さよならと言えなくて -3-



「なにボヤボヤしてんだ、らしくないぞ」
チーフに叱咤され、サンジははっとして顔を上げた。
作業に集中しているつもりでいるのに、どうしてもテンポが合わない。
言われたことはこなせるのに、その先のことに気が回らない。
いつものサンジの動きではないと、スタッフの誰もが気付いて遠巻きに見ている。
「働く気がないなら止めちまえ」
「すみませんっ」
バラティエと違い、オールブルーでは厨房内まで紳士的だ。
問答無用で蹴り飛ばしたり拳骨が落ちたりすることがない分、チーフが言葉に出して窘めたということはサンジの動きが余程目に余ったのだろう。
その事実にも動揺し、尚更動きに乱れが出た。
「邪魔だ、流しへ行け」
「はい、すみませんん」
動作だけはきびきびとして、自ら身を引き洗い場に入る。
無心で作業を続けながら、ずっと奥歯を噛み締めていた。

ゾロが、女性と連れ立ってホテルに入るのを見てしまった。
ぱっと見にも、美しい女性だった。
すらりと背が高く、長い髪をアップにし露わにしたうなじが真っ白で壮絶に色っぽかった。
とても似合いの二人だった。

考えないようにしようと思えば思うほど、その光景が脳裏に張り付いて消えてくれない。
ゾロが、女性とホテルに入ったのは事実なのだ。
この目で見てしまったのだから。
あの後、二人はホテルでHしたんだろうか。
ゾロは、自分にするのとほぼ同じようなことを、彼女にもしたのだろうか。
優しく口付けてあの大きな手が、彼女の肌を弄って―――

シンクに落とした陶器の響きが耳を打って、サンジはびくりと肩を震わす。
同僚がその背を軽く叩き、「休憩だぞ」と促した。



「彼女と、うまく行ってねえのか」
短い休憩時間に、立って賄いを掻き込みながら、同僚はちらりとサンジの方に視線を移した。
サンジはと言えば、とても食欲が湧かなくて煙草ばかり吹かしている。
「・・・別に」
「なんだ、ビンゴか」
ペットボトルの茶を飲んで、同僚はぷはっと息を吐いた。
その隣で、サンジは自虐的に笑いながら肩を竦めた。
「軽蔑するだろ、たかが恋愛ごときで左右されて仕事にまで影響出るなんて」
「ああ?そんなん当たり前だろうが」
即座に言い返され、え?と同僚の顔を見る。
「仕事も大事だが、恋愛だって人生においてはもっとも大事だ。今更なに言ってんだ」
再びペットボトルに口を付け、同僚はサンジを軽く睨む。
「お前もしかして、恋愛で苦労したことねえんだろ。好きな子のことあれこれ思い悩んだり、当たって砕けてみたり振られて泣いたり、あんま経験ねえんじゃねえか?」
「・・・そんな、ことは・・・」
ない、こともないかもしれない。
好きになったのはゾロだけだし、それだってゾロから「好きだ」と告白されて自覚したくらいだ。
昔から女の子のことは大好きだったけれど、一緒にいるのが楽しいだけで好きで焦がれる感情は持たなかった。
ゾロと付き合うようになってからは、誰に声を掛けられても「恋人がいるから」の一言で軽くかわせた。
ゾロはゾロでいつも真っ直ぐで、サンジを好きなことを隠そうともしないで想いを伝えてくる。
だからサンジは、受け止めるだけでよかった。
ゾロを受け止めて受け入れて、しょうがねえなあと笑いながら傍にいるだけでよかった。
―――なのに・・・

「悩め悩め青少年。悩んだ分だけ人に優しくなれるんだ」
同僚はそう言うと、ペットボトルを飲み干して休憩室を後にした。
なにおっさん臭いこと言ってんだと突っ込む気力もなくて、サンジは思い出したようにロッカーの中から携帯を取り出す。
着信があった。
ゾロだ。

『飯が食いたい』
いつもの文面に、頭の中がカッと熱くなる。
『なにが飯だうちは飯屋じゃねえ、都合のいい時だけ寄ってくんな』
そこまで打ち返し、じっと文章を見つめた後、消去する。
もう一度打ち直した。
『今夜うちに来い、俺も話がある』
送信して携帯を畳むと、サンジはロッカーの中に仕舞い午後の仕事に戻った。





