新婚さんいらっしゃい
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「行ってきます」の声を、夢うつつに聞いた。
ゾロがぱっちりと目を覚ましたのは、時計の針が正午を指す手前だった。
我ながらよく寝たと、ベッドの中で大きく伸びをする。
そのまま腕を伸ばしてカーテンを開けると、外は雨模様だった。
昼間でも薄暗く、よく眠れたはずだと一人で納得する。

サンジは今日から、港町にある食堂に勤め始めた。
腕のいい料理人だからどこででも役に立つだろうし、度を越した女尊男卑の傾向はあるものの、元々愛嬌のある心根の優しい男だから誰とでもきっとうまくやっていける。
何も心配はしていないがやはり気になるのは気になるので、昼にでも様子を見がてら昼食を摂りに行こうと思っていた。
それがこの有様だ。

ゾロはポリポリと後ろ頭を掻き、どうせなら二度寝しようかとか考えた。
が、それではいかんと思い直してベッドから降りる。
サンジが用意してくれた朝食が、テーブルの上にあったからだ。

炊飯器に温かいご飯、鍋の中には味噌汁、冷蔵庫の中に鯵の干物。
並べて置かれた小鉢にはそれぞれ異なる惣菜が盛り付けられ、ラップがかけられていた。
卓上に残されたメモ通りに温め、魚を焼いて遅い朝食を摂る。
サンジの性格上、朝早く起きて一緒に食べたかったんだろうなと思わなくもなかった。
起こさなかったのは彼なりの気遣いかもしれないが、ゾロのライフスタイルにどこまで踏み込んでいいのかわからない遠慮もあったのだろう。

温めた味噌汁の湯気が、鼻先をくすぐる。
煮浸しも和え物も、どれも旨い。
卵焼きは少し甘く、酢の物は口当たりが良くて、干物は骨まで食べられた。
鰭も残さず平らげると、「ご馳走様でした」と手を合わせ首を垂れる。
それから食器を洗うべく、立ち上がった。


珈琲を煎れ、片付けたテーブルの上にノートパソコンを開く。
サンジも言っていたが、確かに自分専用の机は必要かもしれない。
ただ、資料や機材を集め始めると専用の机どころか部屋が丸ごと書斎になる危険性があるので、仕事とプライベートの線引きは重要だった。
そうでなくとも仕事にのめり込みやすい傾向にある。
いままでは一人暮らしだったから事務所兼自宅で広々と使っていたが、これからはそうはいかない。
知り合いの事務所にオフィスを間借りさせてもらい、できることは自宅で進める。

クライアントから、設計の変更依頼が来ていた。
面倒臭いとは思わず、どこをどうしたいんだ?と獲物を眺めるみたいにニヤニヤしながら目を通す。
手間がかかる仕事ほど、燃えるタイプだ。




夢中になって仕事をしている間に、気が付けば窓の外は夕暮れに染まっていた。
時刻は17時半を回っている。
いい感じで、腹が減った。

昨日、サンジとざっと散歩をした程度でこの街のことはまだよくわからない。
夕食を摂るついでにあちこち散策してみるかと、ゾロはパソコンを閉じて腰を上げた。


ゾロが住んでいるアパートはC棟で、他にA棟とB棟がある。
よく似て見えるのでこれはわかり辛いな、とは思った。
実際、どの方向を向いても同じ景色に見える。

ただ、街全体を通して言えることだったが、あらゆるサインがやけに明確だった。
「宿」だの「駅」だの「タクシー乗り場」だの、すべてが簡潔かつ大きく表示され、矢印も添えられている。
あまりにもあちこちに表示があるため、帰って混乱するような風景になっている。
「この街は、迷子が多いのか?」
ゾロは独り言ちながら、港の食堂に向かうべく山を登った。




森の中は、ほのかに甘い香りで包まれていた。
トイレの芳香剤に似ているが、それよりもうんとよい。
本来甘ったるいものが好きではないゾロでも、いい匂いだと感じるほどに。

なだらかな山道は、稜線をたどるようにぐるりと周回している。
この山は、真上から見るとまるであいつの眉毛みてえだなとゾロは気づいた。
ふと横を見やると、鬱陶しいほどあちこちに看板が立っていて「まゆげ山」との表記があった。
まんまじゃねえかと、一人ほくそ笑む。
「ってか、なんで山がここにあるんだ。俺ァ港に向かってんだぞ」
踵を返すも、来た道を引き返すことなく方向だけ変えてそのまま薮の中へ踏み込む。
道なき道をひたすら歩くと、不意に開けた場所に出た。
目の前が一面、夕陽だけでない朱に染まっている。

「へえ…」
ゾロは立ち止まり、口角を上げた。
海を見下ろす丘一面を彩るのは、彼岸花の群生だった。
幼いころ、田んぼの畔に咲いていたこの花を引っこ抜いて母のために持って帰り、叱られたことがある。
花の名前などほぼ知らないゾロだが、この花だけは覚えていた。

