空の深淵 -2-


外の喧騒をかすかに耳にして、サンジはぱちりと目を覚ました。
カーテン越しに昼の日差しが窓辺に降り注いでいる。
ベッドサイドの時計は11時を回っていた。
ぐっすりとよく眠ったようだ。
まだ少しだるい身体を擡げて、のそりと起き上がった。
明け方にチェックインしたから、チェックアウトは前もって延長で頼んである。
ゾロのことだから、このまま連泊にしているかもしれない。
そういうことは、割と手際がよくてよく気が付く男だ。

サンジは気だるげに髪を掻き上げて、目覚めの一服とばかりに煙草を咥えた。
締め切った窓の向こうから、うるさくない程度に外の喧騒が流れこんでくる。
生命力に溢れ、活気付いた賑やかさ。
人間達が住む場所に必ずある、生活の音。
長くヴァンパイアの棲む城に潜んで、夜毎に目覚め明け方に眠る密やかな暮らししか送ってこなかったサンジにとって、最初の内はすべてが喧しく煩わしかった。
人間同士だと言うだけで気を許すのか、無闇に声を掛け喋り、笑い合い、時に争う。
酷く優しくてあまりにも愚かな、他愛のない生き物。
子どもの頃はあれほど憧れた太陽さえ、自分の影の色濃さを浮き出されるようで嫌だった。
ゼフを失くしたあの日から、自分の全ては壊れると思っていたのに。
陽の当たる場所で息づく人々の生活に触れ、生身の人間を眺めている内に、これが「普通」のことかと思い至った。
人間であるなら、こちら側の世界の方が「当たり前」なのだ。
それを自覚し受け入れたことで、サンジの身体は急速にこちらの世界へ慣れていった。
けれど“餌”である立場上どうしても夜の警戒を怠ることはできず、昼夜逆転の生活は未だ続いたままだ。

煙草を1本吸いきったところで、ゆるゆると身体を起こした。
シャツを身に着けてはいるが、下半身は裸のままだ。
昨夜、この部屋に至る階段を昇っていたことまでは覚えているが、その後のことが記憶に薄い。
なんとか鍵は閉めたのか、扉はきちんと閉ざされている。
それからベッドに入って、服を脱ぐのももどかしく身悶えたのだろうか。
“狩り”をした後はいつもこうで嫌になる。
自分の身体が制御できない。

本当は、ゾロが助けに入ってくれない方がいいとさえ思っている。
ヴァンパイア達の生臭い息。
尖った犬歯が涎に光り、逸らされた首元に打ち立てられる瞬間を、身体の芯を疼かせながら待ち望んでいると言うのに。
あの目も眩むような快感。
全身を駆け巡る血の流れが一瞬止まり、全てが逆流する衝撃。
思い出すだけで息が荒くなり、頬が火照る。
あれほどの快楽を、サンジはいまだかつて知らない。
この先も、もう経験することはないだろう。
ヴァンパイアに魅入られると言うことは、こういうことなのだ。

幼い頃は、首に歯を立てられるだけで失神した。
目の前が白く光って、すべてがその白の闇に呑まれてしまう。
けれど年を追うごとに意識を手放す時間は短くなり、逆にゼフの“食事”の時間を心待ちにするようになった。
胸がドキドキして体温が自然と上がる。
その時を待ち構え、熱に浮かされたような瞳で己の飼い主を見上げていたのかもしれない。
気難しくて威厳に満ちたゼフは決して優しくはなかったが、サンジを虐げたり卑下したりすることはなかった。
寧ろ、吸血の快楽に溺れ始めた子どもを哀れに思っていたのだろう、いつからかサンジを見返す瞳には暗い影の色が浮かぶようになっていて。
“食事”の時間に初めて下着を濡らした日から、ゼフは指一本サンジに触れなくなった。

