Shower
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気候が安定した秋島海域は、遠目に眺める諸島もとりどりに色づいていて優美な眺めだった。
ぼったりと滲むように沈む夕日が、水平線を赤く染めている。
ラウンジから外の景色を眺め、ナミは届いたばかりのニュース・クーを広げた。
「いい島だったわよねえ、治安も良かったし物価も安かったし」
「食料も医薬品も買い揃えられて、よかったわね」
ロビンの言葉にチョッパーは笑顔で頷き、夕食の支度をしているサンジは身をよじって振り返った。
「そーうなんだよロビンちゃん、備蓄のことまで心配してくれてありがとう!」
「サンジがちゃんと管理してくれているからこそ、私たちは安心していただけるのよ」
「そうよ、サンジ君は頼りがいがあるから」
「んっナミっすわん!やっぱり俺に惚れちゃった?もう惚れちゃってる?」
「ううん、美味しいお食事を今後もお願いねって話」
サンジが鼻の頭を膨らませてすり寄ろうとするのをすげなく躱し、ペーパーをめくった。
「んー…なになに。ハロウィン諸島では通り雨にご用心?」
「ハロウィン諸島ってえと、このあたりだろ?別に雨が降りそうな雲なんてどこにも――――」
ウソップが言い終わらないうちに、窓の外にさーっと斜めに雨の筋が降り注いだ。
「あ」
「雨だ」
唖然と眺める仲間たちの前で、まるで如雨露で水を降らせるがごとくとめどなく雨粒が舞い落ちる。
ほんの数分程度で、降り出した時と同じように唐突に雨が止んだ。

「あ、雨が止んだ」
「まさに通り雨」
「それで、いったいなにがご用心なのかしら」
ロビンの問いに、ナミはペーパーに改めて目を通す。
「特になにが…とは書いてないわね。なにこれ思わせぶり」
ペラペラとページをめくり、お得情報などに目を通す。
「ま、通り雨に濡れなきゃいいんだろ。みんな船の中にいるし、問題ねえ」
一番心配な存在であるルフィは、サンジが作ったなかなか減らない頑固飴を舐めるのに夢中だ。
ほかの仲間たちは各自ラウンジでまったりと過ごしているので、外で雨が降ろうが影響はなかった。
「そうね」
「なあなあサンジー、晩飯なんだ?」
「飴舐めて待ってろっつってっだろうが!くっつくな」
「サンジ―俺も飴欲しい」
「チョッパーは、晩飯の後だ」

ワイワイといつでもにぎやかな仲間たちは、その場ゾロがいないことに気づいていなかった。




「ん?」
ゾロはパチッと目を覚ました。
とっぷりと日も暮れ、周囲は闇に包まれていた。
甲板に明かりが灯り、針のような月のそばで星が瞬いている。
「あーよく寝た」
船べりに凭れたまま両腕を上げて、大きく伸びをした。
その拍子に、ぐううと腹が鳴る。
島を出てから記憶がないから、ずっと寝落ちていたらしい。
いつもおやつ時となると誰かしらが呼びに来るのに、今日はそれもなかったのか。
「ったく」
ゾロはひとりごちて、立ち上がった。
座っていた場所がぐっしょりと濡れている。
通り雨でも降ったか。



ラウンジの扉は開かれ、中からワイワイとにぎやかな声が聞こえてきた。
すでに食事が始まっているのかと思ったが、席に座らず立ったままあれこれと言い合っている。

「だから、ゾロがどこにもいないんだって」
「まさか、海に落ちたんじゃないでしょうね」
「最後にゾロを見たの、いつだっけ」
「そういえば、おやつン時いなかったなあ」
自分の話題になっているのかと、ゾロは素知らぬ顔で空いている椅子に座った。
そんなゾロに誰も目を向けず、まだ話し合っている。
「海に落ちたって、ゾロならすぐ泳いで追いつくだろ」
「そこがゾロだよ、わかんねえぞ。追いつくつもりで追い越したり、もしくは反対方向に泳ぐって十分にあり得る」
「海の上で迷子とか、最悪」
「いやー心配ねえって、寝くたれマリモは今頃どっか別の場所でバカみてえな面してまだ寝てんじゃね?」
サンジの、心底馬鹿にした言い方にカチンと来、ゾロは憤然と立ち上がった。
そのまま大股で歩み寄ると、すぐそばを横切ったウソップが立ったまま「ひゃっ!?」と頓狂な声を上げる。
「なんかいま、風が吹いた」
「は?」
訝しげに聞き直すナミに、ウソップは両手をバタバタさせて気味悪そうに周囲を見渡している。
「風が吹きぬけたんじゃなくて、なんか、なんつうか、誰か通ったみてえな、瞬間的にちょっと感じる風みたいなの、あるじゃねえか」
「誰か?誰もいないわよ」
ウソップのすぐ隣には誰もいない。
ゾロ以外は。

ゾロは黙って振り返り、皆の様子を見渡した。
開けっ放しだったドアから中に足を踏み入れて以降、誰もゾロを見ない。
無視しているというよりも、まるでゾロの存在に気付かないかのようだ。
そして当人を前にして「ゾロはどこだ」と騒ぎ立て、サンジに至っては明らかにバカにしている。
ただ、喧嘩を売っているようには見えない。

ゾロは足音を消して、サンジに近づいた。
火が点いていない煙草を指で挟み、顎に手を当てている。
考え事をしているのだろうが、相変わらず眉毛は面白い形に巻いていた。
息が触れるほど間近に顔を近付けて繁々と眺めるのに、取り澄ました表情のままだ。
ゾロの姿が、見えていない。

