さよならと言えなくて -5-



「これは、どういうこと?」
カリファは険しい表情でルッチを睨んだ。
視線を移されて当惑したサンジの隣で、ルッチは気障な仕種で肩を竦める。
「なに偶然だ。この店で君を待っていたら、彼が入ってきた」
「嘘」
静かだが険悪な雰囲気の中、サンジはどこを見ていいかわからず着席したまま固まっている。
「最近、君の様子がおかしいからゆっくり話そうと、この店に呼び出したのは確かに俺だ。けれどここに彼がやってきたのは本当に偶然だよ」
カリファはくっきりとした瞳をサンジに向かって投げた。
「本当?」
「ほ、んとうです」
その目を見返しながら、こくこくと頷く。
あまりに造作の整った顔立ちで、目が合うだけでこちらが呑まれそうだ。
けれど、今のこの台詞はサンジこそが発するべきものではないだろうか。
「あの・・・」
「なに?」
間髪入れず返される。
カリファの瞳があまりに攻撃的なのでつい怯んでしまうが、立場上攻めるべきは自分の方ではないかと思い直した。
「ゾロと、どういう関係なんですか?」
カリファは一瞬目を瞠り、次いですうと眇めた。
恐ろしいほどの美貌なだけに、そんな表情をすると冷酷さが強調されるようだ。
「ロロノア君から、なにも聞いてないの?」
「はい」
視線を逸らさず、しっかりと頷き返す。
「彼と、揉めたんじゃないの?」
「はい」
カリファは、どこまで知っているのだろう。
サンジには話せないことも、彼女にはすべて打ち明けているのか。
「それなのに、彼からはなにも聞いてない?」
「俺にはなにも、話さないので」
再びカリファは口を閉ざし、値踏みでもするような目でじっくりとサンジを眺める。
ふっと軽く息を吐き、あまりの雰囲気にすっかり動きを止めていたウェイターに椅子を引かせて着席した。
ルッチが適当に飲み物を注文している間、沈黙が流れる。

「ロロノア君とは同じ職場なの、彼は後輩」
「そうですか」
お世話になっております・・・と続けそうになって押し黙る。
嫌味にもなりはしない。
再び沈黙が支配したため、ルッチは懐から煙草を取り出して火を点けた。
ここは禁煙ではないのかと、つい注意がそちらに向かう。
カリファも煙草に火を点けたため、サンジも緊張を解きほぐすべく煙草を取り出した。
深く吸ってゆっくりと吐き出し、紫煙が纏わり付くままに任せた。
3人で黙って煙草をくゆらしている間に、飲み物が運ばれてくる。
今度は先にサンジがグラスを手に取り、喉を潤した。
一気に呷り、ぷはっと盛大に息を吐く。
グラスをテーブルに置き、その勢いでカリファに視線を戻した。

「貴女は、俺のことをご存知なんですか?」
「ええ」
これまた間髪入れずに返してくるカリファに、一瞬怯むもサンジも負けていない。
「なぜ、知ってるんですか。俺は貴女のことを知りませんでした」
「彼に聞いたからよ」
カリファが指す“彼”が、ルッチのことだと一拍置いてから気付いた。
危うく、ゾロのことかと早とちりするところだった。
「ルッチさんが、なんで?」
「俺が君を口説いてたのは、流石に気付いてただろ?」
逆に質問され、サンジは目を瞬かせた。
「そうなんですか?」
がくっと、ルッチの肘がテーブルから外れる。
ずっと強張った表情だったカリファが、ほんの少し頬を緩ませた。
「参ったねこれは」
ルッチは訳もなくスーツの襟を直すと、椅子に座り直した。
「ともかく、君があんまり靡いてくれないから、俺は少々調べた訳だ」
「なにを?」
「君の身辺。あまりにも身奇麗だから、これはこれで怪しいと思ってね。予想通り、秘密の恋人がいた」
サンジの顔色が、さっと変わる。
「よくよく調べてみれば彼はカリファの・・・ああ、彼女のことね。後輩だということがわかった」
「―――・・・」
「それで、世間話をした訳だ。俺としては、別にそのことで君をどうこうするつもりはなかったが、彼女にとってはいい情報・・・だったのかな?」
話を振られたカリファは、だが元の硬い表情に戻っている。
「・・・おかしいね、どうも」
訝しげに首を振るルッチを無視し、カリファはじっとサンジをねめつけた。
「私は、同じ男とは二度寝ない主義なの」
「・・・はっ?!」
急な話の展開に、サンジは目と口を見開いて唖然とした。
一体、なにを言い出してくれちゃってるんだこの美女は。
「でも、ロロノアと・・・ロロノア君と寝てみて、その主義を撤回したくなったわ」

