東風




柔らかな風の中にふと花の香を嗅いで、サンジは顔を上げた。
空はどんよりとした雲に覆われ、しとしとと春の雨が降り続いている。

「どうした、誰のことを想うておる。」
責める口調ではない穏やかな問いかけに、サンジは煙管を置いて背後から抱きすくめる男に
ゆっくりと振り向いた。

「おや悋気でありんすか。越後屋さんともあろう方が。」
からかいを秘めた声音を肯定するように、男はサンジの細腰を掴む手に力を込める。
「お前は女と違って情がない。心だけは自由にどこへでも飛んでいってしまえるだろう。梅の花のように。」
サンジは目を閉じて、口の端だけで笑って見せた。
「あちきも、どこかで梅の香がすると思ったでありんすよ。」
そう言って、ため息よりも浅い息を吐いてしなだれかかった。
皺ぶいた手が胸元を弄るのに身を任せ、格子越しに空を見上げる。
この身が花の香となり跳べるなら或いは、捜し求めてしまうかもしれない。
空に昇り風となって、彼の行方を―――











初会から裏を返し、それきりゾロの訪れはふつりと切れた。
風花が舞ったあの日から、もう一月が経つ。
馴染みともなれば言葉を交わし、二人きりで過ごすことができるものを。
そう思うとサンジの胸はきりりと痛み、切なさに息が止まる。

馴染みとなってどうなるものか。
ゾロとはただの幼馴染。
それも恐らくはサンジが一方的に覚えているだけの、暖かな思い出の一片に過ぎない。
ゾロにはゾロの暮らしがあり、生き様があるはずだ。
どこかで毛色の変わった花魁の噂を聞いて、確かめに来たくらいのことだろう。
初会だけでなく裏まで返してくれただけで、ゾロがからかい半分で来たわけでないことはよくわかった。
もう充分だ。


あの日、言葉はなくとも多く深く語り合えた。
見詰め合う瞳の色だけで、過ぎ去ったすべてのことを暖かく懐かしむことができた。
それだけで、もう充分。

けれど…
どうしても気がかりなことがある。
人斬りの噂は風の便りに聞いていたけれど、今も彼はこの空のどこかで血に塗れているのではないだろうか。
幼いあの日、粗末な身なりをしてはいたけれどゾロには両親がおり、道場にも通うちゃんとした子息のはずだった。
なのになぜ、長じて人斬りに身をやつしたのか。
一体何が彼を変えてしまったのか。

そこまで思いを馳せて、俯いて自嘲した。
それはきっとお互い様というものだろう。
自分こそどうして男の身の上で花魁などに身をやつしたのか、ゾロは尋ねてみたいに違いない。
けれど口に出すことはなく、手を触れることもなく、ゾロは帰って行った。
上座に腰を饐えたまま見送ることさえ許されず、サンジは消えてゆく気配を惜しんで諦めの吐息を吐いたのだ。
それでも、もう充分だと何度も言い聞かせねばならない自分がいる。

恐らくは、登楼する度に莫大な資金が必要の筈で、浪人らしき身の上のゾロには、過ぎた出費となっているはずだ。
とても馴染みになどなれようはずもない。
それをわかっていて、それでも待つ自分がいる。
もしかしたらと儚い望みにも似た夢を見続けている自分がいる。

この店に来て10年。
今まで誰かを待つなんてこと、一度もなかったはずなのに―――
待つ身の辛さを始めて知った自分は、やはり随分と情が薄い性質のようだ。

―――もう一度、会いたい。
会っては、いけない。
揺れる胸の内を何度も彷徨いながら、漏れるのはため息ばかりだ。






「あねさまは、恋をしてありんすか。」
賢い禿とは言え、所詮は子どもだ。
残酷なことをそれと気付かず素直に問うてくる。
「たしぎ、大人をからかうんじゃありんせん。」
愁眉を顰めてそうたしなめるのに、たしぎは小首を傾げて独り言のように呟いた。
「つい先日も、花魁は日増しに愁いが濃くなって堪らない色香を醸し出しているなんて、扇屋の旦那様が廊下で一人で身悶えてありんしたよ。あねさまは罪なお人です。」
「たしぎ、もっと他のことを勉強しなんせ。」
手始めに謡いをと煙管を置き掛けて、階下から駆け上る小さな足音に振り返る。
「あねさま、お客様でありんす。」
あの方が、おでましに。
呼びに来た新造の顔は喜びに綻んでいた。














