七夜  -2-


軒下で、少しずつ増えていく雨だれを見つめること数分。
家の中でガーガー乱暴に掃除機をかける音が止んだ。
暫くして、ガラリと引き戸が開く。
「終わったぞ」
「おう」
懐から携帯灰皿を取り出して吸殻を仕舞うと、リュックを持って改めて玄関に足を踏み入れた。

「綺麗になったか、結構結構」
横柄に呟きながら廊下を歩き、ふと気付いて振り返る。
上がりかまちからくっきり自分が歩いた靴下の跡がついていて、湿気がすげえなと一人呟いた。
「乾拭きした方がいいな」
「あ、なんか言ったか?」
卓袱台を直して座布団を敷いていたゾロが、サンジの声に反応し顔を上げた。
「いや、なんでもねえ」
ゾロが留守の時にでも拭いといてやろうと思い直し、何も言わずにリュックを置く。
不意にその眼が一点に釘付けになった。
「・・・ゾロ」
「あ?」
「なんだその、腕は」
サンジが強張った表情で凝視しているので、ゾロは何事かと戸惑いながらも片腕を出した。
「これか?これは献血で―――」
「違う、その、泥」
どういう訳かゾロの両腕はどちらも泥まみれだった。
渇いて白くはなっているが、肘の裏なんかは塊がこびり付いていて、ゾロが動くたびにパラパラ土くずが落ちていたりする。
二の腕までどっぷり泥に浸かって乾かした後みたいな、そんな汚い両腕をして、ゾロの右の肘の内側だけが綺麗な肌色になっていて、申し訳程度に脱脂綿が貼り付けられていた。
「取るの忘れてた」
サンジに指摘されて気付いたか、脱脂綿をむしりとりポイと近くのゴミ箱に捨てる。
いや、そうじゃないんだ。
問題はそこじゃないんだ。

「・・・ゾロ、献血する前はせめて手を洗え」
「洗ったぞ、ほら」
言い訳をするように、ゾロは両手を合わせてサンジの前で掌を開いた。
なるほど、確かに手首より先は綺麗に洗ってある。
洗ってあるが、献血するのはその上部分だろ。
つか、やっぱり建物の中に入る前は手をちゃんと洗うだろ。
つか、そもそも仕事から上がったら綺麗に洗う習慣をつけろコラ。
勢いよくサンジにそう捲くし立てられて、ゾロは特に言い訳もせずに苦笑いしている。
「お前、これじゃあ看護師さんのがびっくりしてただろ。つか、呆れてただろ」
「別に・・・確かに、やけに丁寧に脱脂綿で拭いてたけどな」
「ちゃんと洗って来いって言いたかったんだよ、ほんとは!」
腰に手を当てて、すぐに手を洗って来いと洗面所を指差す。
「そんな腕して掃除機掛けたって、意味ねえじゃねえか。ほんとにもう、信じられねえ」
ゾロは渋々と言った感じで立ち上がった。
「なんか、お前家に来る度に小言言ってる気がするな」
「奇遇だな、俺もここに来る度に自分が口うるさくなってる気がしたよ」
しばし顔を見合わせて、お互いに噴き出した。


洗面所で豪快に腕を洗う音を聞きながら、サンジは勝手知ったるで台所に立つ。
流しには洗った湯飲みや皿が洗い桶の中に置きっ放しになっていた。
しょうがねえなと丁寧に洗い直す。
冷蔵庫を開けると、相変わらず卵と発泡酒だけは豊富で、他はスルメやおかき賞味期限が切れたハムなんかが封を開けたまま入れっぱなしになっている。
「お、アイスコーヒーあるじゃん。飲むか?」
「おう」
肩の辺りまで綺麗に洗ったらしいゾロが、タオルでごしごし拭きながら居間に戻って来た。
「フレッシュ・・・ねえよな。牛乳・・・賞味期限、昨日までだぞ」
「問題ねえ」
「ったくもう、これだから」
ブツブツと口の中で文句を唱えながら、アイスコーヒーを入れて居間に戻る。
「どうぞ」
「サンキュ」
どっちが家主だかわからない会話を交わしながら、冷たくなったコップをゾロの前に置いた。
コーヒーの中で氷がからんと涼しげな音を立てる。
「この氷、いつのだ?」
「氷はよく食うから、まめに作ってるぞ」
あからさまにほっとして、いただきますと口をつけた。
「あー美味い」
「暑い時は冷たいもんだな・・・でも、氷ばっかガリガリ喰ってんじゃねえよ」
卓袱台にコップを置いて、古ぼけた畳に足を投げ出す。
手をついて背を撓らせ、改めてあーあと気の抜けた溜め息をついた。
「なんか、本格的に降ってきたな」
「そうだな」
ゾロは胡座を掻いたままなんとはなしに天井辺りに視線を彷徨わせていたが、ふとサンジの顔に目を向けた。
「買い物、行くか?」
「いやいい。それより畑で食えそうな野菜とか採って来いよ」
「それでいいのか?」
意外そうに聞いて来るのに、サンジはちょっと口を尖らせる。
「お前んちに来る度に、買い出しして豪勢なもん食ってる訳にも行かないだろ。まあ、俺は別にいいけどよ、またお前が金出すんだそ。それより、あるもんで美味いもの作ってやるから」
「そうか」
ゾロは納得したように頷いて、再びコップに口をつけた。

