七夜  -4-


「後片付けをしとくって言ったのは、どこのどいつでしたっけ?」
尖った声に耳を打たれ、ゾロはふわりと瞼を開いた。
そこにサンジがいると認識するより早く、石鹸の匂いが鼻先を擽る。
「あ?」
「あじゃねえよ、全然片付いてねえじゃねえか」
言われて見渡せば、縁側の置き石はすっかり渇いている。
どうやらサンジが風呂に入っている間に眠ってしまったらしい。
「なんだ、もう上がってきたのか」
「ゆ〜っくりお風呂いただきました。まさか、入る時見た格好そのままで爆睡してるとは思わないからな」
Tシャツに半ジャージで、濡れた髪をがしがし拭いている。
いい匂いがするから、リンスも持参したのかもしれない。
「そうか、じゃあまあ風呂上りにゆっくりしてろ」
サンジが座るのと入れ替わりに立ち上がり、炊事場へ向かう。
寝ている間に片付けることはサンジにとって朝飯前だっただろうが、まったく手を付けてない辺りゾロの顔を立ててくれたからなのだろう。

水に潜らされていた皿をスポンジで洗って、軽く漱ぐ。
ゾロの傍らを裸足でペタペタと歩きながら冷凍庫を開け、グラスに氷を入れた。
「梅のシロップ、焼酎で割ると美味いだろ」
「そうだな」
お盆にグラスを2つ載せて、縁側へと戻っていく。
洗い籠にすべての食器を伏せてから、ゾロも台所を出た。

「あー、星が見える」
縁側から足を下ろし、軒下から空を覗き込むようにして上体を屈めた。
「ほら、雲の切れ間」
「そうだな、晴れたな」
空全体をどんよりとした雲が覆っているが、時折覗く切れ間から瞬く星の輝きが見え隠れしている。
「織姫様と彦星は、無事に会えたかな」
カラリと氷が揺れる涼しげな音を立てながら、サンジはコップを傾けしみじみと呟いた。
隣に腰掛けて、ゾロも冷えたグラスを手に取る。
「雲の上はいつだって晴れなんだから、雨が降ろうが関係ねえんじゃねえか?」
「あ、そうか」
サンジはぽかんと口を開けて、間の抜けた声を出した。
「そういやそうだよな。雨が降って見えるのは地上だけだ。雨が降ろうが嵐になろうが、天の川はずっと穏やかに輝いてんだ」
急に破顔して、子どものようにはしゃぐ。
「なんだあ、心配して損した。二人は毎年ちゃあんと会えてるんじゃねえの」
「・・・心配、してたのか」
ゾロとしては、そんなサンジのオツムの方がやや心配になった。
「大体天の川っつっても、それこそ地上の人間にとって川のように見えるだけで、実際には銀河系の中心だろ」
「うっわ、また浪漫のないことを」
額に手を当ててオーバーアクションで嘆きつつ、待てよと動きを止める。
本当に、コロコロと表情が変わって見飽きない。
「いやいや、それもまた浪漫だな。だって、考えてみれば地球って銀河系の端っこ、ものすげえド田舎にいるんじゃね。だから、都会の光が眩しく見えるんだよ。まさに地球ならではの絶景って感じ?」
「六甲山から夜景を見下ろすって奴か」
「そうそうそう」
何が可笑しいのか、一人でケラケラ笑っている。
やはり酔いが回ったらしい。

「でもさあ、やっぱり織姫様と彦星はいて、七夕の夜にだけ逢瀬を楽しんでいるんだよ」
いきなり話を戻して、しみじみと息をついている。
「だってさ、そうして約束されないと二人が堂々と会うことできないじゃないか。会いたい人がいるんなら、ほんとはいつだって側にいたいと思うだろうに」
サンジが今頭に思い浮かべているのは、ナミの姿だろうか。
「毎年この日だけとか、来月にまたとか、本当はそんな風に区切る必要なんて、ねえのかもしれないのにな」
そう言って、サンジはゾロの目を見ながら柔らかく微笑んだ。

軽い口調も話の流れもそれほど深刻さを感じさせないのに、真っ直ぐな瞳だけがやけに真剣で。
その眼を見つめ返しながら、ゾロは頭の中で先ほどのサンジの台詞を何度も繰り返してみる。
―――それは、そういうことか
自分の読み違いでなければ、そういうことなのだろう。
だがゾロには、まだ踏ん切りがつかない。

サンジには、彼が確立した世界がある。
そこは距離的にそう遠くないし、そここそが彼の住む場所であり帰る場所だ。
気まぐれでここに来るのは、彼がそう望んだ時だけ。
ならばいつでも穏やかに迎えてやることこそが、自分にできる唯一のことで。
来たければ来ればいい、そして何日でもいればいい。
自分の役に立つ知識と技を持っているからと言って、側に置いておきたいと望むのは身勝手なだけじゃないのか。
だが、もしサンジが引き止めてもらいたいと暗に願っているとしたら。
もしもそうなら――――