ゼフのことを思い返すと、サンジはいつも後悔の念に苛まれる。
己がいけないのだ。
血を吸われるくらいで嫌らしい快楽を覚える、この身体がいけないのだ。
あの日から、ゼフはサンジに触れなくなった。
食事も一切取らなくなった。
その代わり、サンジに料理を教えてくれた。
自分は食物を口にしないのに、それらを美味く調理することに長けていたゼフは、サンジにも常に美味い飯を食わせてくれていた。
こんな素晴らしいご馳走を食べさえてくれているんだから、今度は自分が“餌”となってゼフに美味いモノを食わせるんだと。
サンジにとっては当たり前だった食事のルールが、あの日以来ぱったりと途絶える。
ゼフはサンジを食わせるだけで、自らが食しようとはしない。
どれほど懇願しても、泣いて頼んでもゼフは頑なに吸血を拒んだ。
衰えていく老ヴァンパイアの元から離れる下僕は多く、いつの頃からか城は寂れ気が付けばゼフとサンジの二人だけが取り残されていた。
すでに“餌”となってしまったサンジを手放せず、かと言って“餌”ともできず、ゼフはただ眠り続ける。
偉大なるヴァンパイアの頑強な身体にも、死は緩やかに訪れた。

俺がバカだ、とサンジは思った。
今思うなら、サンジに囚われていたのはゼフの方だった。
もっと早くに気付いて、自分から離れるべきだったのに。
サンジを“餌”とできないのなら、別の餌を見つけるべきだった。
餌でなくとも、ゼフは狩りにでなければいけなかった。
下僕達が差し出す餌を、摂取しなくちゃいけなかった。
すべては側に、サンジがいたから。
そんな自分の存在に気付きもせず、ゼフの側に寄り添って自分を食えと必死で訴え続けた愚かさが、嫌になる。
早く城から出ればよかったのだ。
結界に守られた領域から一歩でも外に出れば、匂いを嗅ぎ付けたヴァンパイアどもが寄ってきただろう。
それらに身を任せれば、すぐにでも死ねただろうに。
そうすれば、今こんな風に仇のハンターの手先となって身を晒すことも、呼び起こされた快楽の名残で火照った身体を一人持て余すこともなかっただろうに。

思い返すだけで泣けてきて、サンジは己を両手で扱きながら涙と共に小さく射精した。
眠る前に散々出したのに、まだ身体の芯に疼きが残ってすっきりできない。
そんな感覚が日増しに強まっていくようで、自分の身体のことなのに訳がわからず恐ろしい。
わからないと言えば、ゾロもだ。
恩人の仇とは言え、サンジは本気でゾロを殺したいほど憎んではいない。
ゼフを手にかけたことは許しがたいが、どちらにしろもう長くは生きられなかった。
ゼフを追い詰めたのはゾロじゃない、自分自身だとサンジは知っている。
それでも、いつか殺してやると叫んだサンジを平気で側に置いて、随分と親身に世話をしてくれて。
疑いもせず見下すこともせず、当たり前のように一緒にいる。
ゼフが己を省みなかったように、ゾロもまた自分自身に無頓着だ。
彼を突き動かしているのは、ヴァンパイアに対する憎しみのみ。
時に、自分の命を狙うサンジの存在すら忘れるように、ヴァンパイアを狩ることだけに熱中している。
彼が秘めている闇の方が、己の境遇や過去への悔恨よりよほど深いとサンジは気付いていた。
だからこそ、彼から離れられない。
殺すためではなく、放っては置けないと思う。
自分を救い出してくれたことに対する感謝の念は露ほどもないが、彼が歩む道の傍らに立った以上、その行く末を見届けたいと思った。
そんな危うさが、彼にはある。

サンジはベッドから降りると、シャワーを浴び直して身支度を整えた。
さすがに腹が減った。
たまには自分で作りたいが、ゾロと共に宿屋を転々とする生活ではゆっくりと包丁を握ることもできない。
ゾロだって酒ばかり飲んで、ろくに食べてないんじゃないだろうか。
食わせてやりたいと思うのに、いつもその一言が言い出せない己の意固地さにも腹が立った。
しばらく“狩り”を休みにして、キッチンが付いた宿に腰を落ち着けるのはどうだろうか。
今日こそゾロに、そう言ってみようか。

