霜華



空っ風が吹きぬける小路に清掻の音が鳴り響く。
ここ数日急に冷え込んで風花など舞うものだから、客足も少々鈍いようだ。

「よう、首尾良く三治太夫には会えたかい?」
編笠茶屋の案内人は、強面のゾロに臆することなく陽気に声を掛けた。
対してゾロは、益々仏頂面になる。
「なにが首尾良くだ。散々待たせた挙句、ほんの半時もいやしねえ。とっとと座敷を変えられたぞ。」
文句を言いながらも刀を抜いて男に渡す。
そばかすの浮いた顔に人懐っこい笑みを浮かべながら、男は神妙に三本の刀を受け取った。
「ありゃ、貰い引きか。運がなかったなあゾロ。まあ最初はそんなもんさ。」
軽口を叩くこの男は、実はれっきとした旗本の三男坊だ。
なぜか道楽ついでに茶屋で案内人の真似事などをやっている。
ゾロとも旧知の仲だから差紙も適当に書いてくれた。
そうでなければ、ゾロも他人に刀など預けない。

「そいで本日は裏だな。まだ手出しちゃダメだぞ。」
「なんだ、まだなんかあんのか。」
「何もねえけど、何もできねえんだよ。後1回は眺めるだけで我慢しやがれ。」
けっ、とそっぽを向いて顎を突き出しているのに、エースは笑いを噛み殺す。
なんのかんの言って、ちゃんと通うんだよな、こいつも。
「まあ一通りの作法は教えてやる。何事も始めが肝心だから、辛抱しろよ。」
実際こうしてエースが親切に手ほどきしてくれなければ、ゾロはサンジに会うことすら叶わなかっただろう。




あの、雨の夜。
人斬りの現場を見られたとは言え、女子供に手をかけるつもりはなかった。
ただ騒がれては困ると思い立ち止まったのだが、思いもよらず相手から近寄ってきた。
女にしてはやや大柄な、だがしなやかな身のこなし。
袖から覗く手の白さに目を奪われて――――
一瞬除いた月明かりが照らし出したのは、透けるような銀の瞳。

そんな目をした人間を、ゾロは一人だけ知っていた。

あの目は、昼間お天道様の下で見たなら抜けるような空の青だ。
そして纏う髪は黄金。







幼い日、父に連れられて過ごした田舎で、初めて出会った。
道場での稽古の帰り道、畦道を駆ける悪ガキ共が囃し立てながら石を投げている。
それに気付いてふと立ち止まり、よく見ればその先に茶色い犬のようなものが蹲っていた。
畜生といえど無体なことは見逃せない。
普段村の子供になど構うことはなかったがゾロは真っ直ぐ土手を下りて声を掛けた。

「なにをしている。」
ゾロのよく通る声が響くと、ガキ共は弾かれたように振り向いた。
ゾロに声を掛けられるなんてはじめてのことだから、皆もじもじとしてその場に立ち尽くしている。
ほんの少し離れた場所にいる犬に目をやれば、どうやらそれは犬ではなかった。
薄汚れた着物を着た、小さな子供だ。
だがほっ被りの下から覗く髪は、赤犬のような色をしている。

「なにをしている。」
ゾロはもう一度問うた。
子供達の中でも年かさのものが一歩前に出た。
「山に住みついとる天狗の子が里に降りてきたから、おっ払っとるんじゃ。」
そう叫ぶと、逃げろーっと叫んで一斉に駆け出していった。
賑やかに騒ぎながら走り去っていく背中を見送って、ゾロはもう一度先ほどの子供を見た。

天狗?
見ればなるほど、そのような髪をしている。
ゾロはずかずかと天狗に近付き側でしゃがんだ。
俯いて座り込んでいる天狗はひどく薄汚れた成りで、手も足も泥だらけだ。
裾の破れた着物から枯れ木のような脛が覗いている。
足首は不自然に太く見えて、ゾロはそこに手を伸ばした。

ぱちんと、小さな手で叩かれる。
天狗はほっ被りの下から睨みつけていた。
その顔を間近で見てまた驚く。
睨み付けるその瞳が、見たこともない色をしていたから。
空の色が映ったのかと思った。
見れば見るほど綺麗な青で、ゾロは一目で惹き付けられた。

