空の深淵 -1-


月のない夜。
闇より濃い影が、音もなく屋根から屋根へと飛び伝って行く。
その下の路地を、息を切らしながら駆けていく男が一人。
夜目にも光る金髪が、暗闇に白い残像を形作った。

「匂う匂う、たまんねえな」
「美味そうな餌だ」
行き止まりに追い詰められ、男は壁を背にして振り返った。
大きく肩で息をしている。
乱れた前髪の間から覗く瞳は、闇の中でも光を失わない、透き通るような蒼だ。
「なんて上等の餌だ。一人でウロついてるなんて信じられねえ」
「飼い主はどうした、逃げてでも来たのか」
追い詰めた2つの影が、男を取り囲むように立ちはだかった。
いずれも赤く光る目をして、闇に浮かび上がるほど肌の色が白い。

「どこへ逃げようが、てめえの匂いは消せねえぜ」
「ああ、たまんねえ、骨までしゃぶりつくしてえ」
伸ばされた手は骨張って、尖った爪が鋭利な刃物のように伸びていた。
指先一つで喉笛くらい切り裂けるだろう。

男は恐怖に喘ぎながら、壁に張り付くようにして顎を上げた。
ボタンを外された白い首元に、汗が伝って流れ落ちる。
その肌に爪が触れる間際、男の恐怖に満ちた瞳が愉悦へと変わった。


空気を裂くような音がして、獲物を追い詰めまさに捕らえんと伸ばされた腕が砂塵のように霧散する。
何が起こったのかもわからぬまま、切り落とされた首は地に落ちる前に塵と化した。
一拍遅れて、遺された体躯も崩れ落ちていく。
「な、にっ?」
背後にいた男も、振り返る間はなかった。
縦に切り裂かれた身体の左右がほぼ同時に散っていく様を、男は薄ら笑いを浮かべたまま見詰めている。

「お、せーよ」
だるそうに前髪を掻き上げ、ポケットを弄って煙草を取り出した。
擦った燐寸の明かりを頼りに、足元に積もった塵を掻き混ぜる男の姿が浮かび上がる。
「悪りいな、これで5匹目だぜ」
「は?」
「今夜の獲物、てめえがあちこち逃げてやがる間に、あと3匹引っ掛かってんだよ」
ひゅうと、軽く口笛を鳴らす。
「それで来るの遅かったのか、すげえな俺」
「ああ、てめえはほんとにすげえすげえ」
馬鹿にしたような言いざまにムッとして、燐寸を消した。
途端、暗くなった手元に舌打ちしながら、なんとか手探りで紋章を見つける。
「下僕共ばかりだが、一晩に5匹とくりゃあ結構な値になる」
「金なんて、もう捨てるほどあんだろ」
ゾロの目的は、金儲けではないはずだ。
「ああ。金なんざどうでもいい。こいつらを根絶やしにさえできりゃあ」
狩りの対象であるヴァンパイアへの憎しみを隠そうともせず、ゾロはそう呟いてにやりと笑った。
月のない夜の闇にもその禍々しい横顔が浮かび上がって、サンジはそっと肩を竦めた。

人間を狩るヴァンパイア。
ヴァンパイアを狩るゾロ。
ゾロをいつか殺そうと思っているサンジ。

それなのに、二人はいつも傍にいる。







「走り回って汗を掻いた。どっかでシャワー浴びてえ」
「もうすぐ夜明けだ。今から宿に入れっかな」
「寝れりゃ、どこでもいいよ」
太陽が昇れば、サンジはゆっくりと眠りに就くことができる。
昼夜逆転の生活には、もう慣れたようだ。
そう話している間にも、チラチラと闇の向こうから視線を感じてゾロは威嚇するように振り返った。
まったく、このサンジという男はよほどいい“匂い”を放っているようで、一人歩きさせれば毎晩でも複数のヴァンパイアが引っ掛かって来るのだ。
狩る方は楽でいいが、常に付きまとわれる餌たるサンジの疲労は、半端なものではないだろう。

