Shower
-2-


風呂に向かうサンジの後ろをついて歩いている間に、自分がずぶ濡れだったことを思い出した。
目が覚めた時、すでにしとどに濡れていたのだ。
今さらながら寒気を覚え、くしゃみが出かかる。
息を詰めて、危ういところを何とか堪えた。

「…え、まりも?」
サンジの呟きに、ゾロははっとして顔を上げた。
風呂場の脱衣籠に駆け寄り、中に脱ぎ捨てられた腹巻を手に取っている。
そういえば、昼間に一風呂浴びたところだった。
その時脱ぎ捨てた服を見て、風呂場にいると判断したのだろう。
サンジは戸を開けながら叫んだ。
「クソ腹巻!なに悠長に風呂なんざ入ってやがる!」
当然ながら、そこにゾロはいない。
無人の風呂場に、サンジの声だけがこだました。

サンジは、湯気だけが立つ空の浴槽を呆然と眺めた。
「…ゾロ」
ゾロに背を向けたまま、力なく呟く。
肩を落とした後ろ姿は痛々しくすらあって、ゾロは戸惑ってしまった。
さりとて今さら声もかけづらく、そわそわしながら様子を見守るしかできない。

サンジは腹巻を両手でくしゃくしゃと握りしめた。
そうしながら、とても大切なもののように胸の前に押し抱き俯く。
「ゾロ―――」
腹巻に鼻を近づけ、くんくんと匂いを嗅いで顔をしかめた。
「臭っ」
吐き捨てるように言いつつも、また鼻を近づけて匂いを嗅ぐ。
――――臭ェなら、嗅がなきゃいい。

以前から、サンジには何度も「臭い」「臭う」と貶され続けた。
そうして二言目には、風呂に入れと口うるさいのだ。
別に誰がいつ風呂に入ろうが人の勝手だと思うのに、近づいてくるだけで臭うとか汗臭いとか、とにかくやかましかった。
「うう、臭ェ」
いまも、臭い臭いと文句を言いながら腹巻に鼻を押し当てて頭を垂れている。
ことここにきて、さすがのゾロも様子がおかしいと気付いた。

「ゾロ…」
ゾロの腹巻に顔を埋めながら、どこか恍惚とした表情で吐息をついている。
これは見てはいけないものだと本能で察したが、目が離せない。
クン、クンと二度三度匂いを嗅ぎながら、サンジは片手でもぞもぞと服を脱ぎだした。
濡れて張り付いた服の下から、白い肌が透けて見える。
湯気のせいだけではなく頬が火照り、ほんのりと色づくさまが見て取れた。

――――やばい。
なにがどう、やばいのか。
説明できそうにないがとにかくまずいと判断して、もぞもぞし始めたサンジの脇をすり抜け、風呂場に入った。
サンジの姿を見て上がった体温に反して、冷え切った身体が自然とぶるぶると震えがきている。
自分の姿が誰にも見られていない不思議現象のことは頭から消えていて、とりあえず温まろうと服のまま水面を揺らさぬよう気を付けて風呂に浸かった。

服の上から温かな湯がじんわりと染み透り、あまりの心地よさに声が漏れそうになる。
堪えきれず、鼻から息が抜ける音より大きな声が響き渡った。

「はあア?!」
驚いて振り返る。
片手にゾロの腹巻を握りしめたまま、サンジがこちらを凝視して固まっていた。
その視線の先に自分がいるから、存在がバレたとわかった。
ただ、見つめているのは湯船の中だ。
うつむくと、湯に浸かった部分だけ自分の身体が写っていた。
服を着たままだったから、湯が服に染み込んで姿が浮き上がったのだろう。
湯船から出た部分は透明なままなので、ちょっとしたホラーだ。