もっと見ようとさらに顔を近づけると今度はばちんと頬をはたかれた。
武士の子である自分に手を上げるとは、さすがは「天狗」畏れ知らずの化け物だ。


ゾロはそう詰ることもせず、か細い腕を取って軽く抑えると投げ出されたままの足首に手を触れた。
やはり、腫れている。
さっきから座り込んで動けないのは挫いたかなにかしたのだろう。
抗う天狗の両手を片手で一纏めにしてゾロは顔を上げた。
「怪我しているな。歩けんのか。」
天狗はびくりと首を竦めて目を逸らした。
その顔を追うようにゾロも首を傾ける。
もっとこの色を見てみたい。
「川で冷やすといいかもしれん。立てるか?」
天狗の手は小刻みに震えていた。
人間に触れられるのは始めてなのかもしれない。
仕方がないと、ゾロは天狗の手を持ったままもう片方を腰に回して抱き上げた。

「何をするっ」
驚いた。
人間の言葉を喋る。
「なんだ、お前言葉がわかるのか。」
「うっせ、降ろせ!降ろしやがれ!」
バタバタと不自由な足を振り上げてもがくから、ゾロは更にしっかりと抱え直した。
「暴れても無駄だ。とりあえず川で冷やせ。」
「クソ、離せ!離せ〜」
暴れる天狗に構わずゾロはずんずん土手を歩いた。


川べりに下りてまだバタつく天狗の裾だけ捲り上げる。
深そうなところに片足を浸らせて、ついでに足についた泥を落とした。
水の冷たさが心地いいのか、ゾロの背中を叩いていた天狗の動きが一瞬止まり、ぎゅっと着物を掴んだのがわかった。
澄んだ水面に赤茶けた泥水が流れていくうち、驚くほど白い脛が現れた。
母が冬場にかわとで洗う、大根の白さに似ている。
太さは全然違うけれど。
あまりの白さに面白くなって、ゾロは何ともない方の足も浸けて洗ってみた。
細かい切り傷やこびり付いた血も洗い流す。
綺麗に洗い流されて水の中で揺れる足は魚のようだ。

ゾロは天狗を横抱きにしてもう一度顔を覗き込んだ。
天狗は観念したのかぎゅっと目を瞑って唇を噛み締めている。
先ほどの子供が投げた石が当たったのか、こめかみから頬にかけて血が流れ落ちていた。
ゾロは天狗のほっ被りを剥ぎ取ると、水に浸して軽く絞ってから傷口にそっと当てた。
ついでに顔に付いた泥も落とす。
足と同じように白い肌が現われた。
髪に付いた血糊を拭うと、埃と泥に塗れていた髪筋が光を跳ね返す。

――――なんと不思議な。
明らかに異形の子供。
だが、ゾロの目にはそれが美しいと映る。

丹念に泥を落とすゾロの手つきに、最初は身を固くしていた天狗は徐々に身体の力を抜いてきた。
そっと伺い見るように薄目も開ける。
ああ、やはり空の青だ。
そして髪はお日様の色。

「触る、な。」
大人しくされるがままになっていながら、天狗はそんなことを呟いて口を尖らせた。
「お前、天狗か?」
至極真面目な顔をして聞いてみた。
途端に天狗はきいっと歯を剥いて見せる。
「誰が天狗だ!どこに目つけてやがるんだボケ!」
えらく乱暴な口調だ。
ますますゾロは面食らった。
「ならなんだ。何故こんな色をしている。」
汚れた手拭いを川で濯いだ。
泥水が流れて溶けていく。
中途半端に泥を落として素顔を晒した子供は、折角綺麗になった頬をまたごしごしと擦った。

「泥を落とすな。肌を見せちゃなんねえって、じじいの遺言だ。」
ゾロから手拭いを引っ手繰ると慌てて頭に被る。
「じじいって、身内がいるのか。いや、死んだのか。」
子供は片足を水に浸したままゾロに肩を押さえられていて逃げられない。
悔しそうに顔を歪めながらも、諦めたのかその場に座り込んだ。
「じじいは、足の怪我で死んだ。俺を庇って崖から落ちたんだ。」
下唇が突き出されてますます表情が歪む。
青い瞳が一際大きく見えたと思ったら、潤んだ瞳からほろりと涙の粒が零れた。
「・・・そうか。」
ゾロは慰めも言えず、ただ痩せた肩を軽く撫でた。
見たこともない化け物の子供だが、不思議と恐れも厭わしさもない。
妖かしでも涙を流すのかと、感心すらする。
「この髪も目も生まれつきだ。俺あ、化けモンとかじゃねえぞ。」
ゾロの胸の内を見透かしたかのようにそう言って、子供はごしごしと顔を擦った。
雪のように白い肌が、もとの泥まみれに戻ってしまう。
それを惜しいと一瞬気を逸らした隙に、子供はすくっと立ち上がり河原へと駆け出した。
大きく水飛沫を上げて一気に土手まで駆け登る。
ほんの少し片足を引き摺ってはいるが、大丈夫そうだ。

