七夜  -1-

―――ただ今バルサン中
達筆な走り書きが玄関のガラス戸にべたりと貼り付けられているのを見て、サンジは煙草を口端に咥えながら、へへんと笑った。
ちゃんと自分の言うとおり、律儀に行動している。
満足しつつ、サンジは振り返ってぐるっと辺りを見渡した。
こんな広大な田舎で隣の家が川向こうなのに、警告文の意味はあるのか。
ふとそう思ったが、深くは考えないことにした。

相変わらず鍵の掛かっていない玄関に手を掛けて、ふと動きを止める。
バルサンを焚いたはいいが、それがいつから焚き始めたものかはわからない。
ついでに言うと、この家でバルサンを焚いてしまった暁には、隠れていたどんな有象無象が飛び出してくるのか・・・サンジの想像力では中身が追いつかないばかりに、却って怖い妄想ばかりが湧いて出た。
―――怖え・・・
畳の上にムカデが死んでたらどうしよう。
しかもそれが、一匹や二匹ぐらいじゃなかったらどうしよう。
その上、まだ見たこともない奇天烈で気持ち悪い虫達がいっぱい死んでたらどうしよう。
そう考えると、どうしても一人で扉を開ける勇気は出なかった。
「ゾロを、探しに行こう」
荷物を担いだままそう呟いて、くるりと回れ右をする。


距離はあるものの、田舎道だから位置は大体掴める。
来る道中で畑や田んぼにゾロの姿がなかったから、多分「まち」の辺りだろう。
この方向にテクテク歩いて行けば、「まち」の大通りに出るはずだ。
サンジは適当に検討をつけて、薄曇の空の下を歩き出した。

まだ梅雨が明けず、一雨来そうな雲行きだ。
湿気を孕んだ風はほのかに温い。
折畳みの傘など持ち合わせていないが、降って来たらコンビニにでも行けばいいやと軽く考えていたサンジは早くも後悔した。
目に付くところにコンビニが、ない。
コンビニどころか普通の店・・・いや、民家すら見えない農道をひたすら歩くのは、やけに疲れる。
同じ距離でもあれこれと店が立ち並ぶ街の中を歩くのとでは、気の逸らし方が違うのか。
とにかく、往けども行けども緑の風が吹き渡る田んぼ一辺倒では、景色にも飽きてくる。
どれだけ歩いたのか距離感も掴めないし、前を向いても対象物がなく後ろを振り返っても出発点の目印がない。
―――かなり、歩いたんじゃないのかなあ
時間を見ようと携帯を取り出そうとして、エンジン音に気付いた。

前方から土煙を上げて、軽トラが近付いてきた。
見知った軽トラだと大きく手を振り、よく考えたら軽トラって殆ど一緒じゃんと慌てて腕を引っ込める。
サンジに向かって真っ直ぐ走ってきた軽トラの運転席には、ゾロの笑顔があった。
「ビンゴ」
よくよく考えれば、こちら方面に走ってくるのはゾロだけなんだから、やっぱりゾロの軽トラだったんだ。
一瞬慌てた自分が可笑しくて、サンジはポケットに片手を突っ込んだままもう片方の手を再び大きく振った。

「早く着いたな」
「ああ、俺が早かったんだ」
相変わらず冷房のない軽トラは、乗り込むと余計に篭った熱でむわんと来た。
「夕方ぐらいに着くはずだったのに、今朝は用事が早く済んでさ。しょうがないからブラブラしながら来たのに、結局早めに着いちまった」
ハンドルを回して窓を全開にする。
走り出せば風が通り、ようやくひと心地ついた。
「家で待ってればよかったのに、どこまで歩く気だったんだ?」
「・・・うん、まあ」
リュックを下ろしてからシートベルトを嵌めて、前に向き直る。
「天気も良かったから、ちょっと歩こうかと」
「どこが天気がいいんだよ」
ポツポツと、フロントガラスに小さな雨粒が降り掛かってくる。
「そんだけ大降りにはならねえだろ」
「まあな、夕方になるとこうしてお湿り程度に降りやがる」
サンジはそれほど暗くない空を見上げ、それから改めて隣のゾロに視線を移した。
前に来た時から1ヶ月も経っていないから、久しぶりというほどのことじゃない。
けれど会うのは久しぶりだ。
ゾロはどう思うかわからないけど、自分にとっては随分長い間会ってなかったような気がする。
けど、ゾロに対して「久しぶり」とは言いたくない。
なんなのだろう、この複雑な男心―――