「てめ、このっ、マリモ?!」
衣服を見て判断するも、サンジはまだ戸惑っている。
ゾロは覚悟を決めて、そのままざぶんと湯の中に頭の先まで浸かった。

飛沫を上げて湯船から浮かび上がれば、サンジは顔を真っ赤に染めてぷるぷると震えている。
怒りのあまり、湯気でも噴きそうだ。

「い、つから…そこに、いた」
「つい、さっき」
湯船に浸かって姿を現したのだから、実際にここにいたのはついさっきだ。
「それまでは、お前の後ろにいて」
ゾロは浴槽に肘を置いて、バカ正直に説明する。
「てめえが海飛び込んだのも、他の奴らが俺がいねえと騒いでいたのも、知っている。つか、見てた」
サンジは赤くなったり蒼褪めたりしながら、口をパクパクさせていた。
「俺も雨で全身濡れてたから冷えてな、モタモタしてるお前に悪いが先に風呂、入らせてもらった」
「モ…モタ…」
「気にしねえで、続けてくれ」
「―――――できるか―――っ!!」
決して油断していたわけではなく、それはもう目にもとまらぬ速さでさすがのゾロも反応できない瞬発力で持って、思い切り蹴り飛ばされた。
ゾロは壁を破り屋根を突き破って、綺麗な放物線を描きながら夜空を横切りかなたの海へと落ちた。
遠くでドップーンと水音が響き、甲板に集まっていた仲間達が声を上げながら集団で移動する気配がする。

「あれ、ゾロじゃね?」
「やっぱり海に落ちてたの」
「おーい、ゾロぉ―――っ」
サンジは濡れた衣服を手早く脱いで、ゾロの腹巻もまとめて丸めて脱衣籠に投げつけて、憤然としながら身体を洗う。
天井に空いた穴からは、瞬く星の輝きが見えた。





「ゾロ、ここにいたの?ずっと?」
海から引き上げられ風呂に浸かって温まったゾロは、酒を片手に呑気に事情聴取に応じている。
「おう、昼寝から目が覚めたからここに来たが、お前ら全然俺のこと、気付かなかったぞ」
ナミは眉をひそめ、「もしかして」と呟く。
「あんた、外で昼寝してたのよね。夕暮れ間際に雨が降ったけど気付いてた?」
「さあ?だが、起きた時身体中濡れていた」
「それか」
「それだ」
「それですヨホホ~」
ウソップとフランキーとブルックに指差され、ゾロはむむむと眉間に皺を寄せた。
「通り雨にご用心って、雨に濡れたら透明になるってことかしら」
「なんだってェー、ナミさん!」
そこにサンジが興奮した様子で割って入る。
「雨に濡れたら透明って、そんな、スケスケの実いらずのお手軽アイテムって、どこ!雨雲どこ!!」
「あーうるさい」
「サンジ、雨乞いをすると雨が降るかもよ」
「よしわかったよ、ロビンちゃん!」
ロビンに唆され颯爽と表に飛び出していくサンジを置いておいて、ナミは腕を組んだままじろりとゾロを見下ろした。

「姿が見えなかったのはともかく、気配も感じ取れなかったって、どういうこと?」
「っていうか、音もしなかったよな」
「俺たちに見えてないって気づいて、なんで知らせようとしなかったんだよ」
鋭い指摘に、ゾロは視線を斜め上に彷徨わせて黙る。
ルフィが、凭れた椅子の前足を浮かしながらあっけらかんと言った。
「ししし、ゾロ、わざと気配殺してたんだろ」
「なんのために?!こっちは、真剣にあんたのこと探してたのよ。わかってんの?」
「そうだぞゾロ、サンジなんか夜の海に飛び込んだんだからな」
チョッパーに咎められ、ゾロは素直に頭を下げた。
「すまん」
「謝る相手、間違えてんでしょ」

それもそうだ、と思う。
そもそも、ゾロが気配を殺して見つからないように息を潜めたのは単なる悪戯心からじゃない。
ではなぜそんなことをしたのかと問われれば、答えようがないのだけれど。