適当に宿に入ると、カウンターにいた男は眠そうな目を瞬かせて宿帳を捲った。
「ちょうど一部屋、空いてるよ」
「一部屋?」
途端、サンジはあからさまに嫌そうな顔をする。
「てめえと一緒の部屋なんざ、冗談じゃねえ」
「俺はいい」
どっかで時間を潰して飯でも食って来ると言えば、サンジは鷹揚に頷いた。

だるそうに横を向いて煙草を吹かしているサンジの隣で、ゾロは自分が泊まりもしないのに前金を払った。
「すっかり尻に敷かれちまってるね」
こそっと呟かれた宿主の声に、そんなもんだと相槌を打つ。
「あ?なんか言ったか」
「なんでもねえよ」
じゃあごゆっくりと宿主が差し出した鍵を持って、サンジは振り向きもせず部屋へ向かう階段を登った。
それを見届けてから、ゾロは宿の外に出て、東の空が白々と明け始めたのを確認する。
「これでゆっくり、寝れんだろ」
夜の闇に紛れていた気配は、今は跡形もない。
一時はヴァンパイアに支配されていたこの国も、人間にとっては随分と住みやすい場所になったようだ。
「酒でも飲むか」
早朝から開いている店を探しに、ゾロは街へ向かった。





適当に歩き回りはしたものの、やはりまだ夜の闇に怯えているのか、夜通し開いてるような店は見つからなかった。
仕方がないから、白み始めた広場のベンチに横になって仮眠を取る。
そのままうっかり寝入ってしまっていたらしい。
目が覚めたら青い空には鳩達が賑やかに舞っていて、公園を訪れた親子連れはゾロが横たわるベンチを遠巻きにして立ち話していた。
「もう朝か?」
公園の時計はすでに昼を回っている。
飯でも食うかと起き上がり、ポリポリ腹を掻きながら店を捜し歩いた。



「よう、儲かってるか」
ようやくありついた遅い朝食をパクついていたら、背中を叩かれた。
同業者のエースだ。
「聞いたぜ、1週間で30匹以上仕留めたって?どんな裏技使かってんだい」
人懐こい笑顔を振りまきながら、勝手に前の席に座っている。

「お姉さん、俺ランチ大盛りを3人前ね」
「相変わらずの暴飲暴食だな」
「食っとかなきゃ、身体が資本っしょ」
トレードマークのテンガロンハットを脱いで、やれやれと勝手にゾロの酒を呷る。
「お前こそ、黒ヒゲ仕留めたって噂じゃねえか」
「ああ、そん代わり死に掛けた。マジで」
いつもは上着も着ない男が珍しく何か羽織ってると思ったら、どうやら包帯隠しだったらしい。
「見たところお前無傷じゃん。どんな魔法使ってんの」
「なに、雑魚ばかりだ」
「雑魚でも下僕でも、一匹でも多くこの街からヴァンパイアが消えるんなら上等だ」
エースのランチを持ってきたウェイターに酒のお代わりを頼み、改めて乾杯する。

邪気のない笑顔でニコニコ笑っていながら、エースは油断のならない目付きでゾロを見た。
「もしかして、“餌”使ってんの?」
「まあな」
そうでもなければ、こう易々と複数のヴァンパイアは仕留められない。
「すげえな、どうやって手に入れたんだよ」
「バラティエ公のだ」
「へえ、そりゃまた」
さぞかし上等な“餌”なんだろうと言えば、ゾロも素直にまあなと頷く。
「一晩泳がしただけで、軽く5、6匹は引っ掛かる」
「いいな、俺も“餌”が欲しいな」
最近は、“餌”を飼うような優雅なヴァンパイアはいなくなったと、嘆く素振りだ。

「今度“餌”貸してくれよ。計画的に使えば、大物を一網打尽にできっだろ」
エースの誘いに、ゾロは難しい顔をした。
「なんだよ、貸すの惜しい?」
「惜しいっつうか、なかなか気難しい奴だからな」
「へえ、まあゾロは誰かを手懐けるのに向いてるタイプじゃねえけど」
エースは頬袋を膨らましながら凄い勢いでランチ3人前を平らげ、お代わりの手を挙げた。
「今だって、“餌”を放ったらかして一人で飯なんか食ってる」
「寝てんだよ。昼間しかゆっくり眠れねえだろ」
弁解がましいゾロを、エースはふふんと鼻で笑った。
「馬鹿だな、一人寂しく眠れる訳ねえだろ。日中かかってでも、なんで慰めてやらねえ」
「は?」
ゾロは酒を持つ手を止めた。
エースの方が身を乗り出して、は?と聞き返す。
「ゾロ・・・もしかして“餌”のこと、あんまり知らねえ?」
「俺は実物の“餌”を見たのも、あいつが初めてだ」
「あーそうかあ」
エースは身体を起して、ガリガリと後ろ頭を掻いた。