合鍵でドアを開け、ゾロが「ただいま」と顔を出す。
いつもと同じ声のトーンだ。
少しも後ろ暗い部分を感じさせない、ちょっと疲れて、けれど元気を装って明るく発せられた声だ。
「ここんとこ残業続きでさ、ろくに飯食ってねえ」
それでも、いつもより饒舌だろうか。
サンジは黙ってレードルを動かし、味噌汁をよそう。
その間にゾロは手を洗い口をゆすいで、食卓に着いた。
「サンマか、いい匂いがしてたんだ」
冷蔵庫から勝手に取り出したビールを開け、サンジにも渡す。
サンジはゾロの向かい側に座って、無言で受け取った。
「油が乗ってて旨いな、大根おろしの辛味がいい」
サンジがずっと黙っているので、さすがに様子がおかしいと気付いたのだろう。
ゾロは途中で箸を止め、ご飯茶碗を片手に持ったままサンジの顔を見つめた。
「・・・どうした?」
「うん」
食事の時間は、純粋に食事を楽しむためだけに費やした方がいい。
常々そう思っているから、せめてゾロが食事をしている間は話しかけない方がいいだろう。
口を開くと、余計なことを言ってしまいそうになる。

「なにか、あったのか?」
ゾロの瞳が、まっすぐにサンジを見つめる。
今までと何ひとつ変わらない曇りないゾロの眼差しが、却ってサンジを不安にさせた。
そんな風に、なんでもない顔をしてずっと来たのか。
俺が知らないだけで、お前はお前の付き合いがあって、他の女とも―――

カッと頭に血が昇り、頬に赤味が差しただろうことは自分でもわかった。
ゾロの眉間に皺が寄る。
「どうした、なにか話すことがあるんだろう?」
あくまで口調は穏やかだ。
その優しさが、癇に障る。

「お前こそ、変わったことなかったか今週」
「俺?」
「ああ、なんか俺に話すこととか」
ゾロが、すいっと視線を外した。
思い出そうとしているような瞳の動きにも、後ろめたさを含んだ動きのようにもとれる。
「別に、ねえか?」
「ああ」
「俺には、言えねえこととか」
如実に、ゾロの顔色が変わった。
少しは悪かったとか思っているのかと、サンジはようやく安堵する。
このままポーカーフェイスで誤魔化し切られたら、後には絶望しか残らない。

「あのよ、単刀直入にいうけど。俺、2日前に椰子区にいたんだ」
「椰子区?」
ぎくりとして、ゾロが聞き返す。
「ん、支店のヘルプでさ。帰りに近道してホテル街通った」
ゾロの顔に、あからさまに動揺の色が浮かんだ。
「したらお前が、綺麗な女の人とホテルは入ってくの、見た」
「―――・・・」
ゾロの唇がぎゅっと引き結ばれる。
いつもはその表情がストイックでいいなあと思うものだが、今回ばかりは往生際の悪さに映った。

「いつから?」
「・・・」
「いつから、彼女と付き合ってんだ?」
「付き合ってない!」
思いの外素早く返され、サンジの方が面食らった。

「付き合って、ない?一緒にホテル入ったのに?」
「・・・」
「じゃあ、偶然たまたま俺が見かけた時だけ、お前は彼女とホテル入ったってのかよ」
「そうだ」
「そんな都合のいい話があるか」
サンジに言い切られ、ゾロはまたぐっと黙った。
そんな反応が、いちいちサンジの神経を逆撫でする。

サンジはゾロから顔を背けると煙草を取り出して火を点けた。
横を向いて軽く吹かしてから、煙草を指で挟み振り返る。
「あのさあ、もう正直に話していいんだぜ」
「・・・」
「てめえが彼女とホテル行ったってのは、俺がこの目で見てんだから事実だろうが。なんか、申し開きできるか?」
「・・・」
「できねえんなら、事実だよな」
ゾロはいつの間にか膝の上に手を置いて、拳を握り締めていた。・
説教を受ける体勢になっているのに気付いて、微妙に滑稽だ。