ゾロは立ち上がり、大股で歩きだした。
「ちゃんと、謝るのよ」
ナミのダメ押しに、振り向かず肩だけ竦めて見せて扉を閉める。

そろそろ日付が変わろうかという時刻に、サンジは船べりに凭れて煙草をふかしていた。
てっきりアホみたいな雨乞いの儀式を一人で執り行っていると思ったから、拍子抜けして歩みを遅くする。
ゴツゴツとした足音に、サンジは嫌そうに振り返った。
「なんだ、今度は気配消さねえのか」
嫌味たっぷりだ。
しかも視線が険しい。
完全に怒っている。

悪かった、と素直に口にできるほどゾロは人間ができていない。
さりとて言い訳を並べ立てるのもよしとせず、結果、黙ったままサンジを睨み付けてしまった。
逆効果でしかない。

「…面白かったかよ」
「あ?」
サンジはゾロから顔を背け、暗い海面を見つめた。
目を合わせてもらえないことが、寂しく思える。
「お前を探して、海に飛び込んだ俺の間抜けっぷりが、面白かったか?」
「いや」

そこにいるのに気付かず、探し回るサンジの姿を滑稽だなどと思ったこともない。
ではなぜ気配を殺してまで黙っていたのか。
見ていたかったからだ。
嘲笑うとか馬鹿にするとかではなく、自分を探すサンジの姿をずっと見ていたかった。

――――ああ、そういうことか。

すとんと自分の中で腑に落ちて、深く息を吐いた。
「なに?言い訳もしねえ上にため息とか?!」
あんまりなゾロの態度にキレたサンジを、穏やかなまなざしで見つめ返す。
急にいろんな思いが溢れてきて、胸がいっぱいになった。

「そうじゃねえ…うまく、言えねえが」
ゾロはガリガリと後ろ頭を掻き、言葉を探す。
「たとえば、てめえが船から急に消えたとしたら、俺も多分探すと思うし、あちこち探して見つかんなかったら焦る。海にまでは飛び込まねえ、お前は、海に落ちたって大丈夫だから」
たどたどしいゾロの言葉に、サンジは何か言おうと口を開きかけては止めるを繰り返した。
「ただ、そんな俺の姿をてめえがどっかから見てたら、バツが悪ぃな、とは思う。あと、腹立つ。けど…」
話している間に、本当にそんな気がしてきた。
なんの前触れもなく突然サンジが消えたら、言い訳でも取り繕うでもなく、とにかく自分は落ち着かないだろう。
想像しただけで、胸のあたりがぎゅうと締め付けられて苦しい。
「見つかったら、よかったと思う」

ゾロ的には、非常にいっぱいいっぱいな言葉の羅列だった。
これ以上とても表現できそうにないし、言葉足らずなのは自覚しているので理解されずとも仕方ない。
案の定、サンジは顔を背けたまま大仰に「は――――っ」と息を吐いて見せた。

その時、ぽつぽつと唐突に大粒の雨が降ってきた。
見上げる間もなく、まるでバケツをひっくり返したかのようなどしゃ降りになる。
先ほどまで満天の星空が輝いていたのに、天候の急変具合には慣れたとはいえ驚かされるばかりだ。

「これ、透明になる雨かね」
サンジが幾分はしゃいだ声を上げたので、ゾロはためらいなくその肩を掴んで抱き寄せた。
「…えっ」
「わからん、俺は自分が透明になっている間も、透明だって自覚はなかったからな」
あっという間に全身ずぶ濡れになった。
濡れた前髪の間から覗く瞳が、驚きに見開かれる。
「今ならてめえが見えてっが、見失うと困る」
もう、探すのも探されるのもこりごりだ。
そう思って両手で抱きしめるのに、サンジは今度は蹴り飛ばすこともなく大人しく腕の中に納まった。
少しためらいがちに両手をずらし、ゾロの背中へと回す。

「――――そうだな」





「外はすっごいどしゃ降りだけど…どうする?」
「もうハロウィン諸島は通り抜けているから、普通の雨のようね」
「丸見えなんですけど」
「私の眼には何も映っておりませんヨホホ~眼球、ありませんし」
「見なかったことにしよう」


間もなく雨も止むだろう。
そう判断して放置を決め込み、仲間たちは就寝すべく静かに解散した。



End