セレストブルー  -1-


 ――高い高い空の上。そこに住まう者たちを、古来より人は『天使』と呼んだ。背中に羽根をもつ、穢れを知らない生き物。直に『天使』を目にすることのない地上の人間たちは、彼らを神聖な人外の生き物と考えている。しかし実際のところ、上空に住む者たちはただの『種族』のひとつで、『天使』は彼らにとっては『職業』であった。
 「サンジ、おめェまたそいつ見てんのか」
 『総務部』の片隅。沢山の液晶モニタが並ぶその部屋で、中級天使であるウソップは同期のサンジに言った。モニタに映っているのは地上の様子である。そこで人間の様子を『観察』するのが、ウソップやサンジの仕事である。そして人間が『悪』の道に傾きそうになると、地上班に連絡し、『善』の道に引き戻させるという役目があった。
 サンジの前にあるモニタに映っているのは、齢19の青年である。緑色の髪に、左の耳には3つのピアス。顔立ちは整っているが、目つきは鋭く、見ようによっては『人相が悪い』なんて言う者もいるかも知れない。彼の名前は、ロロノア・ゾロという。サンジのお気に入りの人間だ。彼は別に、『悪』の道に傾きやすいわけではなく、単にサンジが彼の姿を見たいがため、という非常に不純な動機のもとに頻繁にモニタに映っている。
「おめェたまにそいつのことヒイキしてるだろ。こないだも何か当ててたし。職権乱用だぞ」
ロロノア・ゾロが映っているモニタの縁に肘をおいて、ウソップは呆れたようにモニタの前に座るサンジを見下ろした。
「『ヒイキ』って、別に大したことしてねェよ。ガリガリ君の当たり棒出してやっただけ」
「そういうのを『ヒイキ』っつうんだろ」
別に、宝くじの一等を当ててやったりしたわけではない。例えば当たりつき自動販売機やアイスなんかで当たりを出してやったり、福引きで3等を出してやったり、そのまま行ったら怪我しそうなルートをほんの少しずらしてやったりする程度のことだ。
「ってか、何でそんなにソイツのこと気に入ってんだ?」
女の子大好きのおめェが、こんないかつい男を気に入るなんて珍しいよな。ウソップにそう訊かれて、サンジは懐かしそうに笑った。
「恩があるんだよ、コイツには」
 ロロノア・ゾロとの出会いは、もう10年も前になる。サンジの姿は今とさほど変わっていないが、ゾロの方は、まだ幼い子供だった。
 『天使』は、業務の都合で地上に降りることがある。10年前のその日、サンジもそうだった。当時のサンジはまだ初級天使であった。業務の内容は、ほんのちょっとした偵察のようなものだ。そしてサンジは初めて地上に降りたその日、怪我をしてしまったのである。地上に降りるとき、『天使』は地上の生き物に姿を変えることが多い。サンジが姿を借りたのは、白い小鳥であった。羽の付け根に傷を負い、飛ぶこともできずに道の端に転がっていた。こりゃまずい、助けを呼ばねば、と思ったが、はてどうやって呼ぶんだっけ、と呼び方を確認してこなかったというミスに気が付いた。このままここに転がっていたら死んでしまうかも知れない、という恐怖に襲われたとき、そこを通りかかったのが当時9歳であったロロノア・ゾロであった。
 彼はいつも通っている剣術道場から帰るところで、道の端に落ちていたサンジをそっと両手で掬い上げると、そのまま彼の家に持ち帰った。傷の手当てをした彼は、サンジの怪我が治るまで自分の布団では眠らず、サンジの傍らに毛布を持ってきてそれにくるまって寝ていた。
 サンジの怪我がすっかり治ったのはそれからひと月ほどした頃であった。
『ケガなおってよかったな』
ロロノア・ゾロはそう言って笑うとサンジを空に放してくれたが、その後でこっそり泣いていたのをサンジは知っている。
「あの頃はホントに可愛いガキだったんだよなァ、それがどんどん育っちまって、今じゃこんなにいかつくなっちまって…」
サンジは切なげにモニタに映るロロノア・ゾロを見つめる。『こんなにいかつく』なんて言っているが、その本音が『こんなにカッコ良くなっちまって』であることをウソップは見抜いていた。要するに、サンジはこのロロノア・ゾロという人間が好きなのだ。10年前からずっと飽くことなくモニタを見つめ続けていられるほどに。
