さよならと言えなくて -4-



ゾロは毎朝早くから出勤し、昼食もろくに摂らないでひたすら仕事に没頭し残業する日々を送っていた。
同僚達は心得たもので、余計な口出しなど一切せず雑務の全てをゾロに投げてくる。

サンジとの関係は長い。
恋心を自覚したのはゾロの方が先だし、そのことで大いに悩んだのはゾロだけだった。
サンジのことを思えばこそ、告白すべきか否か、そのことでサンジの人生を狂わせはしないか。
色々な可能性を考えては思考が行きつ戻りつし、それでも想いは抑えきれず最後はダメ元で告白したらあっさりOKされて、喜びより脱力して倒れそうになったのを今でも覚えている。
あれから10年近く、順調に交際を続けてきた。
二人の仲を公言することも、一緒に暮らすことも許してはくれなかったが、サンジの側にいられるだけで幸せだった。
なにより、人生のパートナーとして認められている。
一生添い遂げることを許されている。
そう自負して生きてきたのだ。
その間何度、サンジの我が侭に翻弄されたり気まぐれに付き合ったり、天然さに振り回されたりしただろう。
その都度、ゾロは一喜一憂し思い悩み決断して、一人で道を切り拓いてきた。

ゾロの想いが拗れた時は、仕事が手に付かないこともままあった。
そんな時は、単純作業が捗ることも経験上知り得ている。
頭の中を空っぽにしてひたすら無心でデータを打ち込む。
あるいは、会議資料を整えコピー機のソート機能より早く帳合し、ステープラーを連打する。
資料室に篭り過去の顧客データを整理したり、事務所内を片付けたり事務椅子を分解して車輪を掃除したりと、探せば仕事はいっぱいある。
その代わり、対外交渉は一切ダメだった。
会議の内容は頭に入らないし、企画アイデアなどまったく出ない。
電話の応対すら満足にできず、スケジュール管理も散々だ。

今回、過去の経験を踏まえ、ゾロはミーティングではっきりと“お願い”した。
―――私事で申し訳ありませんが、懸念事項ができました。雑務の一切を引き受けますので、フォローをよろしくお願いします。
ゾロのこの宣言は、すでに過去数回発動されているため同僚達も慣れたものだ。
上司は立ち上げたばかりのプロジェクトからゾロを外し、同僚達は面倒がって後回しにしていた急がない仕事を次から次へとゾロに回した。
どれもを黙々とこなしながら、ゾロはひたすら考えている。
一体どうすれば、サンジに許してもらえるのかを。



「今回のお悩み期間は長いね」
先輩社員に労われ、そうですねとゾロは悪びれなく答える。
「まあ、ロロノアがたまにそうなるのは、個人的に助かるんだけど」
「そうですか」
「オフィスがすっごく使いやすくなるもの」
先輩OLもうんうんと頷き、ゾロのデスクに書類の束をどんと置いた。
「データの訂正と更新、お願いね」
「わかりました」
文字と数字の羅列を眺めながら、無表情にパソコンに打ち込んでいく。

サンジを、泣かせてしまった。
ゾロのことであんなにも感情を露わにして激昂したのを見るのは、初めてのことだ。
元々感情の起伏が激しいタイプではあるが、人のことで泣き、笑い、喜んでいるサンジの表情を見るのは好きだった。
けれど、自分自身の哀しみに押し潰されそうになって喘ぎながら号泣する姿は、見たくなかった。
あんなにも哀しがるなんて、思わなかった。
逆の立場だったらどうだろう。
もしサンジが、ゾロの知らぬ女性と一緒にホテルに入るのを目にしたら。
想像しただけで、胃の上辺りがぎゅっと締め付けられる。
そんな想いを、サンジはしたのだ。
ゾロとカリファが連れ立ってホテルに入るのを、偶然目にしてしまった衝撃はどれほどか。
思い遣れば、あの時の自分を殴り殺してしまいたくなる。

どうして、カリファの誘いに乗ってしまったのか。
サンジとの仲が誰かに知られたとしても、カリファの知人が知っていることを隠し遂せる筈がなかった。
いずれバレることなら、最初から隠し立てなどすべきではなかった。
どうせ手段を講じるなら、カリファとその知人とやらを消した方が余程早かった。