ゾロと寝た―――
本人の口から直接出た言葉に、思いの外強いダメージを受けてサンジは凍り付いた。
―――ああ、やっぱり・・・
同じ男とは二度寝ないカリファが、主義を撤回してでも、もう一度寝たいと願うほどだったのだろうか。
あの、ゾロの手が―――

「付け入るようで悪いが、俺はチャンスを逃さない主義なんだ」
横入りしたルッチが、気障ったらしく人差し指を横に振った。
「主義を撤回したなら、俺を初めての“二度目の男”にしてみないか?」
なに言ってんだこいつ?
と、サンジは思った。
今の話の流れで、どうやったら自分が付け入る隙があると思えるのか。
だが、ポカンとしたサンジの隣で、カリファは熱っぽい目でルッチを見返した。
「・・・ルッチ」
「俺なら、君を傷つけたりしないよ」
不意に、その場の雰囲気が変わる。

サンジはルッチを見、カリファを見てもう一度ルッチを見た。
なに、なんなのこの空気。
何気にピンク色の何かが飛び交うような、頭からシロップをぶっ掛けられたような、この甘い雰囲気は。
「―――えーと・・・」
サンジは空になったグラスを玩び、手持ち無沙汰なままテーブルに置き直した。
その間、ルッチとカリファはずっと見つめ合っている。
明らかに、サンジは“お邪魔虫”状態だ。
「あの、それじゃ俺は・・・これで・・・」
無理矢理巻き込まれたのに、なんで気を利かせて退散しなきゃならないんだ?
不条理感は残ったが、これ以上ここに留まる理由はない。
そそくさと立ち上がるサンジに、カリファがきっと向き直る。
「ロロノア君に、伝えて欲しいの」
「・・・自分で言ったら、どうですか?」
同じ職場なら、サンジよりよほど多く顔を合わせるだろうに。
「嫌よ」
なのにカリファは、きっぱりと拒否した。
一体なんなんだ。
「誓約書は破棄してちょうだいって。必要がなくなったから」
「誓約書?」
「それだけ言えば、わかるわよ」
カリファは吐き捨てるようにそう言い、改めてまじまじとサンジの顔を見つめる。
先ほどまでの険のある表情ではなく、どこか心許ない顔付きだ。
目元がうっすらと朱に染まっていて、妙に色っぽい。
「・・・まだなにか?」
「貴方、ほんとに彼と付き合ってるの?」
そんなこと、真顔で問われても。
躊躇うサンジに、今度は痛ましげに眉を寄せる。
「貴方も、あんな・・・」
そこまで言うと、カリファの頬にさっと新たな朱が走った。
それに釣られて、サンジの顔もぼっと赤くなる。
なんなんだ。
一体なんだってんだ。

「・・・それだけよ」
カリファはぷいっと顔を背け、一方的に話を打ち切ってしまった。
その分ルッチに向き直る。
いつの間にかルッチの手はテーブルに置いたカリファの手の甲を握っていて、サンジがいなくなった空間を埋めるように身体を寄せ合っていた。
―――やってらんねえ・・・
突如成立したカップルから目を逸らし、サンジは足早にその場から立ち去った。