ゾロから惣花を受け取って、サンジはその場に座り込んでしまいそうになった。
とうとうゾロが馴染みとなった。
擬似夫婦としてこれからも、自分の元に通って…?
そう思うと身の置き所のなさに震えが来る。
そうまでして通ってくれる、ゾロの真意がわからない。
それでも内心の動揺などおくびも出さず、サンジはしゃんと背を正して座敷へと向かった。


専用の蝶足膳と箸が用意され、華やかな宴が執り行われる。
相変わらずゾロは憮然とした表情で酒ばかり飲んでいるが、新造達の方がよほど楽しげで、ゾロが馴染みとなったのを喜んでくれているのだと知れた。
当のサンジは、気持ちが重かったのだけれども。

宴は早々にお開きとなり、床が延べられた。
サンジは素早く着替えを済ませて、襖の前で軽く息を整えてから床に臨んだ。
初見世の時よりも緊張している気がする。
静かに引き戸を開けて軽く手をつき目線を上げれば、先に寝着を纏ったゾロが無造作に布団の上で胡坐を組んでいた。

どきんと胸が高鳴って、鎮めていたはずの鼓動がうるさいほどに耳に響く。
それを振り切るように再度頭を下げて、俯いたまま歩み寄る。

「もう、邪魔者はいえねか?」
ゾロの声に顔を上げる。
なんとなく耳をそばだてて、辺り窺うように首を巡らしながらゾロはもう一度問うてきた。
「やっとてめえと二人きりだな。」
それがまるで、これから悪戯を企てる子どものような尋ね方だったので、サンジの肩の力が抜けた。
「てめえとも、話せるよな?」
それでも少し不安そうに顔を寄せてそう聞いてくるから、とうとうサンジは噴き出してしまった。

「あちきと旦那様は晴れて夫婦でありんすよ。」
「その話し方よせ、そう言う訳にはいかねえのか。」
「そう言う訳にはいきんせん。しきたりでありんす。」
「サンジ。」
少し語気を強め、ゾロがその白い手を取った。
掌の熱に促されるように、サンジはなおやかにゾロの胸元へとしなだれかかる。
花魁として客を迎えたなら、それに徹しようと覚悟を決めた。
だがゾロはサンジの身体を支えて、自分から引き離した。
少し距離を取って見据える。
間近で覗き込む瞳は、行灯の光を照り返してほのかに紅い。

「てめえの話を、聞かせてくれ。」
ゾロの声が、耳奥から脳髄へと沁み込むようにサンジを捉えて、それだけで身の内が火照った。
これを恋だと、誰もが言うのか。
ゾロはただの幼馴染なのに。

「お前の話を聞きたかった。その為に来たんだ。」
バカなことをとせせら笑いたいのにそれすらもできず、サンジは朱に染まった目元を伏せて、ゾロの胸元に手を置いた。
白い手と好対照に照らし出された陰影のある襟元には、袷からもそれと見て取れる深い傷跡が斜めに走っていた。
サンジの肩を抱く浅黒い腕にも紅蓮の炎が刻まれている。
これらの訳を尋ねたいのはこっちの方だ。

「ならば聞かせろ、お前の話も。」
それまでとは打って変わって低い声に、ゾロは息を詰めてサンジの顔を凝視した。
「俺がお前の知る俺じゃないのなら、てめえも俺の知ってたてめえじゃねえ。…語ってくれるか?」
花魁の貌ではない、どこか影を潜めて口元を歪めた笑みに、ゾロは満足げに頷いた。




山が完全に雪に閉ざされる前に、サンジは人買いに連れられて里を出た。
いつの間にか山裾に住み着いた異形の子どもを疎んじた村人が、口減らしのため売られる娘のついでに人買いを引き入れたのだ。
毛色の違う半端な年かさの子どもに最初は戸惑ったようだが、どこかの武士が口添えして結局連れて行かれることとなった。
なぜその場に見知らぬ武士がいたのかはわからない。
ただその男は、この村にサンジがいない方が都合がよかろうと、そんな風なことを言ったような気がする。