「もう、寝るか」
自分の考えを振り切るように、ゾロはグラスを一気に呷った。
浮いた露が雫となって肘の内側に降りかかり、ひやりとするのが却って不快だ。
サンジは空を見上げ、肩をそびやかした。
「やだね、もう少し星を見ていたい」
「なら見てろ、今寝床作ってやる」
空のグラスを盆の上に置くと、立ち上がり大股で部屋の中に入る。
押入れから新品の蚊帳を取り出し、部屋の四方に設えたフックに掛けた。
「なに、なにそれ蚊帳?」
想定どおりサンジが食いついて来る。
「おう、先月お前が帰ってから買っておいたんだ。クーラーつけなくても窓さえ開けとけば結構涼しいし、これなら蚊も大丈夫だろ」
「すげえ、蚊帳だ」
天の川そっちのけでサンジも蚊帳を吊るのを手伝う。
「相変わらず、布団は一組しかねえが」
「布団まで買う余裕ねえよな。あ、今度俺が持ってくっか」
「・・・本気かよ」
背中に布団を背負って歩いてくるサンジを想像すると、結構笑える。
「どうせ布団の上に寝てても、目が覚めたら畳の上だ」
「そんなに寝相悪くねえだろ、前の時も・・・」
そこまで言って、急に言葉を切った。
ゾロもあ?と動きを止めてからああ、と思い出した。
そう言えば、先月は二人引っ付いて寝たんだった。
一つの布団で包まっていてもそう寝苦しくなかったし、なかなか寝心地が良かったのだが・・・
―――今思うと、あれも結構ヤバかったよな
今更ながら自覚して、ゾロは所在無く鼻の頭を掻いてみたりする。
「まあ、布団なんてあってもなくても同じようなもんだから」
「そうだな」
二人不自然に目を逸らし、もそもそと布団を敷く。

「寝る前に一服してくる」
もう一度星を眺めに行ったのか、縁側から裏庭に降りるサンジの後ろ姿を見送ってから、ゾロは先にごろんと布団の端に寝転がった。
―――こうなりゃ、先に寝たもん勝ちだな
得意分野だと頭の下に腕を組んで目を閉じた。
縁先から流れ込む涼やかな風に頬を撫でられながら、目論見通りものの数秒で眠りに落ちた。










チュンチュンと、可愛らしい雀のさえずりが聞こえてくる―――
と思ったら、その音がどんどん高く響いてきた。
結構うるさい。
先に聴覚が目覚めてしまったのか、賑やかな鳴き声であっという間に覚醒した。
目の前には、うっそりとした濃紺の蚊帳の波。
開け放たれた窓から通り抜ける風は、穏やかだが結構涼しい。
薄い掛け布団の外に出していた腕を擦ると、肌がひやりと冷えていて肘が強張っていた。
「・・・さっみー」
急に寒いような気がして掛け布団を引き上げる。
昨夜、敷布団の端に寝転がったとおり、同じ場所で行儀よく眠っていた。
では反対側の端に眠っていたゾロはどうなったのか。
視線を動かすと、少し離れた畳の上で余った蚊帳の端に頭を突っ込みようにして、大の字で眠っている。
「暑かったのかな」
確かに、畳の方がひやりとした感触だし、冷たい場所へ冷たい場所へと無意識にでも移動するとこうなるのかもしれない。
「ガキかよ」
サンジはくすっと一人で噴き出して、掛け布団を手に取り膝立ちで擦り寄った。
―――ちょっと肌寒いだろ
ゾロの側に膝を着けば、触れなくてもじわりと伝わるほどに体温が高い。
これなら風邪も引かないかと安堵しつつ、腹を冷やすといけないからと、腹部だけ布団を掛けてやった。
ゾロの髪に絡まっている蚊帳をそっと外してやり、捲り上げて出ようとして、畳の上にある黒い粒に気がついた。
―――なんだこれ
そのまま腹ばいになり、顔を近付けてよく見る。
小豆ぐらいの大きさで、丸い鎧みたいな身体に細かな足がついている。
頭らしきところからは触覚が2本。
ミニマムな王蟲を思わせる風貌。
静かに静かに前に向かって歩く姿は、どこかユーモラスだ。
いつの間にか、前からもう一匹が近付いてきていた。
一体どこから?とあたりを見回すも、この二匹以外姿はない。
列ができていたらそれはそれで嫌だから、とりあえず目の前の二匹に視線を戻す。
触覚をピクピク動かしながら、二匹はためらいもなくお互いに前に進み、頭をこつんと付き合わせた。
それからお互いに右を向いて、何事もなかったように通り過ぎ歩き去っていく。
「ありさんとありさんがこっつんこ?」
口に出して呟いてから、いやこれアリじゃないしと一人で突っ込む。
「だんご虫・・・だよな」
そっと指を伸ばして進路を妨害してみたが、だんご虫はそ知らぬ顔で避けている。
何度か頭の先を指で遮って見せるが、その都度根気よく避けては前に進もうとする姿が、なかなかにいじらしい。
しかもちょっと迷惑そうだ。
傷つけないように慎重に、横腹?辺りをつんと弾いてみた。
その場でころんと転がって、丸くなる。
おおう、だんご虫だ。
指の腹でくるくる丸めてみたい衝動に駆られたが、可哀想な気がして止めた。
しばらく見ていると、だんごになっていただんご虫が背?を伸ばし、また元通り何事もなかったように歩き出す。
そっちで遊んでいるうちに、もう一匹はどこかに行ってしまったようだ。
小さいくせに案外と早い速度で、ちょっと目を離すともう見失うほどに素早く移動してしまう。