「何だサンジ、またそいつ見てんのか」
ウソップが言ったのと殆ど同じセリフが、またサンジに向けられた。上級天使であるエースがサンジの背後からモニタを覗き込んでいる。
「ホントおめェは、そいつのこと好きだよなぁ」
エースにズバッと言われて、サンジは別に好きとかそんなんじゃ、とうろたえるが、顔が真っ赤なので何を言ったところで無駄だろう。まあまあそう照れずに、とエースに頭を撫でられているサンジの表情は、どう見ても恋する者のそれだ。
「――でもなサンジ」
エースが真面目な表情になって言った。
「本気でソイツのこと、好きになったらダメだぜ。それはご法度だ」
「分かってるよ、天使はあまねく全ての人間を愛すこと、が原則だもんな」
サンジはまだ赤みの残る頬を両手で軽く叩いて、モニタを別の人間に切り替えた。


     ◇◆◇


 ――ゾロは昔から、『ついている男』と言われていた。
 『ついている』と言っても、そんなに大したことではない。例えば、当たりつきの自動販売機でジュースを買うと、10回に1回くらいは『当たり』が出る。棒付きアイスで当たりを引くことも多かった。気まぐれで引いた商店街の福引では、大抵2等か3等は当たる。しかし1等を当てたことはない。たまたま忘れ物をして乗り損ねたいつものバスが交通事故を起こしたり、『入場者○人目』にちょうど当たって記念品がもらえたり。大きな利益が出るわけでもないが、ほんの少し『ラッキーだった』と言える程度のものだ。だがそれも、度重なれば『ついている』と言われるのも仕方のないことなのだろう。
「――お、ゾロ『当たり』じゃねェか」
隣でアイスの棒を咥えていたルフィが、ゾロの手元を覗き込んで言った。今日もまた、大学の帰りにコンビニで買ったホームランバーの袋に『当たり』マークがついていた。
 こんな風になったのはいつからだっけな、とゾロは思う。ある日を境に急に、と言うわけではないが、頻度が多くなったのはここ10年くらいのような気がする。
 10年か。ゾロは遠い昔の記憶に思いを馳せる。10年前と言えば、真っ先に浮かぶのは悲しい思い出だ。怪我をした小鳥を拾った。ゾロは懸命に看病して、小鳥は1カ月もすればすっかり元気になった。そのまま飼いたかったが、剣術道場のコウシロウ先生に話したら、『元の空に返してあげた方がいい』と言われて、泣く泣く放したのだ。真っ白な、綺麗な鳥だった。ゾロが妙につき始めたのは、それからだ。ゾロはいいことをしたから、神様が見ていて下さるんだよ。コウシロウ先生はそんなことを言ったっけ。
「要るか?」
ゾロはルフィに当たりの空袋を差し出すと、ルフィは嬉しげに受け取って傍にあった別のコンビニに意気揚々と駆け込んでいった。
 ルフィがコンビニから出てくるのを待っていると、不意に背後から声を掛けられた。
「あの、ロロノア君、ちょっといい?」
振り返ると、顔だけは何となく覚えている女が立っていた。多分、同じ講義を受けたことがある。近くに座っていることが多いような気がする。ふわふわした茶色い髪に、清楚な女の子らしい服だ。少し息を切らしている。ゾロの姿を見かけて走ってきたのだろう。
 人生何度目かというこのシチュエーションにはもう慣れた。ゾロはこの先に彼女が発する言葉を、決して自意識過剰ではなく、彼女の表情から予想していた。


     ◆◇◆


「――あ」
 それからも懲りずにモニタでロロノア・ゾロを観察し続けていたサンジは、ある日思わず声を上げた。後ろの席で別のモニタを見ていたウソップ――彼は真面目に業務に取り組んでいる――が振り返る。
「どうした?」
「コイツ、また女の子に告白されてやがる」
「ああ…例の。って、『また』?」
「中学くらいまではそうでもなかったのに、高校生になった辺りから急にレディに人気が出始めたんだよ。チクショウ、良いよなァ人間って。恋ができるってだけでうらやましいぜ。それにしたってコイツ、こんなに色んなレディから告白されてんのに、ことごとく断ってんだぜ、この贅沢者め」
