空の深淵 -12-


どこをどう走ったのか、よく覚えてはいない。
けれどなんとか無意識に、来た道を戻ったのだろう。
夢中で駆けている間に、店の横の酒場へと出た。
扉を開けば、路地の間から覗く空は朱色から薄曇りへと色を変えている。
サンジは立ち止まって大きく息を吐くと、乱れた呼吸を整えた。

聞いちゃいけないと、わかっていたのに。
聞かずにはいられなかった。
そして案の定、酷いショックを受けている。
―――ざまあねえな
自嘲してみても、こめかみがズクズクと痛むような動悸は止まらない。

ゾロは、決してサンジを責めたりしていないのに。
詫びてさえくれたのに、そのことが尚サンジには重く辛く感じられた。
理屈じゃない、自然な感情の内として湧き出るものはどうしようもないのだ。
気持ちとしてわかるから、余計サンジの立ち居地が失われていく。
俺はなんで生きている。
問い掛けていけない言葉が、頭の中でグルグルと回っていた。

時間だと、気持ちを奮い立たせて、そのまま裏口から店に入った。
気分転換に顔でも洗おうと住居の方へ続く扉を開けたら、そこに主人がいて思わぬ形で鉢合わせする。
「ああ、おかえり」
「すんません」
主人は手に抱えた物を胸に押し当てて、困ったように肩を竦めた。
「なんか、見つかっちまったか」
「・・・なに、してんですか?」
なんとなく聞かなきゃ悪いような展開だ。
「あれは、まだ戻ってねえな。買い物に行くって出かけたし」
「女将さんですね」
そう言えばいらっしゃいませんねと応じると、主人はふうと肩の力を抜く。
「隠れて見てたってえ、知られるとまたうるさいからな」
「・・・」
もしや、彼女の写真かなにかだろうか。
だとしたらまずいと後退りするサンジに、なにを気付いたか「いや違うよ」と慌てて手を振った
「一人の時はこうして、つい見ちまうんだよ」
泣き笑いのような顔で差し出したのは、小さな写真立て。
10歳くらいの男の子が、その中で笑っている。
栗色の巻き毛と、口元の笑窪が愛らしい。
「ショーンってさ、俺らの一人息子だ」
「あ・・・」
なんと言っていいかわからず、サンジは両手でその写真立てを受け取って声を詰まらせた。
この写真は随分古い気がする。
「生きてれば、あんたと同じくらいの年さ」
「亡くなって・・・」
頷く主人の鼻の頭が、いつもより赤い。
「ヴァンパイアに襲われてな。この年は子どもが多く狙われてなあ、酷いもんだった」
―――ああ
「この子が死んでからしばらく、あれがおかしくなっちまってさ。もう随分良くなったけど、未だにこうして写真も見せてもらえねえんだ。この子を見ると泣けてくるって言ってよう」
サンジの手の中にある、あどけない笑顔。
いつも陽気で豪快な女将さんに、こんな哀しい過去があっただなんて。

押し黙ってしまったサンジから写真立てを受け取り、納戸の上の引き出しに大切そうにそれを仕舞う。
悪戯が見つかった子どもみたいに照れくさそうに笑って、さて行くかと自分より背の高いサンジの肩を叩いた。
「俺らは昔から食堂やってて、美味い飯たんと作ってんだよなあ」
誰にともなく、独り言のように呟く。
「こんなに美味いもんがこの世にあるのに、なんでヴァンパイアは俺らの大切なもんを、吸い取っちまうんかね」
カツンと靴音を立てて、サンジは立ち止まった。
その動きに合わせて主人も立ち止まり、振り向いて目を丸くしている。
「おい?」
サンジは立ったまま、両手で顔を覆って声もなく涙を流していた。
なんとか止めようと思うのに、後から後から溢れて指の間からも流れ落ちる。
「おい、俺が悪かった。変な話して悪かったからっ」
慌てた主人が前掛けでゴシゴシ擦ってくれるのに、しゃくりあげるように漏れる嗚咽さえ止まらなくなってしまった。
「・・・う、えっ・・・」
「あああ、泣くんじゃないよ。ごめんな、ごめんよ」
大きな図体をして立ったまま泣くサンジを、なんとか宥めようとオロオロしている。
まるで幼い子を見守る父親みたいな優しい眼差しが尚のこと辛くて、サンジは喉の奥からせり上がるような慟哭を止めることができなかった。
「ええ・・・えっええ」
「ああ、ああ参ったなあ」
困りながらも、どこか嬉しそうに主人が顔をくしゃくしゃにする。
「そんな泣き顔されると、なんだかショーンを思い出すじゃないか」
可愛そうに、大丈夫だよ。
そう囁かれ、力強く背中を撫でられる。

「あんたもヴァンパイア絡みで辛い目に遭って来たんだろう。何も言わなくてもわかるさ。みんな同じだ」
そう言って何度も何度も、背中を撫で肩を抱いて慰めてくれる。
こんなにもいい人なのに。
こんなにも優しくて頼りがいのある、いい父親だったのに。
どうして小さな男の子は、命を吸い取られてしまったんだろう。
とても言えない。
自分がヴァンパイアに愛された“餌”だなんて、とてもこの人達には打ち明けられない。

美しいレディ。
愛らしい少年。
彼らが失われ、なぜ自分は生き残った?