家の中にだんご虫がいるってのもどうよとか思うが、まあ可愛らしいからいいかと一人で納得した。
足の数が多いとか触覚があるとか身体が硬いとか、ムカデとの共通点がありすぎるほどあるのに、どうしてこんなに印象が違うんだろう。
なんとなく不公平だと思えて、サンジは内心でムカデに謝った。

なんてことを考えている間にも、さきほどのだんご虫もどこかへ行ってしまった。
サンジは身体を起こし胡坐を掻くと、ポリポリと頭を掻いて傍らのゾロを振り返る。
相変わらず仰向けのまま、すうすうと穏やかな寝息を立てている。
時計を見ればもうすぐ7時だ。
取り敢えずトイレに行こうかと、静かに立ち上がり廊下に出た。
歩きながら、バルサンはだんご虫に効かないんだっけ?とか回らない頭で考えた。
そもそも隙間の多い家なのだから、それほどの効果は期待できないだろう。
というか、窓を全開にして寝てたらなんでも入ってくるっての。
突っ込みつつ、洗面所の引き戸を開けた。
前髪をぽすんと掠め、何かが足元に落ちる。
「―――ひっ?!」
硬直したサンジの目の前で、それは恐ろしいほどのスピードで壁際を這い進みあっという間に洗濯機の裏へと消えてしまった。

「・・・な、なに?今の」
呆然と立ちすくみ、サンジはぶるりと震えた。
一瞬でわからなかったが、なんか全体が濃い灰色っぽかった気がする。
ぼわんとみえたのは、回り全部が足だったからだ。
長い足が無数に生えていて、それが全部しゃかりきに動くからものすごく早く移動する。
あのスピードは家にもいる黒いあいつを思わせた。
けどあいつよりさっきのあいつのが更に不気味だと混乱した頭で思い起こし、さっと顔を上げて天井を見上げた。
天井には何もない。
何もないけど、さっき上から落ちてきたじゃんかよ!
前髪を掠めた感触を思い出し、身震いして両手で髪をやみくもに払った。
もう何もいるはずはないのに、さっきのあいつがここに落ちたと思うだけで、地団太踏みたくなるほど腹が立つ。
「うううう、わああああ」
ようやく声に出して悲鳴を上げて、サンジはなんとか落ち着いた。
やはり、バルサンなんて気休めにしかならないらしい。



あちこち警戒しながらなんとか用を足し、部屋へと戻ってきた。
ゾロは相変わらず大の字で眠ったままだ。
朝飯の支度でもしようと台所に入ったところで、いきなり電話が鳴った。
「わあ」
サンジにとっては懐かしいというより始めてみるダイヤル式だ。
物珍しさに繁々と眺め、とにかく鳴ってるから取らなきゃいかんとゾロを起こしに帰った。

「ゾロ、電話だぞ」
声を掛けても揺すっても、知らん顔でがあがあ寝ている。
蹴り転がしてやろうかと思ったが、あんまり平和そうな顔で寝ているから起こすのも不憫になってしかたなく台所に戻った。
「しょうがねえな」
しつこく鳴り続ける電話に手を伸ばし、恐る恐る受話器を上げる。
「はい、もしもし」
「おう、起きたか〜」
いきなり傍若無人なおっさん声だ。
「いえ、ゾロはまだ寝てます。俺は泊まりに来ている友人ですが、起こしても起きなくて」
「ああそうけえ、そんなら伝えといて。ごんべだけど、やっぱ今年から有人なしだし、ラジヘリの申し込み ゾロの分もしちょったから、また町から連絡いくからの」
「ええと、ごんべさん。今年から友人なし。らじへりの申し込みをゾロの分までしてくださって、チョウから 連絡が来るんですね」
「そうそう、よろしくねえ」
サンジの存在を不審に思う風もなく、やけに馴れ馴れしく言うだけ言うと、男はさっさと電話を切ってしまった。


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