サンジは険しい顔でモニタを見つめる。モニタには、ロロノア・ゾロに交際を断られたのであろう女の子が、涙目で立ち去るところが映っていた。かと言って、女の子と付き合い始めたら始めたで傷つくくせに、と内心ウソップは思う。
 恋ができる人間がうらやましいと言うが、だったら今のおめェはどうなんだよ。ウソップは溜め息と共にそんな言葉を飲み込んだ。この仕事に就いたとき、最初のオリエンテーションで配られた『天使の心得』に書いてあった。『天使は、あまねく全ての人間を愛すること。特別な人間をつくってはいけない』。『神』や『天使』は、全ての人間に対して平等でなくてはならない。それは理解できる。しかし、自分たちにも感情はある。こうしてモニタを見ていても、好意的に思える人間もいればそうでない人間もいる。例えば誰かに恋をするのに、相手が同じ『天使』だったらよくて『人間』はいけない、なんて、こんな文言ひとつで縛れるのだろうか、とウソップは思う。誰かが誰かを大切に想う気持ちは、それだけで尊いものだと言うのに。
 だがウソップの胸に生じたその疑問の答えは、目に見える形で以て彼の前に示されることになる。


 『天使』の業務のひとつに、『お迎え』というものがある。これは文字通りの意味だ。
 『お迎え』する人間を決めるのは『神』である。『神』の中でも『死神』は特殊で、対象となる人間から魂を切り離す役目を負っている。これには1週間ほどかかるため、完全に切り離される正確な時間までは分からない。この『切り離し作業』の期間が重要で、悪徳業者である『悪魔』がその魂を狙ってやって来るのだ。『悪魔』は言葉巧みにその魂を引き寄せ、完全に魂が切り離されると『使い魔』としてそれらを使う。それを阻止するのが『天使』の仕事のひとつである。これは、1週間ほど地上に留まらねばならない上に『悪魔』との戦闘になる危険な業務なので、『天使』の業務の中でも『中級天使』以上の階級が担当する決まりになっていた。
「来月の『お迎えリスト』です、よろしくお願いします」
「あーい、コニスちゃん、お疲れさま!」
 『お迎えリスト』とは、『神』が選んだ人間を事務局がリストにしたものだ。月末になると、翌月分のリストが届く。中級天使と上級天使で分担して、担当する人間を割り振る。全員が当たるわけではないので、残った『天使』たちは通常業務のままだ。人間界でいう『出張』のようなものだろうか。事務方のコニスが持ってきた人数分の用紙を愛想よく受け取ったサンジは、来月は何人くらいだろうかとリストに目を落として――そこで心臓が凍りつきそうになった。
 そこにはロロノア・ゾロの名前があった。どうして?あいつは至って健康体だし、まだ19だぞ?あまりの理不尽に頭の中がグルグルする。茫然とリストを見つめていると、背後から手が伸びてきて紙の束の一番上が引き抜かれた。エースだ。
「お、来月分のリストが来たか。来月は結構いるなあ、サンジ、お前どう――…」
リストを見ながら能天気にそんなことを言っていたエースの言葉が途中で止まる。エースもリストにある名前に気付いたのだ。
「……何で?」
エースに訊いても仕方がないと分かっていながらも、サンジは問わずにいられなかった。
「それは――…」
エースは言いにくそうに一瞬目を逸らしたが、意を決したようにサンジに向き直る。
「…だから言っただろ、『本気で好きになったらダメだ』って。『神』や『天使』が誰かに恋をしたら、無意識にでもその相手を呼び寄せてしまうんだよ」
 どうして、最初のオリエンテーションで釘を刺すのか。それは、『天使』としての意識の問題だけではないのだ。過去にも同じような例が何度もあった、とエースは言った。
「でも、10年も見てきて何で今ごろになって」
「それはおれには分からねェが――お前の中で、気持ちの変化があったからじゃねェのかな」
気持ちの変化。そう言われて、サンジは考える。ここ数年、ロロノア・ゾロが女の子に好意を持たれるようになったこと。それを『ずるい』だの『贅沢者』だのと誤魔化していたが、そのたびにほんの少し、胸がチクリと痛んでいた。彼が誰かのものになってしまうのではないかと。それは、無意識に『彼がほしい』と思っているのと同じだった。