「どうした?」
ゾロが横顔だけで問うて来た。
じっくり見つめ過ぎただろうか。
「いや、別に・・・なんか、いい匂いするなと」
「ああ、献血してきたからな」
「―――は?」
車に乗り込んでから、どうもたい焼きか何かの匂いがするなと思ってはいたが、なんでそこで献血の話になるのか。
「今農協行ったついでに、公民館に寄って献血してきたんだ」
言いながら、ゾロは座席の横に置いてあった紙袋を掴んで寄越してきた。
茶色のそれは、所々油か湯気が染みて色が変わっている。
「あ、あったけえ」
「焼きたてだからな」
中を覗くと、大判焼きが4つ入っている。
「大判焼きだ」
「よかったら食えよ。俺も食う」
特に腹は減ってなかったのに、温かい大判焼きを目の前にしてこの匂いを嗅げば、すぐさま食欲が刺激される
のはどういうわけだろう。
サンジは「いただきます」と呟いて、まず一つをゾロに手渡しもう一つを自分の手に取った。
「んで、なんで献血で大判焼き?」
「商工会の青年部がな、献血会場で焼いてんだよ。200cc献血なら2個。400ccか成分献血なら4個貰える」
「・・・へえ」
なるほど、大判焼きは良く見れば形も不揃いだし餡子ははみ出ている。
味も油っぽさが残るし一部生焼けだ。
なのに―――
「美味いな」
「だろ?下手くそなくせに、美味いんだよこれが」
うん美味い、と心の中でもう一度呟いて、サンジは3口で食べてしまった。
ちなみにゾロは一口だ。

「もう一個、食うか」
「ああ」
ゾロに手渡して、自分も手に取る。
「4個ってことは、成分献血?」
「そうだ」
「長くかかっただろ」
「そうでもねえよ」
食べて話しているうちに、あっという間にゾロの家の前に着く。
けれどなんだか降りるのが惜しくて、車を停めた後もシートベルトを締めたまま二人で大判焼きを頬張った。
「文字通り、お前の血と汗と涙の結晶だな」
「汗と涙は入ってねえ」
くすくすと喉の奥で笑って、有り難く全部いただく。
紙袋をくしゃりと畳んで、シートベルトを外しリュックを携えて車から降りた。

「家で待ってれば良かったのによ」
表の貼り紙を外し、ためらいなくガラリと戸を開けるゾロの背中越しに、サンジが恐る恐る中を覗いた。
「まあ、な」
歯切れの悪い様子に、ゾロがふふんと鼻で笑う。
「何が死んでるか、見るのが怖かったんだろう」
「怖くなんかあるか、馬鹿やろう」
口ではそう言うものの、足は一歩も進んでいない。
「大丈夫だ、別に何も死んでねえぜ」
ゾロに声を掛けられて、サンジは後から着いて入った。
なるほど、居間にバルサンがどんと置いてあるが別に回りに何かの屍骸があるわけでもないし、畳みも白く
なったりしていない。
「・・・ちゃんと、効いてるのか?」
「さあな、この家は隙間も多いしあんまり効き目があるとは言えないが」
そう言いながら、ゾロの目線が隣の部屋で止まる。
「あ、いた」
「なにが?」
「見るか」
「・・・いや、見なくていい」

靴を脱ごうと踵を上げた動作のまま、サンジがゆっくりと後ずさる。
「10分待て」
ゾロの言葉に素直に頷いて、サンジは戸外で一服した。


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