狐に抓まれたような・・・というのは、まさにこのことだろう。
さきほどの、カリファとの一連の会話の流れを思い返しても、なんでルッチと引っ付く結果になるのかさっぱりわからない。
彼女の言っていることもまるで要領を得なくて、理解の範疇を超えていた。
ただ、一つ言えることは―――
「ゾロに、会わなきゃな」
カリファから伝言を頼まれたのだ。
別に言うことを聞く義理はないが、口実にはなった。
ゾロに会って、もう一度きちんと話をしてみよう。
カリファという女性と面識ができたし、ルッチの存在も明るみになった。
今度のことと、きっと関係があるはずだ。
ここまで言えば、ゾロだって観念して何もかも話してくれるかもしれない。
突然部屋に訪れたら、もしかしたら新しい彼女とかがいて驚かせてしまうかもしれない。
それはそれで、面白いってもんだ。
サンジはそう腹を決めて、ゾロのアパートに向かって歩き出した。



勝手知ったるゾロの部屋に、合鍵を使って入る。
ゾロには合鍵を返せと言っておきながら、自分はまだ持っていたのだ。
卑怯だな、と我ながら思う。
ドアを開けると、ぷんと生ゴミの匂いが鼻に付いた。
ゾロの部屋に来てこんなこと、初めてだ。
電気を点けて、更に仰天する。
シンクには汚れた皿やコップが積みっぱなし。
コンビニの弁当殻は無造作にゴミ袋の中に突っ込まれ、ビール缶が濯がれもしないで同じくゴミ袋の中に投げ入れられていた。
底の方に滲み出た汁が溜まっている。
「なんだよこれ」
少なくとも、付き合っている間ゾロはそれなりにしっかりしていた。
ゴミだってちゃんと分別するし、部屋の掃除だってする。
それが今はどうだ。
台所は大騒動だし、居間は脱ぎ散らかされた衣類やら広げたままの新聞やらで足の踏み場もない。
ソファの上に脱ぎっぱなしの靴下が3つもあって、どれも異臭を放っていた。
「サイアク」
サンジは顔を顰め、適当に拾い上げて分別した。
積めるものは積み、洗濯すべきは洗濯機に放り込む。
洗いもしないで次々と箪笥から出した服を着ているのか、箪笥の中は空っぽだった。
まさか、ほんの一月目を離しただけで、人間はこんなにも堕落するものなのか。
―――少なくとも、こんなんじゃ新しい彼女なんて無理だな。

サンジはずっと詰めていた息を吐いて、それから臭さに閉口して窓を開けに走った。
空気を入れ替えながら、ゾロの携帯に電話を掛ける。
1コールで出た。
『もしもし!』
声だけで、まさに飛びつかん勢いだ。
サンジは携帯を握ったままやや仰け反り、苦笑を堪えて不機嫌そうな声を出す。
「いま、どこ」
『お前んち』
「はあ?」
今度こそ驚いて、携帯を持ち直す。
「俺んちって?」
『どうしても話したくて、てめえんとこ来た。鍵がねえから、表でてめえが帰るの待ってる』
はーと思わず溜め息が出てしまった。
なんでこう、タイミングまで一緒になっちまうんだろう。

「あのなあ、俺いまお前んちにいる」
『なんだと?』
「俺、まだ合鍵持って・・・」
『ちょっと待て!』
鼓膜が破れそうなほどでかい声で、制せられた。
『待ってろ、絶対そこで待ってろ、いま行くから、帰るから、絶対逃げるな!』
「・・・逃げねえよ」
『いいな、必ずだぞ!』
そう叫んで、通話はぷつんと切れた。
サンジはやれやれと、首の凝りを解しながら携帯を仕舞う。
あの分じゃ、電車を乗り継いで片道20分の距離も数分で縮めてしまいそうだな。

自然と湧き出てくる笑みを押し殺して、サンジはとりあえずシンク周りを片付け始めた。






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