「……おれのせい、ってことか」
「お前が悪いわけじゃねェけど、結果としてこういうことになった、ってことだ」
 エースの言葉がどこか遠くに聞こえる。サンジはエースに紙の束を押し付けると、そのまま部屋を出て行った。エースは先ほどまでサンジが座っていた席に目を落とした。モニタには、相変わらずロロノア・ゾロが映っている。懸命に、剣道に励む横顔だった。
 ――そしてロロノア・ゾロの『お迎え期間』が始まる日の朝、サンジは机の上に『辞表』と書かれた封筒を残して、そのまま姿を消した。


     ◇◆◇


 まだ肌寒い日もあれど、3月に入るとやはり春の訪れを感じる。ゾロは、今日の講義が昼からなのを良いことに、健やかに朝寝坊をしていた。
 フワリ、といい匂いが鼻腔をくすぐる。サラサラしたものが頬に触れて、ついでに何か温かい塊が手に触れて、ゾロは寝返りを打ちながらその塊をぎゅうっと腕の中に抱え込んだ。温かい。いい匂い。夢の中でゾロは、春の日差しの中、一面の花畑の中にいる。腕の中のその温かな塊がモゾリと動き、ゾロの胴体に巻き付いてきたところで、ゾロの意識は少しずつ浮上した。
「んん…?」
うっすらと片目を開けたゾロは、次の瞬間両目を見開いた。いい匂いのする温かな塊は、人の形をしていた。ゾロの腕の中で、静かに寝息を立てている。天然モノであろう金髪は、窓から差し込む陽の光を反射してキラキラしていた。頬に触れていたサラサラしたものは、どうやらこれだったようだ。
 何だ、何でおれはこいつと抱き合って寝てんだ。つうかこいつは一体誰だ。混乱する頭で、ゾロは必死で考えた。昨晩、いつものように夕飯を外で食べてから帰ってきて風呂に入って寝た。そのときは間違いなくひとりだった。ゾロは自分の身に着けているものを確認する。良かった、昨日寝るときに着替えたスウェットのままだ。ゾロが身体を起こした刺激で、隣に寝ていた謎の人物もゆっくりと目を覚ました。んー、と目をこすりながら身体を起こす。ずるりと布団が滑り落ちる。その金髪は、真っ黒いスーツの中に青いストライプのシャツを着ていた。長めの前髪が左目を覆っているが、右目は綺麗な青色だった。
「――…ああ、おはよう」
「おはよう、じゃねェよ、てめェ一体誰だ、どこから入ってきた!」
「んー…まァ細けェことは気にするな」
「するわ!っつうか見知らぬ奴がいきなり寝床にいることのどこが『細けェこと』だよ!」
思わず声を荒げてしまったゾロは、いかん、熱くなったら負けだ、落ち着け、と自分に言い聞かせた。
「それもそうだな、おれの名前はサンジ。おめェの名前はロロノア・ゾロだろ、よしもうこれで『見知らぬ奴』じゃなくなったな。――で、ものは相談なんだが、おれちょっと行くとこねェんだ、1週間だけここに置いてくれ」
「……は?」
「もちろん、タダでとは言わねェ。何とおれは、非常に美味いメシが作れる。ここに置いてもらう1週間のあいだ、弁当も含めて三食きっちり作ってやる。あとサービスで洗濯くらいはしてやる」
「…ちょっと待て」
ゾロは自分の額に青筋が浮くのを自覚しながら金髪の男――サンジの言葉を遮った。きっと自分の今の顔は、泣く子も一瞬で黙るくらいの迫力だろう。
「別におれはメシも洗濯もどうでもいいんだが。何でおれがてめェをここに置いてやらなきゃならねェんだ。第一、どうやって入ってきたのかまだ聞いてねェぞ」
サンジは、むむ、と唸ってゾロの顔を睨むかのように見据えた。――そして。
「絶対ェ出て行かねェぞ、おれはここが気に入ったんだ、1週間は居座ってやる」
そう言うと、ベッドの上に倒れ込み、頭から布団をかぶった。ゾロは布団を引っ張るが、サンジは見かけによらず結構強い力で内側から布団を引っ張る。このまま無理やり引っ張ったら布団が破れてしまう。
「てめェコラ、何勝手に決めてんだ、出てきやがれ!」
「嫌だね」
布団の中からくぐもった声が返ってくる。
「おめェがここに置いてくれるって言うまで出ていかねェ」
「てめェ…!」