「で、なんか申し開きは?」
「―――・・・」
「なんか言えよ、言い訳とか」
「・・・ねえ」
「は?」
「なんも、言うことはねえ」
「なにそれ」
サンジはふっと鼻から煙を吐いた。
「なにそれ、開き直って認めんの。お前俺と彼女と二股掛けてたのか」
「それは違う」
「なにが」
「彼女とは、あの晩だけだ」
ふっとサンジは鼻で笑った。
「・・・そんなん、誰が信じられると」
「信じてくれ」
ゾロの額から脂汗が滲み出ている。
瞳は零れんばかりに見開かれ、苦悩の色が濃かった。
あまりに真剣に見つめてくるから、サンジの方が却って笑えてきてしまう。
「なにそれ、今更口だけで何言ってんだ。この目で見て、他になにを信じろってんだ」
「サンジ」
「あのさあ、じゃあいいよもう。お前があの晩だけ彼女と関係したってんなら、なんであの晩だけだったんだ?」
「・・・」
「たまたま?ナンパしたとかされたとか」
「・・・」
「また、だんまりかよ」
サンジは苛々と煙草を吸い、吸殻を灰皿に揉み消した。

「俺としばらく会ってなかったから、溜まってたし誘ったとか」
「それは違う」
即座に否定された。
黙秘と否定を交互に受けて、自分の都合のいい時しか口を開かないだけじゃないかと苛々が更に募る。
「じゃあなんで、彼女とそういうことになったんだよ」
「―――・・・」
ゾロは答えられない。
その沈黙に、サンジの方が先に切れた。

「あのさ、はっきり言うけど。俺、お前と以外誰とも付き合ったことない」
「・・・」
「他の誰かととか、考えたこともなかった。仕事に一生懸命だったし、お前はいいパートナーだったと思うよ。俺に過度に負担を掛けないで、適度に甘えて適度に距離取れてさ。バランス最高だと思ってたんだ」
語尾が少し掠れた。
「そんなの、俺の勝手だったんだよな。俺にとって都合がいい、お前がそういう存在だったんだ。俺が身勝手だった」
「サンジ・・・」
「だから、俺がてめえを縛る権利なんてねえって、そう思う。てめえの浮気を、浮気だって詰る権利だってねえと思う。別に、俺だってお前に貞節誓って身奇麗にしてた訳じゃねえもの。ただ単に俺の都合で他に目を向けてなかったってだけで」
「サンジ」
「だからてめえのこと責められねえ。わかってる、頭ではわかってるんだ」
サンジはぐしゃぐしゃと、両手で髪を掻き毟った。
「わかってるけど、俺ダメなんだ。許せねえんだ。てめえが、てめえの言う通りたった一度だったとしても、他の誰かを抱いたってことが、俺には許せねえ」
「・・・」
「そんなてめえが、俺に触れることは俺は耐えられねえ。ごめん、俺ってそういう性分なんだ、ほんとごめん」

顔を覆った指の間から、ほろほろと涙が流れ落ちる。
泣くつもりはなかったのに、勝手に涙腺が緩んで止まらない。
「サンジ・・・」
「黙って、合鍵置いて出てってくれっ」
俯いたまま怒鳴るサンジの肩に、ゾロの手が伸ばされ触れる寸前で止まった。

「嫌だ」
「・・・」
「俺は、お前と別れたくねえ」
「だったら!」
きっと、涙に濡れた顔を上げ睨み据える。
「だったらなんで、彼女と寝たんだ。理由はなんだ!」
ゾロはぐっと言葉に詰まった。
その表情を見ているだけで、怒りと哀しみがごちゃまぜになって心の中を暴れまわった。
「言い訳するなら、すればいいだろ?でまかせでも適当に理由つけて弁明すればいいだろうが。俺と別れたくなかったら、嘘ついてでも縋ればいいじゃないか!なんで彼女と寝たんだよっ」

ゾロは言わない。
何も言わない。
「もういい」
サンジはとめどなく流れる涙を掌で拭い、ゴシゴシと目元を擦った。
「出てって、くれ」
「・・・」
「出てけ」



そのままテーブルに突っ伏せば、衣擦れの音がしてゾロが立ち上がったのが気配でわかった。
チャリっと小さな金属音がする。
テーブルに合鍵を置いて、ゾロはそっと背を向けた。
さよならの言葉一つなく、そのまま部屋を出て行く。

悪かったとか。
気の迷いだったとか。
一夜の過ちだとか。
単なる遊びだとか。
魔が差したとか。

何か言い訳があるだろう。
お前だけだ、もうしないと口先だけでも誓えばいいだろうに。
ゾロは何も言わず、サンジの前から立ち去ってしまった。





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