「―――雨、あんまり降らねえといいのになあ・・・」
サンジの憂鬱そうな呟きに、曖昧な返事をした。
「まあな、梅雨だからな」
「けど、今日は七夕だぜ?なんか俺の記憶では、七夕の夜にスカッと晴れた日がねえような気がする」
「まあ、梅雨だからな」
サンジは焦れたように、足先を揺らした。
「年に一度の逢瀬の夜が、なんだってこう毎回雨降りになるかな。おい知ってっか?雨が降ると天の川の水嵩が増して織姫様と彦星は会えないんだぞ?会えないまま、また一年離れ離れだ。可哀想とか思わないのか」
いきなり力説されても、ゾロには返事のしようがない。
と言うか、もしかしてアイスコーヒーで酔っ払う特異体質なのだろうか。
「酒涙雨だな」
「なに?」
「七夕当日の雨のことだ。会えた二人がまた別れなければならない惜別の涙とも言うし、会えなかった悲しみの涙とも言う」
「なんだそれ、なんて切ないんだ畜生」
鼻先に手の甲を押し付け、ぐっと口元を噛み締めている。
半端でなくうるっと来たらしい。
「くそう、田舎マリモのくせになんてロマンティックな雑学を仕入れていやがる」
「いや、これは確かナミからの受け売りだぞ。学生時代に聞いたことがあって―――」
言ってから、にやりと人の悪い笑みを浮べた。
「なんだ、お前そんな話も聞いてねえってことは、ナミとは疎遠なのか」
「ばっ、かやろう!いきなり何言い出しやがる」
先ほどの涙目から一転、頬を赤くして怒鳴り返した。
「ナミさんはなあ、そりゃあお忙しくてらっしゃるんだ。なんせナミさんはみんなのお天気おねえさん。
人気レポーター。そんなナミさんをいつも見守り、影ながらサポートするのが俺の役目ってもんだ」
「マネージャーかよ」
「なんとでも言え、俺の趣味はナミさんだ」
開き直ってふんぞり返るサンジに、ゾロは苦笑した。
「そんなんじゃ、嫁に貰ってもいいように扱き使われるのがオチだろ」
「よ・・・嫁?ナミさんが・・・お嫁さん」
怒りではないぽやんとした朱が頬に浮かんで、蒼い瞳が夢見るように柔らかく細められる。
本当に、クルクルとよく変わる表情だ。