サンジの中で渦巻く疑問は一つの答えを導き出した。
一度気付いてしまえば、もうそれ以外の道はないような気になってくる。
―――俺は、生きてちゃいけない。
強く強く、そう思った。






バロック・ワークスの設立パーティ当日、店は閉められ主人夫婦は留守番と相成った。
「頑張ってくるんだよ」
「大丈夫、サンちゃんならみんなの舌を唸らせるさ」
初めての大舞台に緊張していると思っているのか、二人は口々に励まし応援してくれた。
その心遣いが嬉しくもあり、これでお別れかと思うと寂しくもある。
「今夜は天気が荒れるみたいだから、戸締り気をつけて先に休んでてください」
「わかったよ」
「楽しんでおいでよ」
女将さんは息子でも送り出すみたいに、肩を抱いてふくよかな胸を押し付け頬に軽くキスしてくれた。
ヴァニラに似た甘い匂いが鼻を掠め、意味もなく湧き上がった懐かしさで泣きそうになる。
「行って来ます」
サンジはそう言って手を振り、迎えの車に乗り込む。
遠ざかる店の前からいつまでも手を振るであろう二人を、振り返ることはなかった。
元々は身一つで引っ越した部屋だ。
片付けるものなどないし、残すものもない。
ただ、このまま自分が戻らなくても、あの優しい二人には悲しまないでいて欲しい。
そう願うだけ。



「生憎の天気ですね」
運転手は気さくに声を掛けてきた。
「そうですね、あまり荒れないといいけど・・・」
「あ、降って来た」
小降りの雨がガラス窓に雫を落とすのを、サンジは黙って見上げている。
こんな夜を、ヴァンパイアは好むんだっけか。

ほんの数分で、車はパーティ会場の裏口に止まった。
古いホテルの大広間を貸切にしたらしい。
そのまま厨房へと回れば、すでに多くのシェフ達が準備に大童だった。
やはり自分は単なる添え物かと納得しつつ、簡単に紹介された後は下働きのつもりで仕事に取り掛かる。
大勢の人間と一緒に料理をすること自体始めてだが、口うるさい手練に追い立てられるのは慣れている。
持ち前の手際の良さと勘の鋭さで、サンジは自分で仕事を見つけては黙々とこなしていった。
最初は邪魔にしかならないと思っていただろうシェフ達の見る目が変わり、ポツポツとサンジへの指示が増えていく。
夢中で作業をしている間にも、サンジは注意深くシェフ達を観察していた。
ゼフ達だって、ヴァンパイアでありながら料理はしていたのだ。
こうして同じ厨房で働いている人間の中にもヴァンパイアはいるかもしれない。
けれどその見分けを、どうやったらできる?
誤って指でも切って見せればたちどころにわかるかもしれないけれど、料理人としてその手段は使いたくない。
「まもなく時間だ、アペリティフの準備を」
「了解」
活気付く厨房の中で、サンジはいつの間にか料理にのみ集中するようになっていった。



まさに戦場のような忙しさはあっという間に過ぎ去り、デザートワゴンを送り出した後は誰ともなしに一息つくような空気が流れた。
料理の中に、サンジお得意の食堂メニューも組み込めて大満足だ。
そうでなきゃ下町の食堂から参加した意味がねえだろと話すと、ホテルのシェフ達もそりゃそうだと豪快に笑っている。
同じ作業を全力でこなしたせいだろうか。
僅かな時間の間に、シェフ達とはまるで昔からの仲間のような連帯感が生まれた。
この中で誰かがヴァンパイアだったとしても、もうサンジには倒せないだろう。
そう思うと、ゾロが指摘する己の甘さも理解できる。
冷徹にはなれない。
あれほど悲惨な現実をゾロに話されても尚、サンジには心底ヴァンパイアを憎む気持ちが生まれてこない。
これが多分、二人を分かつ決定的な差なのだ。

「ご苦労さんだったガネ」
不意に声を掛けられ、振り向けばいつかの失礼な交渉人がおいでおいでと手招いている。
「この度は、どうも」
「あんたは別室で休んでもらうガネ、こちらへどうぞ」
厨房のスタッフに「お疲れさんだガネ」と一声かけて、男はサンジを連れて廊下へと出る。
「食堂メニューはなかなかの評判だったガネ、うちの社長が直接挨拶したいと言ってるガネ」
いよいよか、とサンジは気を引き締めた。
自分だけが呼び出されるからには、そういうことなのだろう。
元々そのつもりで乗り込んできた敵陣だ。
どこへだってついていってやる。

パーティ会場を通りかかった時、開いた扉からちらりと中が見えた。
4,50人の着飾った人々が談笑している。
その中に見知った人影を見つけ、サンジはえ?と足を止めた。
――――ギン?
「どうしたガネ」
素早く見咎めて、男がイラついた表情を見せる。
「いえあの、このパーティは会社関係の人ばかりで?」
「そうだガネ。役員やお得意さんばかり。言うなれば特別な招待を受けた偉いさんしかいないんだガネ」
ギンが、偉いさん?
確かにあれは、ネクタイにスーツ姿のギンだった。
けれど、どうにも着慣れない格好で、隣で笑うレディだって体のサイズに合わないドレスを着ていたような・・・
「早く歩くだガネ」
「すみません」
サンジは一瞬覚えた違和感を拭えないまま、男について早足で歩いた。
階段で地下まで降りて、増設したようなややこしい廊下を曲がりさらに今度は上に昇る階段を進む。
これではゾロはついてこれないだろうと考えて、一人でくすりと笑みを零した。

きっとサンジにはわからない場所でゾロが見張っているんだろうけど、さすがにここまでは追えないんじゃないか。
昨夜も、窓の下にはゾロがいたはずだ。
大切な人を自分の過ちで失ったと思い込んでいるゾロ。
だから俺からも、片時も離れまいと思ってくれているんだろう。
それなのに、俺は進んでお前から離れていくよ。
ごめんなゾロ。
俺が“餌”である以上、生きる道はどこにもないんだ。


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