カウンターでチェックアウトを告げると、やはり連泊できるくらいの前金を置いてあったらしい。
それは断って差額だけ返してもらい、宿を出る。
目ぼしい場所でまずは食事でもと首を巡らしていたら、見知った緑頭が誰かを連れて歩いていた。
「おい」
珍しく、向こうから気付いて声を掛けてくる。
まっすぐ宿に戻ってこれるなんて、奇跡じゃないのか?
若干感動して立ち尽くしているサンジの前に、ゾロの隣にいた男が先に近寄ってきた。
「こんにちは」
満面の笑みを湛え、両手を広げるような大げさな手振りで明るく挨拶してくる。
「俺はエースっての、ゾロと同業者だよ。いつも世話になってます」
そのままぺこりとお辞儀した。
不似合いなほど礼儀正しい仕種だ。
「はあ、こんにちは」
釣られてサンジも頭を下げて、で?とゾロを振り返る。
「飯食ってたら偶然会ってな。お前はどうだ」
「俺、今起きたとこ」
「じゃあ、一緒に飯を食おうか」
「お前は今食って来たとこだろうが!」
ぱっと目を輝かせたエースに、ゾロがすかさず突っ込んだ。
「あれは朝飯、今度は昼飯だよ」
信じられねえと額に手を当てるゾロを置いて、エースはさっとサンジの肩を抱いた。
「昼飯をぜひご一緒に、えーと・・・」
馴れ馴れしい手の甲をパシッと叩いて、サンジは軽く身を引いた。
「サンジだ、よろしくな」
火の点いていないタバコを咥えて顎をしゃくれば、エースはニヤンとだらしなく表情を崩した。

「おいおい、いいなあ。やっぱ極上じゃん」
「・・・どこがだ?」
結局ゾロもついてきて、さっきとは別の店に入る。
さすがにゾロは飲み物だけだが、サンジとエースは1人前ずつ頼んだ。
その胃袋に呆れながら、昼間から酒を傾ける。
「ゾロの同業者ってことは、俺のことも知ってんの?」
サンジから話を振れば、エースは素直に頷いた。
「もちろん。っつっても、今聞いたとこだけどね。サンちゃんの活躍は同業者の中でも評判になってたんだ。会えて嬉しいよ」
先ほどまでのゾロとの会話では“餌”としか称していなかったくせに、随分と現金なものだ。
勝手にサンジの隣に陣取って、不必要なほど肩を寄せている。
「想像してたよりずっと健康的で正直驚いている。毎日何かと大変だろ?」
「まあな」
先に届いた飲み物で喉を潤し、サンジは素っ気無く答えた。
「いいねえ、そのふてぶてしいくらいの強さ。さすがゾロの命を付け狙うくらいの覚悟はある」
エースの軽口に、サンジはじろりと対面するゾロの顔を睨んだ。
ゾロは横を向いて酒を飲んでいる。
「でもって余裕だね。いつでも寝首掻けるとか思ってんの」
「・・・」
答えないサンジの代わりに、ゾロは空のグラスを置いて割って入った。
「そう言ってたぞ。俺は直にやり合ってるから知ってるが、こう見えて相当強え。俺が寝てる間なら、首の一つもへし折れるだろうな」
「本気で寝たことねえくせに」
サンジが吐き捨てるように呟いた。
ゾロよりエースの方が、ぴくりと眉を上げて反応している。
「じゃあ、腕っぷしも相当なんだ」
「お待たせしましたー」
両手に皿を乗せたウェイトレスが、流れを断ち切るようにテーブルの横に立った。
昼時の店内は賑やかで、慌しい。
目の前に料理を置かれて、サンジは軽く会釈した。
こんな風に人の多い場所で食事をすることにもようやく慣れたけれど、人と接する時はまだ少し緊張する。
見知らぬ他人なら尚更で、こと女性に対しては妙に気を遣ってしまうから態度がぎこちない。