「それに、おれのこと思いっきり抱きしめたくせに。もう嫁に行けねェ、責任とれ」
「責任…って、てめェが無断で人の寝床に転がり込んでたんだろうが!しかも男だろてめェは!」
「でも抱きしめてきたのはそっちからだ」
ぐ、とゾロは言葉に詰まった。もちろん、彼に非は無い。しかしこういうところで妙に身持ちが固いと言うか、義理堅いのもまたゾロの性分だった。はああああ、と盛大にため息をついて、頭を抱える。
「分かった、分かったからとりあえず、てめェがおれの隣で寝てた事情を説明しろ」
ゾロの言葉に、サンジは布団を少しだけ持ち上げ、隙間からそっとゾロの様子を盗み見た。
「1週間経って、ここを出ていくときに説明する」
「…絶対か」
「絶対だ。約束する」
サンジの言葉に、ゾロの表情が少しだけ和らぐ。『約束』という言葉に弱いのだ。
「だったらさっさと出て来い」
柔らかな口調でゾロは言った。
「朝メシ作ってくれるんだろうが」
「……もう朝メシって時間でもねェけどな」
サンジはそう言うと、モゾモゾと布団から出てきた。


 サンジの作ったブランチを摂ったゾロが大学へと出て行ったあと、約束通り洗濯をしていたサンジは、不意に部屋の中に新しい気配を感じた。
「やっぱり、ここに居たか。サンジ」
ゾロのベッドの傍らに、エースが立っていた。白いローブに、背中には羽根。今は羽根を隠し、黒いスーツに身を包んでいるサンジとは違って、上空での恰好そのままだ。
「エース…」
「急に辞表置いていなくなっちまったモンだから、大天使ゼフがカンカンになってたぜ。まァ、ここに居るだろうことはおれとウソップしか気付いてねェから安心しな。おれはロロノアの『お迎え担当』って名目でとりあえず来てみたんだが」
それで、とエースは厳しい表情になる。
「サンジ、お前はどういうつもりで、ここに来たんだ?『神』の決定を覆すつもりか?」
「…おれのせいでこんなことになっちまったんだから、てめェで始末をつけるのが筋ってモンだろ」
「『死神』とやり合おうってのか。前代未聞だな」
呆れたようにエースが言う。しかしそれしか方法がないのなら仕方がない、とサンジは言った。
「『死神』もピンキリだ。話の分かる奴だと良いんだが」
そう言ったとき、部屋の空気が変わった。さっきまで春の日差しで温かかったのに、冷たく暗い空気が流れ込む。エースとサンジの傍に、黒いもやができて、やがて人の形になった。
「何だ、今回は二人も『お迎え屋』が居るのかよ」
『死神』トラファルガー・ローだった。過去に何度か『お迎え』で顔を合わせたことがある。エースの方が彼との付き合いは長いらしく、打ち解けた様子でエースは言った。
「ああ、お前が今回の担当か。『お迎え』担当はおれだけだ。このバカ天使は、辞表叩きつけてまで『お前を』止めに来たんだとよ」
「はァ?何でまた」
「今回の対象を死なせたくねェんだと。どうする?」
「どうする、っつったって…」
ローは困惑した表情でサンジを見た。エースはサンジとローに向かって言う。
「おれは、『お迎え』担当をこいつに譲って上に帰るつもりだ」
「え、何でだよ、おれは引き受けねェぞ」
「だから、お前次第だっつってんだよサンジ。お前がローを止めるのに失敗したら、責任持ってロロノアの魂はお前が『連れて』来い。……一応、上級天使の推薦があれば元は人間でも『天使』として働けるはずだから、そんときゃおれが推薦してやるよ」
「ちょっとエース、待てって…!」
サンジの引き留めには応じず、エースはそのままふわりと姿を消した。ローはまだ困惑の表情のままだ。
「えーと、『天使屋』。要するにお前は、今回の対象であるロロノア・ゾロという人間に何らかの執着があって、死んでもらっちゃ困るからおれの仕事を阻止しに地上に勝手に降りてきた、って解釈でいいか」
「……まあ、簡潔に言うとそういうことだ」
「おれにはその理屈がいまいち分からねェんだが、そんなに執着してんなら、連れてって『天使』として働いてもらった方が傍に置いとけて良いんじゃねェのか?」
ローの言うことも尤もであったが、サンジは首を振った。