「おい、お前名前は!!」
ゾロの声に一瞬振り向き立ち止まる。
「俺はゾロだ!お前は?」
「・・・サンジ!」
一声答えると、身を翻しそのまま田圃を突っ切って山の中へと消えてしまった。

気が付けば釣瓶落としの日は暮れて、辺りは夕闇に包まれている。
放りっぱなしだった竹刀を拾い上げ、ゾロはもう一度山を振り仰いだ。
暗い森の中には灯り一つ見えず、中空に浮かんだ一番星だけがやけに目立つ。

「・・・狐じゃあ、ねえよな。」
まるでなにかに化かされたような呆けた顔をして、ゾロは小さく呟いた。










そんなことがあってから、ゾロは稽古の帰り道には必ず山裾の道を通るようになった。
気をつけて見ていれば、時折茶色の犬みたいにあの時の子供がウロウロしているのに出くわす事があるのだ。
子供はゾロと出合う度、悪戯を見咎められたときみたいに顔を顰めながら、それでもどこか嬉しそうに近付いてくる。
そうして言葉を交わすうちに、ゾロはすっかりこの子供が気に入ってしまった。

道場に通う子供らは、ゾロ以外は皆家柄のしっかりした年長者ばかりだ。
ゾロは武士の子と言えど貧乏で、長屋暮らしというだけで馬鹿にされている。
かといって村の子供達には武士の子だからと敬遠されていて、親しくできる同年代の子供が側にいなかった。
ゾロもそれを特別寂しいとは思わなかったが、思いもかけず知り合った天狗だか狐だ分からない子供、サンジは話してみればかなり面白い。

山や野に生えている草の種類や食べ方なんか、聞いてもないのにえらく詳しく教えてくれて、そうして話す声や表情が生き生きとしていて、見ているだけでゾロの方が嬉しくなるのだ。
小汚い化け物の風をしていて、楽しげに笑う顔は屈託なく明るかった。

「もう足はいいのか?」
二人で並んで河原に腰掛けて、ゾロは着物の裾を捲くった。
相変わらず泥まみれの脛だ。
「ああもうすっかり腫れも引いた。痛みもあとちょっとだ。」
サンジはそう言って、すぐに裾を直す。
膝から上はやはり真っ白で、一瞬垣間見えただけでもゾロにはなんだか眩しかった。

「ほんとに一人で住んでんのか。山ん中だろ。」
「ああ。」
「怖かねえのか。」
真面目な顔で問うゾロに、サンジはきょとんとした顔をして、それからぷっと吹き出す。
「なんだ怖えって、お前怖いのか。」
「怖かねえ。怖かねえけど、普通怖がるだろお前くらいの子供だと。」
「お前だって子供じゃねえか。」
サンジはひとしきり笑って、枯れたススキを手で弄んだ。
「小さい頃から人里離れたところで住んでた。俺に言わせりゃ闇やケモノ、化け物なんて怖かねえよ。ほんとに怖えのは、人だ。」
「人か。」
「ああ、じじいも言ってた。人間が一番怖えってな。俺みてえに毛色の違うのはとっ掴まるとどこかに売られちまう。」
「売られる?」
「ああ、俺珍しいだろ。見世物とかよ。」
ゾロは驚いてまじまじとサンジを見た。
確かに珍しいけれど、だからってそんなのはあんまりだ。
「だからじじいに言われたとおり汚してるんだ。あんまり里にも降りたくねえ。誰にも見つかりたくねえ。」
顔を伏せてどこか諦めたように笑う子供の顔は、一瞬だけ不相応に大人びて見えた。
何故か苦しくなってゾロは破れた着物の裾を掴む。

「けどもうすぐ冬が来るしな。食いモンなくなっちまうし、一人で冬越すの初めてだし。んで里に降りてきたらガキ共に見つかっちまった。」
この間石を投げられたのは、そう言うことか。
「なんで石投げたりすんだよな、あいつら。」
「お前だって俺のこと天狗っつったじゃねえか。化け物だと思ってんだろ。今も。」
そう言われてゾロは答えに詰まってしまう。
確かに人間じゃないように思ってはいるが、化け物と言うのともちがう。
ただなんて表現していいのか分からない。
じっと見つめるサンジの顔の、汚く塗られた泥の下には雪より白い綺麗な肌が隠れているのに。
ザンバラの茶色い髪は、本当は絹みたいに輝いているのに。