「まずは食事と、いただきまっす」
「・・・どんだけ食うんだ」
呆れたゾロの目の前で旺盛な食欲を示しながら、エースは頬袋を膨らませたままサンジを振り返った。
「へっへほほへへ、はんはん」
「食いながら喋るな」
スパーと煙草を吸い切って灰皿に押し付けると、忙しげに立ち働くウェイトレスの風圧で煙はすぐに立ち消えた。
「サンちゃんの強さを見込んで、頼みたいことがあるんだ」
何を言い出すのかと、サンジよりゾロの方が警戒して眉を顰める。
逆にサンジは、興味を引かれたようだ。
「なんだ」
「今度、大掛かりな狩りをしたいと思ってる。ゾロは聞いているか?西の都の砂王の話」
ゾロは眉間に皺を寄せたまま頷いた。
つい最近、西の国の小さな街が一匹のヴァンパイアに滅ぼされたと。
多くの下僕を従え巨大な組織と化して人間界に潜み、ある日一斉に牙を剥くのだ。
一夜にして滅ぼされた街に残されたのは、干からびた人間の残骸のみ。
「その一族は食いだめできる体質らしくて、まったく人間たちに正体を知られてなかったらしいんだ。そして街は全滅し、目撃者も残されていない。そんな性質の悪い一族がこの街にも向かっていると連絡が入った」
ゾロの表情が険しさを増した。
そこに浮かぶのはヴァンパイアに対する、純粋な怒り。
憎悪の対象を滅ぼすために牙を剥く、獣の本性。
「もう、すでに一部は入り込んでいるかもしれない。食いだめできるからいつも飢えてる訳じゃないし、日々のゾロの狩りにも多分、引っ掛からないだろう。極上の“餌”たるサンちゃんが側にいても、すぐには牙を剥かない演技力も身に着けているかもしれない」
サンジはどこか他人事みたいに冷静に聞いていた。
実際、何度“狩り”につき合わされてもあまり実感が湧かないのだ。
なんで自分なんかに涎を垂らして近付いてくるのか、ヴァンパイアの心理も食への欲求も理解不能で。
「だからこそ、そんな連中を被害が起きる前に炙りだしたい。どうだろう、協力してもらえないだろうか?」
エースの問いは、サンジに向けたものだった。
「そんな体質の奴らだったら、それこそこいつを使う意味がねえじゃねえか」
ゾロが横槍を入れたが、サンジはじっとエースの顔を見返している。

雀斑の浮いた愛嬌のある顔。
にこやかな表情だが、目が笑っていない。
その瞳の真剣さに答えるように、サンジは素直に頷いていた。
「俺にできることがあるなら、やるよ」
「ありがとう」
「ちょっと待て」
ゾロは片手を挙げて、二人の間に割って入った。
「さっきも言ったが、こいつを使うメリットはあるのか」
「あるに決まってんだろ。サンちゃんは“餌”だぜ」
「そんな“餌”に釣られるような連中じゃねえと、言ったのはてめえじゃねえか」
「バカだな、だからこそ使いようなんじゃねえの。しかもこんだけ魅力的な“餌”なら、ヴァンパイアじゃなくても掴まるって、ねえ?」
最後はサンジに向けられた問いだが、本人はきょとんとしている。

「勿論、ゾロにも許可を取る必要があるとは思ってるけど、まずはサンちゃんだ。本人がやってくれる気にならなきゃ俺だって無理強いはしないよ」
「止めておけ、危険すぎる」
いつになく庇い立てするゾロに、サンジは逆に反発した。
「何が危険だ。今まで散々人のこと振り回してきたくせに今頃何言ってやがる。俺はやるぞ」
「それは、俺が側にいたからじゃねえか。こいつと組むと、他の奴らも関わってきて却って注意が散漫になる」
「俺は強いから大丈夫だって言ってたのは、誰だよ」
「それは相手が俺だからだ。ヴァンパイアってのは霧になっていくらでも散るんだ。てめえの蹴りなんざ歯牙にも掛けねえよ」
「まあまあ」
いきなり言い合いになった二人に、今度はエースが割って入った。
「今回、ゾロは口を挟む権利なし。雇い主は俺だ、それでいいねサンちゃん」
ちゃっかりそう言ったエースにサンジは憤然と頷き、ゾロは横を向いた。


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