もはやどこに行くあてもなく、抵抗する理由さえなくしていたサンジは大人しく人買いに従った。
せめてもう一度ゾロに会って別れを告げたいと思ったが、それがゾロのためになるとは思えず黙って消えることを撰んだのだ。

峠の途中から白に煙る里を見下ろし、サンジは誰にともなく祈った。
あの強く優しい少年の、これから歩むべき道が清く真っ直ぐなものでありますように。

サンジを救いに現れたあの瞬間、垣間見えた狂気に似た修羅の顔が、再び彼の心を覆い尽くしてしまわぬように。
自分が知らぬ、ゾロ本人も気付かない鬼神のごとき本能を呼び覚まされることのないように。
たとえわが身に代えてもゾロをお救いくださいと、サンジはいるはずのない神に祈った。





寂れた宿場町の木賃宿で、サンジは初めて風呂に入った。
今まで夏も冬も水浴びしかしたことがなくて、熱い湯になど触れたこともなかったから相当恐ろしかったが、人買いはなかなか面倒見がよく結局全部洗われてしまった。
火照った顔をそのままに水気を拭われたサンジの姿を見て、人買いは腕を組んで相当長い間唸っていた。
最初は見世物小屋に売りつけるつもりでいたが、それよりも陰間茶屋の方がいいか…
少しでも身入りのいい方にと考えあぐねて、先に娘の方を置屋に任せようと暖簾を潜った口入屋で、サンジの方が見初められたのだ。

「こいつあ男ですぜ。」
「ああ、だがこんな瑠璃やら玉やら黄金やら、お宝そのまま写し取ったような人間は初めてだ。
 気に入った。天下一の花魁にしてみせるぜ。」
粋な亡八、夷屋の楼主は、サンジを一目見るなりいたく気に入り、法外な値段でもって買い取った。
そうして男の身でありながら引き込み禿となったのである。






「あねさまたちも、よくしてくれてな。男なのにそう意識しなくても、うまくやってこれた。」
「そらあ、夷屋の主人がそもそも大した男だったんじゃねえか。」
「まあな、酔狂なおっさんだ。」
そう笑って、ゾロに酒を注ぐ。
ゾロもサンジに注ぎ返して低く笑った。
「てめえも大したもんだ。男の身で太夫たあ、そうそうあることじゃねえ。」
「当たり前だろ。俺の美貌に今更気付いた訳でもねえだろうし。」
揶揄する言葉に、思いのほか真剣な眼差しでゾロが応える。
「おうよ、誰よりも先に、俺が知ってた。」
え、と杯を掲げる手を止めて見返すサンジに、ゾロは勢いよく杯を呷って口端を拭う。

「てめえの目ん玉が空より青いって、その髪がお天道様照り返した麦の穂より輝いてるって、俺はずっと前から知ってた。」
眩しそうに目を細め、今腕の中にいるのを確かめるかのように抱いた手に力を込める。
「知っていて、忘れられなかった。ずっとずっと、大事な連れだ。」
思いもかけないゾロの言葉に、サンジは瞬間顔を歪める。
異形に生れ落ちてこれまで、気味悪がられるか尋常ならざる飾り物として崇められるかのどちらかだった。
こんな風に真っ直ぐに、サンジそのものを捉えてくれる瞳についぞ慣れていない。

「てめえは、どうなんだ。あれからどうしてた?」
話をそれとなくゾロに振って、酒を注ぎ足した。
裾を肌蹴て胡坐を掻いた長い脛にも、深々と彫り物が広がっている。
紅蓮の業火に身を焼いた人斬りだと、人づてに聞いたことがある。
どういう経緯があるのか、尋ねるのは正直怖い。
それでも、こうしてゾロと過ごす夜があるなら、避けては通れないとサンジは思った。
例え今宵限りでも、ゾロのすべてを受け入れたいと願い、その覚悟もできている。

格子戸の外を、雨を呼ぶ風が通り抜けていった。







育花雨へ