「それは駄目だ。あいつには夢があるんだよ。ガキの頃から変わらねェでっけェ夢だ。夢は、生きてなくちゃ叶わねェだろ」
「成る程ね…」
ローは手に持っていた刀の柄でトントンと自分の肩を叩きながら言った。
「だがこっちも仕事だからな。そう簡単に『じゃあ今回の件は無かったことに』とは言えねェ。できれば『天使屋』とは事を構えたくねェんだが――まァ受けて立ってやるよ」
「ハナっからそんな甘ェことは考えてねェよ」
サンジが言うと、ローはハハ、とニヒルに笑った。
「お前らしいねェ。老婆心ながら忠告しとくが、今回の対象は厄介だぜ。魂の質がえらく良いモンでな、『悪魔屋』の方も多少無茶をしてでも手に入れたがってる。おれを止めるよりも大変かも知れねェぜ。もしも『悪魔屋』にお前がやられるようなことになったら、おれは奴の魂を心置きなく切り離すし、簡単に『悪魔屋』に持ってかれちまうぞ」
まあせいぜい頑張るんだな。そんな声を残して、ローはまた黒いもやとなって消えた。


 自分の部屋で天使2人と死神が集まり、そんな物騒な会話を繰り広げていたとは露ほども知らないゾロは、悠長に大学で講義を受けていた。
 休憩時間になり、次の講義のために教室を移動する。適当に空いている席に座った2つ隣の席で、知った顔が分厚い本を開いていた。同学年のニコ・ロビンだ。学年は同じだが、ロビンは一度他の大学を出て暫く働いたあとでゾロと同じ大学に入り直したため、歳は上である。
「――あら。次同じ講義なのね」
ゾロに気付いたロビンが本から顔を上げた。
「おう。何読んでんだ?随分分厚い本だな」
「色の図鑑よ。例えば赤と一言で言っても、こんなに沢山の赤があるのよ」
ロビンは『赤』のページをパラパラとめくってゾロに見せた。ゾロはふと、今日突然自分の部屋に転がり込んできた男のことを思い出した。とても綺麗な青い目をしていた。
「青のページってあるか」
「あるわよ。どうぞ」
『青』のページの最初を開いて、ロビンはゾロに本を貸してくれる。ゾロはパラパラとページをめくって、途中で手を止めた。この色。あいつの目の色と同じだ。『Celeste』と書いてある。
「その色が好きなの?」
ロビンが訊いた。ゾロは、知り合いの目の色と同じだ、と答えた。
「そう。その人、とても綺麗な目をしているのね。青の中でもこの『セレストブルー』は、『神が存在するとされる至上の空色』と言われているのよ」
「へェ…」
金色の髪、白い肌、青い目。それらはまるで宝石のようにとても美しかった。ゾロが、突然現れた不審な男に強く出られなかったのも、その造形に一瞬見惚れたからかも知れない。あの姿はまるで。――まるで、子供の頃絵本で見た、天使のようだった。
 そんなことを一瞬考えて、彼とのその後のやり取りを思い出したゾロは、無い無い、と首を横に振った。口さえ開かなければ、あるいは天使で通用したかも知れないが。
 退屈な講義の半分を睡眠に費やしたゾロは、講義終了と共に大きく伸びをひとつして、教室を出た。今日の講義は二つだけだ。あとは部活のみである。剣道の推薦で入った大学でもあり、ゾロにとってメインはむしろ部活の方だった。
 自動販売機で缶ジュースを買って、武道場へ向かう。その途中で、ほどけていたスニーカーの靴ひもを踏んでつんのめった。ジュースをポケットに突っこんで、靴ひもを結ぼうと屈んだところで、目の前ですごい衝撃があった。粉々に何かが砕けちる。一瞬のことで硬直して顔を上げると、バラバラになった石膏が散らばっていた。
「わー!大丈夫かあ!?」
頭上から声がして、見上げると3階の窓から誰かが顔を出していた。
「悪い!美術部の展示用のトルソー、窓際に置いてたら…!怪我してねェか!」
大丈夫だ、と言う風にゾロは手をブンブンと振った。良かった、今片付けに降りるから気にせず行ってくれ、と頭上から声が降ってくる。ゾロはお言葉に甘えることにした。
 粉々になった石膏の脇を歩いて、武道場に入るときになってようやく実感が湧いた。トルソーって、結構重いよな、と。それが3階から落下。もしもあのとき、靴ひもがほどけていなかったら。そう考えたら、少しゾッとした。