「結婚したって家に入るタマじゃねえし、仕事仕事で放っとかれるのが目に見えるようだな」
「馬鹿野郎、働いてる女性の横顔が一番美しいんだ。ナミさんがそう望むなら、俺はいつだって彼女を支える為に家を守るぜ。そして毎晩疲れて帰って来るナミさんを美味しい料理で癒してあげるんだ〜」
完璧に夢見る目付きでそう呟いてから、卓袱台に肘を着きゾロに向き直った。
「まあ俺には薔薇色の未来が待ってるからいいとして、お前はどうなんだ。こんな女っ気のねえ暮らしばっかして、なんにもねえのかよ」
「まあな」
「即答すんなよ!田舎とは言え、可愛いお姉ちゃんはいっぱいいるだろ?つか、見合いの話とか、あんだろ」
ゾロはコップを傾けたまま、何も答えなかった。
否定しないということは、やはり見合いの話はあるんだろう。
「新規就農っつったっけか。お前みたいなの田舎では貴重なんだろうな。もしかして、農家の跡取りに引く手数多なんじゃねえの?もう具体的に話し出てるとか」
「まあな」
あっさり認められて、サンジのがええっと前屈みになった。
「嘘、マジ?」
「ここに移り住んでから、そんな話ばっかだ。まあ、今のところ全部断ってっがな」
「なんで断るんだよ勿体ねえ。てめえみてえな物臭野郎、貰ってくれるってだけでも御の字じゃねえか」
ゾロは大袈裟に肩を竦めて見せたが、特に何も言い返さない。
「とは言え、収入の面ではあんまりうまくいってるとは言えねえみたいだがな。どっかの農家の婿に入るんじゃなきゃ、嫁さん貰っての暮らしはちときついか」
「そういうことだ」
サンジはポケットから煙草を取り出すと、黙って火をつけた。
ひと息吐いてから、前髪を掻き上げる。
「まあ、あれだな。ここで暮らしてっと、恋愛云々より先ず先に結婚とか所帯とか、そういう話になんだろうな。
 好きになるより条件が先ってやつ?そうすっと、色々考えちまって結局二の足を踏むことになるんだろ」
「まあな」
確かにその通りだ。
ゾロ的にはここで一生暮らすつもりだから、どんな嫁さんでもいつ貰ってもいい。
ただ、自分一人の力で食わしていけるかと言われれば今は無理だし、目処も着かない。
さりとてどこかの家に婿養子に入り、そこを継ぐ気があるかと問われればそれもゴメンだ。

「でもさあ、もしお前が万が一でも・・・いや、億が一でも嫁さん貰ったとして、やっぱ共働きじゃねえとやってけねえだろう」
「だろうな」
サンジはくいと頭を下げて、興味深そうにゾロの顔を覗きこんだ。
「で、どんな人が好みなんだ?奥さん外で働いててもヤキモチ焼いたりしねえの?それとも本音じゃ、家にいて欲しいとか」
「別に、どうでも―――」
ゾロの母親もずっと外で働いていたし、別に亭主関白を気取るつもりはない。
「ただ、食い物はちゃんと作れるのがいいな。できれば、家にあるもので適当に美味いもんを作れるとか」
「ああそれはいいな、理想だな。お前にぴったりだよ」
サンジは頷いて、煙草を指で挟んだ。
「どう考えても、お前が結婚したからってこの生活形態が変わるとは思えねえし。お前のことちゃんと理解して、んで身体のこと気遣って・・・でもお金のことはあんまり心配しないで、食べ物をきちんとしてくれる人が一番いいだろうなあ」
云々と頷いてから、ふと視線を感じて顔を上げた。
「ん?どうした。俺の顔に何かついてるか?」
「いや、別に」
別にと言いつつ、ゾロは不躾な目線でサンジの顔をじーっと見ている。
「なんだよ」
ぱちくりと瞬きしたら、ゾロはわざとらしく溜め息をついて立ち上がった。

「小降りになってる間に、野菜採って来る」
「おう、頼むぞ」
サンジは咥え煙草のまま、持参したリュックを引き寄せて中を開け始めた。
「重そうだな、何入ってるんだ」
上から覗き込めば、煙が顔に掛かり目に沁みる。
「これは家から持ってきたんだ。お前にあれこれ買えっつっても無駄になるし、俺が使い勝手のいいもん適当に持ってきただけだから、置かしといてくれよ」
どんだけ入ってたのかと言いたくなるくらい、色々なものが出てくる。
「包丁だろピュ―ラーだろ、クッキングカッター、キッチン鋏、スパイス、ボールも大小ねえと不便だし、片手鍋は取っ手が取れてただろ」
「・・・そんなもん、こっちで買えるだろうに」
「さすがに、まな板は持って来れなかった」
「それぐらい買うって」
「あと、乾物モノな。お前即席で食えるものばかり買うから、こういうものストックしてねえだろ。でも栄養価が高いんだから、料理に混ぜて食わねえと身体に悪いぞ」
ほんとは惣菜なんかも持って来たかったのだが、さすがに時期が悪いと諦めた。

次々とテーブルの上に並べながら、どうだと自慢げに顔を上げる。
・・・と、またしてもゾロが妙な顔つきでサンジを見下ろしていた。
「―――なに?」
「いや、別に」
何事かときょとんとしたサンジを置いて、ゾロは小雨の中畑へと出かけて行った。


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