「まあ、俺だって一人にしか会ったことねえけどよ。その“餌”もすぐに死んじまったし。大体、一旦“餌”になっちまった人間は、もう元の生活には戻れねえんだ。一生、ヴァンパイアに嗅ぎつけられる“餌”として、命からがら生きていくしかねえ」
だから希少価値なんだよ。
そう言って、新しい酒を呷る。
「機嫌とって、ちょっとでも長生きさせてやんないとな。バラティエ公の“餌”だったんだから、さぞかし美人だろう」
「・・・・・・」
ゾロは益々難しい顔をした。
外見だけなら「美人」と言えないこともないが、なんせ口と目付きと足癖が悪すぎる。
素のサンジを知っている者とすると、いくら上等の“餌”とは言え手放しで「美人」と形容するのには抵抗があった。

「なに、美女だけど気が強いのか?」
「女じゃねえよ」
「え?」
エースは酒を含んだままパカンと口を開けた。
ダーと豪快に零れている。
「ガキん時から飼われてた、野郎だ」
「・・・あ、はあ」
なんだか気の抜けた相槌を打って、ゆっくりと視線を逸らしながら一人頷いている。

「はあまあ、そういうことも・・・アリだよな」
脱力した感のエースを、ゾロは不審そうに睨んだ。
「餌っつっても血ぃ吸われてただけだろうが。別に美味けりゃ男でも女でも、支障はないんじゃねえのか」
「そりゃあまあ、ヴァンパイアにとって人間なんて食料だから」
そう言いつつも、煮え切らない態度で酒を舐めている。
「ゾロぉ、お前知らないんだろ」
「なにがだ」
「人間ってな、ヴァンパイアに血吸われんの、すっげえ気持ちいいんだって」
ゾロは不愉快に顔を顰めたが、驚きはしなかった。
その話は聞いたことがある。
「オーガズムを感じるんだとよ。女性ならイくし、男性なら射精する」
ゾロははっとしてエースを見た。
「その“餌”は、ガキん時から飼い慣らされてたんだろ。だったら、その快感を植えつけられて育ったはずだ。そんな“餌”が、夜通しヴァンパイアに追い立てられて平気でいられるわけねえじゃねえか。てめえが放ったらかしてるこの時だって、サカった身体を持て余してるはずだ」
「・・・・・・」
ゾロの顔が、酒のせいではなく赤くなった。
そうだったかとこめかみを押さえ、呻くように呟く。
「なんか知らんが、狩りの後は一人でいたがると思ってたんだ」
「お前に遠慮してんだろ。まあ、野郎だって聞いたらそれも納得だ。別に男のてめえに慰めて欲しくもなかろう」
エースは酒を呷り、調子よくお代わりを注文する。

「なんにせよ、益々興味が湧いてきた。ぜひ会わせてくれよ」
答えないゾロの肩に、馴れ馴れしくしな垂れかかる。
「なんだよー出し惜しみすんなよぅ」
「別に、ただ俺はあいつに憎まれてる」
「は?」
「自分の恩人であるバラティエ公を殺したからだ。あいつにとって、俺は親の仇だ」
ははん、とエースはしたり顔で頷いた。
「あり得ねえ話じゃねえ。長い間飼われてっと情が移るって言うし、寿命の長いヴァンパイアにとったら一時の火遊びのつもりでも人間は単純だからすぐ絆されちまう」
「絆されついでに、俺の傍にいるのもいつか寝首を掻こうと狙ってるからさ」
「そりゃまた怖い、“餌”だねえ」
エースは満面の笑みを浮かべたまま、黒い瞳を煌かせた。
「話聞いただけで気に入っちゃったよ。これから会いに行こうぜ」
勝手に決めるなと言い返しても、聞く耳を持たなかった。



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