 今朝のできごとは何かの間違いで、部屋に帰ったらいつも通り誰も居ないのではなかろうか。そんなことを考えながら自分の住まうワンルームマンションの玄関のドアを開けたゾロは、途端に漂ってきたいい匂いに、ああ夢じゃなかった、と思った。
 「おう、おかえり!」
単身用の1Kなので、ドアを開けたらすぐにキッチンがある。サンジはピンクのエプロンをしてその前に立っていた。手にはおたまを持っている。そのパンダの絵の描いたエプロンは一体どこから調達して来たんだろう。
「ちょうど良かった、今出来上がったトコだ。メシにする?フロにする?それともおれ?」
いつの時代の新妻だ、と言いたくなるようなセリフに、ゾロが呆れたような視線を返すと、サンジは顔を真っ赤にして地団太を踏んだ。
「てめェ何とか言えよ、これじゃおれがアホみてェだろうが!」
「…自覚があるならそれでいい」
ゾロはふう、と小馬鹿にしたようにため息をひとつ吐くと、キッチンの向こうにある部屋に向かった。背後から、てめェ今おれを小馬鹿にしただろ、とか何とか言うサンジの声が飛んでくるが、気にしない。
「いい匂いだな。何作ってんだ?」
「ビーフストロガノフだ」
「シチューか」
「ビーフストロガノフっつってんだろ、てめェどこ人の話聞いてんだ!」
だってそんな料理は食べたことがないんだから仕方ない。
「何でもいい、美味そうだし腹減ったからメシ食いてェ」
ゾロがそう言うと、サンジは嬉しげに笑った。こうして笑っていたら、本当に悪くないんだがなあ、と思ったゾロは、何が悪くないんだ、と自分で自分に突っ込みを入れた。悪くなかったら何だと言うのだ。
 初めて食べるビーフストロガノフは絶品だった。昼に食べたブランチも美味しかったし、サンジが料理上手なのは確かだ。人間の心を掴むにはまず胃袋、というのはあながち間違ってはいない。かなりほだされそうになる。
「こんな材料ウチにあったか?」
スプーンの上に載ったマッシュルームを見ながらゾロが言うと、サンジは、
「買ってきた。まあ居候させてもらってるからそれくらいは」
そう言って、ゾロが食べる姿をニコニコしながら見ている。
「てめェは食わねェのか」
「味見しながらちょこちょこ食ったから別にいい」
ゾロが食べているのを見ているだけで幸せ、と言わんばかりのサンジの表情に、微妙な気持ちになる。謎だらけのこの男だが、自分のことを好きなのだろうか。さすがに男に好意を持たれたのは初めてだ。だが悪い気はしなかった。
 少しダラダラしてから日課の筋トレをして風呂に入り、さあ寝るか、とベッドに入ったゾロの隣に、さも当然のようにサンジがもぐり込んできたのでゾロは飛び起きた。
「てめェ何ナチュラルに人の寝床に入ってきてんだ!」
「だって他に寝るトコ無ェだろ。布団も無ェし。まさかこのフローリングの上で寝ろとでも?」
「…だったらおれが床で寝る」
ベッドから出ようとしたゾロのスウェットの袖をサンジが掴んだ。そして自分がベッドから出る。
「バカてめェ、家主のてめェが床で寝てどうする!――…そんなに嫌ならいい、おれは夜だけ適当にどっか行ってるから」
「…行くトコ無ェんじゃなかったのかよ」
「まあ、カプセルホテルでもネットカフェでも何でもあるし」
それはそれで良いはずなのだが、何故かゾロはじゃあそうしろ、とは言えなかった。その理由を、置いてもらう代わりに美味いメシを提供してやる、という取引をしておきながら、夕食をしっかり食べた後で追い出すような形になるのは卑怯だからだ、とそう思うことにした。
「…もういい、ここで寝ろ。その代わり、おれが抱きついてきたとか何とか言いがかりをつけるのはやめろよ」
 結局ゾロが折れるような形で、ひとつベッドで眠る羽目になったのだが、朝目覚めると仰向けになって寝ていたゾロの胴体にしがみつくような形でサンジは寝ていた。てめェが抱きついてきてんじゃねェか、とゾロは思ったが、サンジの安らかな寝顔が思いのほか可愛らしく見えて、そのまま二度寝に陥った。


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