「化け物っつうより・・・天女かな。」
「天女?」
「うんそれは女だから違うけどな。って、お前男だろ。だから・・・天男?」
「なんだそれ。」
ゾロは上手く言えなくてばりばりと頭を掻いた。
「なんて言っていいかわかんないけどよ、お前すげー綺麗だと思う。あのよ、お前の髪とか顔とか・・・それと目とかさ、その色俺すげー好き。」
サンジは一瞬呆けた顔をして、それからぽっと頬を赤らめた。
泥の上からでもはっきりと分かるくらい、赤面している。
「あ、あ、あアホか。てめー変わってる。」
「あーそうかもな。お前と同じくらい変わってる。」
そう言ってにっと笑うと、サンジもつられてにっと笑った。

そうして二人して日が暮れるまでたわいもなく話してみる。
なんとなく、そんな日が続いていた。








やがて里にも霜が降りた。
どこか寂しげに吹き抜けていた秋風は、凍えるような木枯らしになり、いつの頃からか山の頂きが白に染まる。
そうして訪れた冬将軍は、獣も人間も容赦なくその冷たい懐に抱き抱えてしまう。

降りしきるぼたん雪の中で、サンジは必死で薪を拾い集めていた。
壊れかけた山小屋に運んでは、また取りに行く。
薄い着物1枚で指先はカタカタと震えてしまうけれど、完全に積もってしまう前に薪だけは確保しておきたい。
もうすぐ山は雪に閉ざされる。

と、普段誰も訪れるはずのない山道を誰かが登ってくる足音が聞こえた。
――――ゾロかな。
サンジはあまり里へ出たがらないから、最近はゾロの方からこの小屋まで訪ねてくるようになっていた。
身を切るような冷たい湧き水で汚れた手を洗ったついでに、サンジは手拭いを濡らして顔も拭った。
山の中ならそんなに泥をつけてなくてもいい。
それにゾロはどうやら自分の顔が好きらしいから、一度ちゃんと見せてやってもいいかとも思っていた。

近付いてくる足音は、一人ではなかった。
しかも子供のものでもない。
そのことに気付いて身を隠そうとしたが間に合わず、サンジは数人の男と鉢合わせしてしまった。

「なんだこいつは?」
武士の成りはしているが、どこかにやけた顔で男たちが取り囲む。
「珍しいな紅毛人か。」
「なんと色の白い・・・」
その内の一人に腕を取られて、サンジは慌てて振り払おうとした。
だが大人の力には叶わない。
「こんな山の中に住むとは天狗か。さすがは田舎よの。」
「見ろよ。真っ白だぜ。」
襟を肌蹴られて肩を剥きだしにされる。
身を捩って抗えば背中から着物を剥ぎ取られた。
「化け物なら術でも使ってみろ。」
男は笑いながらサンジを地面に押し倒した。
「またまたそのような戯言を。」
「最近ろくな女に相手されておらんからな。子供相手に見境のない。」
「だがこんな肌は見たことがないぞ。」

両手足を押さえつけられ、サンジは叫ぶことさえできなかった。
ジジイ以外、はじめて身近で見た大人の男。
しかも何人もいて、自分を見下ろして笑っている。

「大人しくしておれ。乱暴はせんぞ。」
男の手が胸に触れて、サンジは目をぎゅっと瞑った。


「ぎゃっ」
短い悲鳴とともに、圧し掛かっていた男がサンジの上に倒れこむ。
続いて横に立っていた男も膝を折って突っ伏した。
「この・・・」
ようやく刀に手をかけた男も、抜く間もなく打ち据えられた。
最初に倒れた男の下からなんとか這い出したサンジは、その光景を見て息を呑んだ。
大の男が4人白く染まり始めた枯れ野原の上に突っ伏して気絶している。
それを冷たい目で見下ろしているのは、竹刀を持ったゾロだ。

「ゾロ!」
カラカラに乾いた喉からサンジはなんとか叫んだ。
その声に我に返ったように、ゾロがはっと前を見る。
「サンジ、大丈夫か。」
「ゾロ、ゾロ・・・」
前を肌蹴られて真っ白な腹まで見えるサンジの乱れた姿に、ゾロはぎょっとして慌てて襟をかき合わせた。
そのまま震える背中を抱きしめる。
「大丈夫か。なにもされなかったか。」
「うん、うん。ゾロ・・・」
なにもされなかったかなんて、サンジが何をされかかったのかゾロにはよくわからなかった。
ただ男たちの背中を見つけたら頭に血が上って、何がなんだか分からなくて・・・
でもきっと大丈夫だったんだ。

「サンジ。」
ゾロの肩に顔を埋めて、しゃくりあげている痩せた背中を優しく撫でた。
やはり、サンジを一人で山に置いておく訳には行かない。
この男達が何者かはわからないけれど、見つかってしまってはこれからなにかと面倒だろう。

