世話になろうかな」
意図せずして平坦な声になった。
空々しい響きが勝手に口から漏れる。
「そりゃ嬉しい、実は俺も常々あいつのことが目障りで仕方なかったんだ」
エースは手を打って、そっとサンジの耳元に口を寄せる。
「二人で殺っちまおうよ。なあに、あいつはサンちゃんに対して油断し切ってるから、できねえことはねえ」
「ね?」と他愛もない悪巧みでもしてるみたいに、軽く囁いた。
「・・・そうかな、俺といたって深く眠らないような奴だぜ」
サンジは白い顔のまま、口元だけ笑みを浮かべて首を振った。
「悔しいがあいつは強えよ。そう簡単に首なんか、取れねえ」
「ハートはもう、がっちり獲ってるみたいだけど」
エースの黒い瞳が正面から見据えた。
大きく見開いて、ぱちぱちと瞬きする。
その悪戯っぽい仕種に、からかわれたのだと気付く。

「なんだよ、てめえ・・・」
「へへへ、今度ゾロに言ってやろ。俺の誘いを真に受けたってね」
「ざけんな!」
「それでいて、本気で断ったってね。いやいや、そう言うとあいつは図に乗るから、やっぱり言わない」
子どものようにはしゃいでスキップするエースの尻を、サンジは思い切り蹴飛ばした。





日が暮れる前に街の市場は片付けられる。
サンジ達も早々に買い物を済ませ、しばらくの我が家となる地下の部屋へと戻った。
酒場は店を開け、気の早い客達がそこそこ入っている。
アルコールと食べものと、煙草の匂いが漂う気だるい空気の中を常連客のような顔をして通り抜け、カウンター横から扉の向こうへと入った。
鉄の扉の前で立ち止まり、一瞬ためらってから一応ノックをする。
そんな仕草を、エースはニヤニヤと眺めていた。
黙ってドアを開けて踏み込むサンジの後ろから、殊更大きな声で「ただいまー」と言う。
「おう」
今起きたのか、ゾロは壁に凭れたままかくんと首を傾げている。
「いつまでも寝汚い野郎だ」
呆れた口調のサンジよりもその後ろに立つエースをひと睨みして、それでも何も言わずに起き上がる。
「さて、何作るんだ?俺も手伝うよ」
「いやいいわ。それよりゾロの相手しててくれ」
「えー俺サンちゃんの相手したい〜。ゾロ、飯作れよ」
「なんでそうなる?」
「いいからもう座ってろ」
サンジに一喝されて、二人はしぶしぶ仲良くテーブルに着いた。



反目するようにお互い反対の方向を向きながら、エースは椅子をずらして背中からゾロへと歩み寄る。
「今回のプロジェクトは、この街のハンターがみな結束して当たる大掛かりなもんなんだが、お前も噛むか?」
「噛むもクソも、あれは俺の“餌”だ。勝手に使わせてたまるか」
「本人の意思は?ないがしろ?」
「本人が協力するつってんだろ、なら俺もそうするに決まってっだろうが」
「・・・素直なんだか、素直じゃないんだか」
中てられるね〜とぼやきながら、片手で顔を覆っている。
「まあいいや、お前が調子に乗ってバサバサ狩り撒くってるお陰で、ずいぶんヴァンパイアの数は減ってんだ。それどころか、当局が把握してる以上の数を狩ってやがる」
「そんだけ人間の中に紛れてるってことか」
「疑ってかかる訳じゃないけど、今通ってきた酒場の中にだってもしかしたらヴァンパイアが紛れてるかもしれねえんだ。油断はできない」
ゾロは真顔でどこか中空を睨んでいたが、そのままの表情でエースに振り返った。
「お前、食いだめができるタイプとかなんとか言ってたが、そう言うのが増えてんのか」
「ああ。陽の当たる場所も平気、美味そうな人間がいても涎一つ垂らさないで平然として、そうでいて夜にはガブリさ」
ゾロは嫌悪に顔を顰めた。
「なんだって、そんなまた・・・」
「ハーフだよ。ヴァンパイアと人間との子どもくらいならまだ人の血が濃いが、それがヴァンパイアと交わってクオーターにでもなれば、どんどんヴァンパイアの性質が濃くなっていく」
「馬鹿な」
ゾロは吐き捨てるように言った。
「“餌”と交わって孕ませるなんざ、正気の沙汰じゃねえ」
「誇り高いヴァンパイア貴族なら、そう言うだろうな。だが現実にはかなりの人数が人間と交わって子を成している。ヴァンパイアの女が人間の男と恋に落ちることだってあるんだ。この先、そうした人種が増えるだろうよ」
「それで、最後は人間同士で食い合いかよ」
ゾロは静かに、テーブルの下で拳を作った。
「実際、ヴァンパイア同士の婚姻で殆ど子を成せなくなってるって話も聞く。寿命が長いが故に繁殖能力は衰えてんだ。背に腹は代えられず、人間を使うヴァンパイアの例もある」
険しい表情で横を向くゾロの肩に、軽く手を置いた。
「どっちにしろ鼠算式に増えるもんじゃねえ。ヴァンパイアの数は確実に減ってきている。純粋種なら尚のことだろう。寧ろ、人間に淘汰される日の方が近いかもしれない」
そこまで言って、エースは乾いた下唇を湿らせた。

「ゾロの知り合いにだって、もしかしたらヴァンパイア・ハーフがいるかもしれないぜ」
きっと力のきつい眼差しがエースを見返した。
「もし、親しい奴がハーフだと知ったら、どうする」
「斬る」
ゾロの答えに、ためらいなどない。
「それが誰であろうと、ヴァンパイアの血を引く者はその存在を許さねえ」
「・・・シンプルだね」
エースはゾロの肩から手を引いて、ははと笑った。



next