カリファとは、あの後もただの同僚として普通に接している。
彼女に対して憤りは残るが、それを態度に出しては自分から約束を反故にすることになってしまう。
カリファもその辺りは弁えているのか、いつもの冷静な態度で職務をこなしていた。
時折ゾロに対して物言いたげな視線を送る気配はあるが、ゾロはすべて黙殺している。

ゾロは本来、隠し事をしたり嘘で誤魔化したりできない性分だ。
サンジとの関係も、誰にも言うなと釘を刺されていること自体がストレスだった。
特に言いふらすつもりはないが、悟られるのもダメだと言われると神経を使う。
せめてサンジ相手にだけはそんなストレスを感じたくなかったのに、カリファと関係したせいでサンジにまで話せないことができてしまった。

決断したのは自分だ。
カリファと寝る選択肢を選んだ理由を、サンジに話す訳には行かない。
けれどサンジは、深く傷付いている。
サンジを傷付けたくなくて選んだ道なのに、結果的により深くサンジを傷付けることになってゾロは途方に暮れていた。

言い訳をする術を、ゾロは持たない。
それでもサンジを諦めることなど到底できなくて、ただ悶々と考え続けるばかりだ。





なんの予定もないオフの日を、サンジは昼過ぎまで寝て過ごした。
携帯のコール音で起こされ、ビクつきながら手に取ったら祖父だった。
「いい若いモンが部屋でぐうたらしてねえで、どっか行け」
起き抜けの声でバレたのか、まるで見ていたようなお説教を言う。
サンジの職場での不調は、ゼフの耳にも届いているのだろう。
一通り小言を聞いて携帯を切り、サンジは渋々外に出た。

オフの日は大抵平日だが、月に一度はゾロが自分の予定を調整して一日中一緒に過ごした。
どこかに出かけることもあれば、お互いのアパートでゆっくりすることもある。
ゾロがサンジの実家に行きたいと言うこともあったが、ゼフがいるからダメと断り続けてきた。
同じ屋根の下で、いくらゼフが無関心を装うとしてもサンジの方が平常心ではいられない。
10年付き合ってもこんなだから、ゾロと感覚がズレていくのだろう。
―――俺が、意識し過ぎてんだ。
男同士だからとか、飲食業だからとか。
意識して慎重に行動するにこしたことはないだろうが、どの職業だってなんらかの人間臭さが含まれているものだ。
だって人間なんだもの。
神経質に、自分だけが高潔なふりをしても無理が嵩じるばかりだというのに。

ゾロと約束のないオフの日は、手持ち無沙汰すぎてなにをしていいかわからない。
次の約束でもあれば、その日を目処に自分だけの自由時間を満喫できた。
けれど今日の休みはまるで、いきなり一人で放り出されたような不安定感があって落ち着かない。
この先ももう二度と、ゾロから誘いを掛けてくることはないだろうか。

寂しいと思う、哀しいと思う。
切れて泣いて詰った自分が、みっともなかったと心底思う。
けれど、やっぱり許せない。
ゾロがどういうつもりで、彼女とはどんな関係で、どんな経緯でホテルに行くに至ったのか。
何一つ説明をしないでだんまりを決め込むのは、無責任だと思う。

サンジに隠れて、女性と関係をし続けるような器用さは、ゾロにはない。
そんなこと、10年も付き合ってればサンジにだってわかっていた。
余程の理由がない限り、自分に沈黙を貫くことはないということも。
だからこそ、今回のゾロの意固地とも言える黙秘が癪に触った。

それと同時に、ここまでゾロに執着している自分自身にも驚いている。
告白してきたのはゾロからで、付き合いの主導権を握るのもゾロだ。
なにもかも、ゾロからのアクションで始まっていた。
そんなゾロの勢いに流されていただけの自分なのに、なぜこんなにも胸が痛いままなのか。
ゾロに合鍵を返させて別れを告げたつもりでいるのに、気が付けばゾロのことばかり考えている。
付き合っていた頃より余程、頭の中を占めるゾロの割合は多い。
こんな自分が、サンジには一番理解できなかった。