暮れゆく夕焼けと相まって、丘一面が燃えるような艶やかさだった。
最盛期が過ぎているのか、部分的に白く変色している花もある。
それもまた、そこはかとなく淫靡で静かな迫力を感じさせた。
―――あいつにも、見せてやりてえ。
そう思えばなおのこと、こんな場所で時間を潰しているわけにはいかない。
「ええい、港はどっちだ」
ゾロは眼下に広がる海を目指し、切り立った崖から身を躍らせた。






チャプチャプと穏やかな波音が耳元で響いている。
たゆたう感覚と冷たさに、ゾロはハッと目を見開いた。
目の前には漆黒の闇と瞬く星の光が広がり、端に行くに従って人工的な街灯が輝いて見えた。
「あん?」
首を擡げると、重心が下がって身体が沈み込む。
どうやら海に浮かんでいたらしい。
艀に打ち寄せられる形で、仰向けに浮いていたようだ。
「…なに、やってんだ?」
艀から見下ろしているのは、サンジだった。
びっくりしたような呆れたような、若干ドン引いたような複雑な表情で見つめている。
「おう」
ゾロはざぶりと水しぶきを上げて立ち上がった。
立ってみれば、膝下までぐらいしか潮位はない。
「お前んとこの食堂に、飯を食いに行こうと思ってな」
今いる場所は港のようなので、目的地に着いたのだろう。
「えっと、俺もう引けたし、早番だったし」
「そうか」
ゾロの言葉と同時に、ぐぐ~っと派手に腹が鳴った。
「腹、減ってるのか?」
「ああ」
「えっと、晩飯食いに来たのか?」
「いや、昼飯だ」
朝食はサンジが用意してくれたのを食べたので、昼飯をとるつもりで間違いはないだろう。
サンジはなぜか、沈痛な面持ちで額に手を当てて俯いている。
「どうしよう…っていうか、俺になにかできること、ある?」
青ざめて一人でぶつぶつ呟いているサンジに、ゾロは鳴り響く腹をなだめながら岸から上がった。
「なんか飯、食わせてくれ」
「わかった」
サンジは即答し、困ったようにへにょんと眉尻を下げた。
「まず、家に帰んねえと。この寒空にずぶ濡れとか、風邪引いちまう」
「これぐらい、なんともねえ」
「見てるだけで、俺が風邪引きそう」
「軟弱だな」
「うるせえ、それになんだよあちこちに葉っぱ付けて、顔も傷だらけじゃねえか」
「しらねえ」
「ほかに怪我してねえだろうな、痛いとこねえか?関節、妙な方向に曲がってねえか?」
「なんともねえよ」

夕凪に行きかう人々の影に紛れ、ゾロが歩いた道のりは濡れて黒い筋がついている。
ずぶ濡れの男がてくてく歩いているのは異様な光景かもしれないが、この島では特に注目を集めることもないようだ。
さっきから何度も同じ角を曲がる緑頭が複数いるし、耳や尻尾が生えた金髪もいるし、ぬいぐるみみたいに小さくて可愛い生き物も闊歩している。
海から上がった濡れねずみばマリモなど、さして珍しくもないのだろう。

「ああ、あそこの山にな。なかなか見どころのある場所があった」
「あそこって、まゆげ山じゃねえか。なんで山登ってんだよ、俺の店に来るんじゃなかったのか?」
「その道すがら、彼岸花がたくさん咲いてる場所があったんだ」
サンジの素朴な疑問には答えず、ゾロは思ったことを淡々と述べる。
「いい景色だった。お前に見せたいと思った」
そう言いながら、ゾロの足は山へと向かっている。
「ゾロ、とりあえず家に帰るぞ」
「ああ」
「帰るっつってんのに、また山に登るんじゃねえよ!」
サンジは業を煮やしてゾロの手を掴んだ。
驚くほどに冷たい。
いつもは傍に寄るだけで放熱しているのかと疑うほど高い体温を感じるのに、さすがに秋の海に浮かんでいただけはある。

「冷てえ」
「そうか?」
サンジは、ゾロの手をぎゅっと握った。
潮の匂いがするし、濡れて気持ち悪いし冷たいし。
けれど、もうこの手は放しちゃいけないと思った。
もう、一人歩きなんてとてもさせられない。

「早いうちに見に行かねえと盛りが過ぎて散っちまう」
「じゃあなおのこと、さっさと家に帰ってシャワー浴びろ。その間に俺が飯作ってやる。一緒に食って、それから今夜、見に行こう」
「夜だぞ」
「まゆげ山ライトアップって、そこにポスターが貼ってある。今が見頃だろ」
「そうか」

ゾロは、サンジの手をぎゅっと握り返した。
「てめえに見せてえと、思ったんだ」
そんな風に思ったのは、お前が初めてだ。
ゾロはそう言って、少し笑った。







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