「サンジ、俺んとこに来い。」
ゾロは意を決して言った。
「俺んとこ、貧乏で狭い長屋暮らしだけど、父上も母上も優しい方だ。きっとお前のことも一緒に見てくれる。」

サンジは驚いて顔を上げた。
すぐ間近に、滑稽なほど真面目な顔をしたゾロがいる。
「お前、化け物でも何でも、まだ子供じゃねえか。絶対一人で暮らすなんて無理だ。俺んとこ、来い。」
サンジは涙でぐしゃぐしゃになった顔を一層歪めて笑って見せた。

「馬鹿言ってろ。そんなこと、お前が決めることじゃねえ。」
「大丈夫だ。絶対俺が、お前を守る。」
力強くそう言って、肩を抱く。
サンジはふるふると頭を振るとそんなゾロを押し留めた。
「嬉しいぜ、あんがと。その言葉だけで充分だ。」
「サンジ。」
「実は俺の住処はここだけじゃねえんだ。じじいはいくつか山ん中に小屋を見つけてくれてんだ。だから場所を移ったら大丈夫だ。」
そう言って立ち上がり、着物の汚れを払った。
「薪はここに置いといて、そう遠くないとこにもう一個小屋があんだ。そこで住むから。」
「サンジ。」
「ゾロは、余計なこと考えんなよ。親とかにも言っちゃダメだ。俺はちゃんと一人で生きていける。」
そう言って笑うサンジの顔は、もう泣いてはいなかった。
上気していた頬もすうと冷めて、白さが際立って見える。

「だからよ、誰にも言うな。絶対だ。」
こんな時、その冴え冴えとした蒼い瞳はぐっと大人びて見えて近寄りがたい。
ゾロはそれ以上何も言えず、ただ仕方なく頷いた。
「・・・けど、俺はこれからもお前を守るからな。」
「うん。」
ついてくるなとそう言い終えて、サンジは林の中へ消えていった。
ゾロはただ立ち尽くし、その後ろ姿を見送るしかない。

自分はまだ何もできない子供だけど、もっともっと強くなって、いつかちゃんとサンジを迎えに行ってやろう。
サンジが普通に暮らして行けるように、二人で笑って暮らせるように。
いつかきっと。



まだ倒れたままの男達を避けて、ゾロはそのまま山を降りた。

ふもとから村を見渡せば、夕暮れの朱の中であちこちの家から煙が立ち昇っている。
風花が舞う景色でさえ、どこか優しく映る暖かな風景。
振り返れば、山はまるで水墨画のように白と黒だけで彩られていた。
そこだけが冷たく暗い、異世界への入り口。
獣の鳴き声一つない、静まり返った森の中でただしんしんと雪が降っている。
もうすぐ里にも降りてくるだろう。
サンジは一人で、真っ白な雪の中、凍えながら眠るんだろうか。

せめて母にはこのことを告げようと思った。
もしかしたら家に連れて来いと言ってくれるかもしれない。
父も、優しい人だから許してくれるかもしれない。
きっとそうだ。
そうだと、いい。




冷たい風が吹きすさぶ夜道を、まだ鳴り止まぬ鼓動とともに家路に急いだ。
サンジの痩せた肩の感触も、その肌のぬくもりもまだ掌に残っている。
失いたくはないと思った。

だが―――――
その日を最後に、サンジは姿を消した。


そして、間もなく
村は紅蓮の炎に包まれることになる。













ゾロは閉じていた目をゆっくりと開き、杯をぐいっと飲み干した。
隣に侍る新造が楽しげに笑う。
「お客人、座ったままお休みでありんすか。」
「ほんに、お眠りかと思いんした。」
ようやくまみえたサンジは、正面に座して穏やかに微笑んでいる。
口を開くことはない。
酌をしてくれることもない。
ただお飾りのように座っているのを眺めるだけだが、ゾロはそれで満足していた。

美しい子供だと思っていた。
自分だけが知っていた
その肌も、その髪も、その瞳も全部。
美しいと思っていた。

今目の前にいるのは吉原きっての看板太夫。
金銀の簪も鼈甲の笄も色を失うほど艶やかな白き華。
だがこの姿よりもっと美しいサンジをゾロは知っている。
抜けるような秋空の下、屈託なく笑う妖かしの子供。
泥に塗れ、垢に汚れた着物を纏いながらも輝くような笑顔を見せた。





ゾロはほんの少し口端を上げて笑みを作る。
サンジもそんなゾロを見つめて目を細めた。
あの日の空より、蒼い瞳で。


語らずとも二人
思い描くのは、初めて出会ったあの秋の日のこと。




東風へ