カフェに入り、氷が溶けるだけのアイスティーを眺めていたら隣の椅子の背凭れに華奢な手が乗った。
「ここ、空いてます?」
同じようなファッションに身を包んだ、学生らしき女性の二人連れだ。
映画の帰りなのか、パンフレットを手にしている。
明らかにサンジを意識して、心持ち身体の向きもこちらに捻って座った。
サンジは愛想笑いを返しながら、水っぽくなったアイスティーをストローで吸い込む。
「待ち合わせですか?」
斜め向かいに座った女性が、積極的に話しかけてくる。
二人とも、客観的に見て及第点のなかなかの美女だ。
いつものサンジなら鼻の下を伸ばして、世間話に興じるだろう。
例え下心がなくとも、一緒にお茶するくらいサンジ的になんの問題はない。
けれど、今はとてもそんな気分になれない。
顔に笑みを貼り付けたまま、ろくに返事をしないサンジに脈なしと諦めたのか、そのうち二人は話しかけてこなくなった。
今観てきたばかりの映画の話で盛り上がっている。
サンジは静かに立ち上がり、カフェを出た。

―――映画でも観るか。
時間潰しには丁度いいと、近くのシネコンに足を向けた。
さてどれを見るかと、上映時間が近そうなものを探し出す。
不意に、背後から遠慮がちな声が聞こえた。
「あのお・・・」
「はい?」
振り返れば、会社を途中で抜け出してきたようなさっぱりとした印象の女性が立っている。
「チケット、1枚余ってるんですけど、どうですか?」
サンジは女性の手にあるチケットの映画名を観て、首を振った。
「それを見るつもりはないので結構です、ありがとうございます」
そう言って丁寧に頭を下げ、映画館の中から出る。
別に時間さえ潰せればどの映画を観たって構わなかったのだが、女性から券を貰えば隣り合った席になるだろう。
そのまま世間話して一緒にお茶でも・・・という流れは目に見えている。
今は特定の誰かと話をする気には、とてもなれない。

ゾロが浮気したんなら、俺だって―――
そう思わなくもなかったが、そんなことをすれば余計自分がみじめになるだけだと気付いた。
第一、当て付けにされる女性に対して失礼だ。

その後も無駄にふらふらと街中を歩き、声をかけてきた女性には丁重に、男性には問答無用で蹴りを入れて一人でずっと彷徨っていた。
そんなに隙だらけかと我ながら心配になったが、どうしても無気力感が瞳に出てしまう。
トイレに入って鏡を見て、精気のない表情にぞっとした。
いかにも、大切な物を失ったばかり・・・な顔色だ。
―――情けねえ・・・
洗面所で顔を洗い、前髪の雫を拭いながら外に出た。
せめて夕食も外で摂って帰ろう。
なにか気晴らしになることでもあれば、いいのだけれど。

気が進まぬままカジュアルなレストランに入り、店員に案内されて奥の席へと進む。
途中、椅子に座ろうとした背の高い男性と当たりかけた。
「失礼」
「すみません」
俯いたまま脇を通り抜けようとして、「きみ」と呼び止められた。
「サンジ?」
名を呼ばれ驚いて顔を上げれば、どこかで見たことがあるような顔だ。
背が高くて全身黒尽くめで、おかしな帽子を被って・・・いや、今は脱いでいるか。
黒い巻き髪を後ろで束ね、顎鬚がユニークな眼光鋭い男。
どこかで、見たような。
「ルッチだ」
ルッチは名前を忘れられていることに些かショックを受けながら、名乗った。

「ああ、ルッチさんどうも」
名前を聞いて改めて顔を見、サンジもようやく思い出した。
オールブルーの常連で、一時期やたらとサンジを口説いてきた男だった。
どうしても男性に興味は持てないから、いくらしつこく言い寄られてもサンジの記憶には残らない。
だから、こうして対峙してもピンと来なかった。
「お久しぶりです」
「それはこっちの台詞だよ、最近君の姿を見ないと思ったら」
立ち話をしている間、じっと待っていたスタッフにルッチが気付いた。
「ああ、すまない。この子は同じテーブルで」
「え?」
サンジはそんなこと、了承してない。
「大丈夫、実はもう一人連れが来るんだ。女性だよ」
そう言われて、渋々ルッチの隣に腰掛ける。

「デートの邪魔をして、いいんですか?」
「構わないよ、どうせ彼女も君の事を知っている。君は知らないだろうが」
「・・・どういう」
そこへ、別のスタッフが客を連れてやってきた。
「こちらでございます」
案内された女性は、ルッチとサンジが並んで座っているのを見て足を止める。
すらりと背が高く、抜群のプロポーション。
今日は長い髪を下ろしているが、知的な眼鏡と官能的な厚い唇が印象的な美女が唖然とした表情でサンジを見ていた。

「貴女は・・・」
サンジは一度見た女性は忘れない。
まぎれもない、ゾロの浮気相手がそこいた。






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