思わず、ふっと鼻息が漏れてしまった。
途端、サンジはその場で「ひゃっ?!」と硬直して肩を竦めた。
「な、なんだ?!なんか生温ったけえ?ってか、なに?」
ゾロが立つ場所とは見当違いな方向へ視線を向け、頬を押さえていた。
泡を食った様子がなんともおかしくて、思わず吹き出しそうになる。
気配を消してその背後に回り込み、もう一度首筋に向かって息を吹きかけた。
「…っふ」
今度は慌てることはなかったが、動揺したのを悟られないように口元を押さえて堪えていた。
手を軽く握って顔に当てているが、頬が赤く染まっている。
「くっそ、扉が開けっ放しじゃねえか。生ぬるい秋風が入ってくっだろ!」
「ああ、夜になってだいぶ肌寒くなってきたな」
「ってか、寒いよ。別に生暖かくなんかないよ」
チョッパーがトトトと駆けて扉を閉めようとする傍を、サンジがすっとすり抜けた。

「船内迷子をちょっくら探してきてやるぜ。ったく、手間かけさせやがって」
「お願いね、サンジ君」
「ご苦労様」
「はあい、まっかせてナミさん、ロビンちゅわーん」
サンジはいったん立ち止まって身体を反転させ、くなくな揺らしてから部屋を出て行った。
その動きに接触しないよう気を配りつつ近づいていたゾロは、サンジが部屋を出るのと同時に自分も外に出る。
ずぶ濡れの身体に、冷えた夜風が染み透った。
たまには風呂に入って温まるのもいいと思えたが、いまはサンジの様子を観察する方が興味があった。
こいつはいつも、自分を探すときどんなふうにしているのだろう。





「おーい、マリモ―、肉ダルマー、コケ緑―、ハゲー」
――――ハゲてねえし。
思わず言い返したくなるのを堪え、様々なあだ名で呼び続けるサンジの後をついて回る。
「天然迷子―、マリモヘッドー、腹巻―、サボテンー、寝腐れマリモー」
そろそろ悪態の語彙も尽きてきたか、サンジはふうと息を吐いて立ち止まる。
船内をくまなく、名を呼びながら歩いて回った。
普段立ち寄らない場所も歩き回ったから、こんなところもあったのかと当のゾロが感心するほどだ。
男部屋の箪笥の抽斗を開けながら呼ばれるのは腹が立つよりおかしかったが、サンジは大真面目だった。
むしろ、最初は余裕だった顔つきがどんどん険しくなっていく。
「ったく、マジかよ」

何度か同じ場所をうろうろと歩き回り、再び甲板に戻って暗い海を見つめている。
そろそろ、肩を叩くか声を掛けるかして自分の存在を示した方がいいだろうと思ったのに、サンジは突然何の前触れもなく身を翻し夜の海へと飛び込んだ。

「…ウソだろ?!」
唐突な行動に度肝を抜かれ、ゾロは船べりに手をかけて船下を覗きこむ。
飛沫が上がり、サンジが周囲を泳いでいるのが見えた。
無意識にほっとして、船べりを掴む手からも力が抜ける。
「無茶しやがって、あの野郎」
サンジが、泳ぎが達者なことは知ってる。
麦わらの一味の中でも、ダントツに泳ぐのは得意だろう。
多少時化ていようが、暗い海であろうがサンジならばさほど問題なく泳ぎ回ることができる。
そう知ってはいても、ゾロは落ち着かなかった。

月明かりも乏しい、闇の夜だ。
急な天候の変化で嵐が来たとしたら、夜に乗じて敵襲があったら、巨大な海王類にとらわれて海へと引きずり込まれたら。
いかなサンジといえども、ひとたまりもない。
そんな危惧をものともしないで、いなくなった仲間を探して一瞬の躊躇もなく海へと飛び込めるものなのか。
それが毎日喧嘩する、そりの合わない天敵のような存在であっても。

ゾロも追いかけて飛び込みたかったが、自分の姿が見えなくなっている以上、これ以上の混乱は避けたかった。
海の中でであったとしても、向こうは絶対に気が付かない。
姿が見えない状態で声だけかけられてもパニックになるだけだし、海中ではきっと声も届かないだろう。

ゾロはじりじりと、気をもみながらひたすらサンジが海から上がってくるのを待った。
まるで魚のように身軽に泳ぎ、深く潜り、息が長いサンジが諦めて船に上がってくるまで、ゾロにとっては永遠に等しいほどの長い時間が流れた。



「サンジ!無茶してんじゃねえぞー」
食事を終えたウソップたちが外に出てきて大声をかけ、ようやくサンジは泳ぐのを止めた。
降ろされた縄梯子を伝って上がってくる姿も、どこか悄然として見える。
探し回った疲労だけでなく、表情が暗い。
「大丈夫かよ、すっかり冷えきっちまって」
ゾロが掛けたいことばをそのまま、ウソップが代弁してくれた。
「いや、もしかしてその辺にマリモが浮いてねえかなーと思って、さ」
はは…と軽く笑って見せる顔は青ざめていて、頤が震えていた。

「ゾロのことだから、万が一海に落ちたとしても絶対自力で戻ってくるわよ」
慰めるナミの横で、ロビンが顎に指を当てて呟く。
「戻ろうとして、反対方向に全力で泳いでいくかも」
「ロビン、いまはそれほんとシャレにならないから」
「ともかく、みんなでもう一度船の中を探そうぜ!サンジは、風呂入ってあったまって来い」
「そうですヨホホ~サンジさんだけ食事もまだですし、ゾロさんの分も一緒に置いてありますから」
「ゾロが見つかったらとっちめて、それで一緒にご飯食べなさい」

ナミの言葉にへらりと笑って頷いて、サンジは風呂場へと向かった。
肩を落とした後ろ姿になぜか胸がキリキリと痛み、ゾロも当然のようにその後へとついていった。



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