さよならと言えなくて -2-



ホテルの前でタクシーに向かい、揃って頭を下げる。
走り出した車のテールランプが見えなくなるまで頭を下げ続け、姿勢を戻してほっと息を吐いた。
「お疲れ様」
「会長、上機嫌だったな」
よかったよかったと、一様に安堵しながら顔を見合わせる。
「ロロノア君、随分と気に入られていたようだが何を話してたんだい?」
部長に問われ、ゾロは返事しながら振り向いた。
「将棋、ですね」
「将棋か」
ああーとかなるほどーとか、感嘆の声が上がる。
「共通の趣味ってこと?渋いわね」
「ロロノア君って、年齢不詳なとこあるよね」
神経を遣う接待を無事終えて、やや開放的な気分で言葉を交わした。

「なんにせよよかった。お疲れさん」
「これから会社戻る人―・・・」
「あ、君らはもう直帰していいよ」
「私もここで失礼します」
「お疲れさん」
部長に一礼して歩き出す主任と同じ方向に歩き、ゾロは少し考えてから声を掛けた。
「電車ですか?駅まで送りましょう」
主任は振り返り、蟲惑的な笑みを浮かべる。
「台詞が逆じゃないかしら。私がロロノア君を送っていくべきだわ」
「―――・・・」
なに言ってるんだと言い返したいのをぐっと堪える。
ゾロの仏頂面に小さく笑い、主任・カリファはヒールを鳴らして立ち止まった。
「よかった飲み直さない?近くに行きつけのバーがあるの」
酒の誘いを、ゾロが断らない訳がない。



カリファはゾロより7つ年上で、部長すら一目置くやり手だった。
長く社長秘書をやっていたが、大幅な人事異動によりトップが入れ替わりそれと共に営業に配属された。
秘書時代に培われた人脈は幅広く、現課でも重宝されている。
そんなカリファは、いつもゾロにだけ気安く声を掛けていた。
「次の接待でも、きっとロロノア君は名指しされるわよ」
「ありがたいですね」
お世辞で言ったのではなく本心だ。
取引先のお偉いさんだろうと近所のショボくれた爺さんだろうと、話していて楽しいことに変わりはない。
愛想や追随は性に合わないが、変な気負いがない分だけ率直で相手に気に入られることが多い。

バーカウンターに並んで腰掛、カリファはマティーニ、ゾロはギブソンを頼んだ。
軽くグラスを掲げ、目を合わせる。
「お疲れ様」
「お疲れ様です」
たまにはこうして、仕事帰りに一杯やるのも悪くない。
他の女子社員だったら断る誘いだが、カリファは公私の区別をきっちりつけて仕事をこなし、職場で性別を感じさせないタイプだ。
見た目の美しさと動作のたおやかさで男子社員の注目の的でありながら付け入る隙がまったくなく、一部社員からはお高く止まっているとの陰口も叩かれているが、ゾロはそういうところに好感を抱いていた。
そんなカリファが、いつものように取り澄ました横顔のままで呟く。
「実は、ロロノア君にお願いがあるの」
「なんですか?」
ゾロはチーズを摘まみながら、なにか他に腹に溜まるものはないかとメニューを見ていた。
ろくに食べてなくて、猛烈に腹が減っている。
「今夜、私とSexしてちょうだい」
「―――・・・」
ナッツやチョコ、フルーツの盛り合わせしかねえのかよと視覚から入った情報に文句が出るのと、聴覚から入った情報に仰天したのとで咄嗟に動けなかった。
二、三度瞬きをしてから、ゆっくりと隣に座るカリファに目を向ける。
「・・・俺と、したいんですか?」
「そう」
カリファはあっさりと肯定し、グラスに形のいい唇を付ける。
「お断りします、俺には恋人がいますんで」
「知ってるわ」
その答えに、さらにぎょっとした。
そんなゾロの些細な表情の変化を見逃さず、カリファは愉しげに目を細めた。

「バラティエの跡取り息子でしょう。今はオールブルーに勤めてる」
「なぜそれを?」
「知人がそこの店の常連なのよ」
カリファは細い煙草を取り出し、火を点けた。
「時々フロアも手伝ってるって、結構目立つらしいわよ彼。それで声を掛けたけど、けんもほろろにあしらわれて・・・」
「お知り合いは男性でしょう」
「そうよ」
サンジが女相手にそんな態度を取るはずがない。
だがやはり、女相手であっても誘われれば丁寧に断っただろう。
自分もサンジも、お互い以外誰にも興味は持たないと自負している。

「それで、見た目に反して古風だった彼にますます興味を抱いたみたいで、色々調べたらしいわ。そうしたら同性の恋人がいて、しかもそれが私と同じ会社に勤めてるって言うじゃない」
ゾロはギリッと奥歯を噛み締めた。
視線を上げてはいないが、伏せられた眼差しの中に怒りを感じ取り、カリファはそっと肩を竦める。
「心配しないで、私そういう真似をするのは好きじゃないから知人にはきっちり釘を刺しておいたし、彼はもう別の人に夢中みたいよ。ただ、意外だなあと思って」
「・・・なにがですか」
ぶっきらぼうに答えるゾロの、不機嫌を隠さない横顔に笑みを返す。
「貴方、入社した時から女子社員から注目を浴びてて、誘いもそれこそ星の数ほどあるでしょう。それを悉く断って硬派を貫いているから余計、意中の人はどんな女性だろうって噂になってたのよ」
「そんなこと知りません」
「私の耳にも入るくらい、周囲は賑やかなの」
カリファは愉しそうにそう言い、紫煙を燻らせた。
「そんな貴方と金髪の彼が恋人同士だったなんてね。・・・そうね、お似合いだわとても」
「それが、さっきの話とどう繋がるんで?」
ゾロはさっさと話を切り上げて、店を出てしまいたかった。
事を荒立てたくないからじっと座っているが、本当なら椅子を蹴って立ち上がりたいくらいだ。

「私ね、もうすぐ32になるの」
急に話題が変わり、ゾロは苛立ちを隠さずカリファの横顔を睨み付ける。
「結婚する気はないし家庭に入る気もないけれど、子どもが欲しいのよ」
「精子バンクがあるでしょうが」
「話が早いわね。でもそんな味気ないの嫌」
そんなこと知るかと、言いそうになる口をぎゅっと閉じる。
「貴方の子どもが欲しいの私。ちょうど今日排卵日なのよ、今夜頑張ってくれたら私の望みが叶うかもしれない」
「お断りします」
「ゲイだから?」
カリファの目をじっと見据え、ゾロは「違います」と唸った。
「確かに俺のパートナーは男ですが、彼以外にいませんし他の男にも興味はありません」
「女性との経験は?」
「彼と付き合う前になら」
「じゃあ、本来はノーマルだけどたまたま生涯のパートナーが同性だったと言うだけね」
生涯のパートナーという言い方は、ゾロには意外だった。
そんな言い方をするカリファが、なぜこんな無茶振りをするのかわからない。

「この先、あいつ以外の誰とも寝るつもりはないです」
「はっきりしてていいわ、そういうところが好きなの」
カリファは満足そうに目を細めた。
「でも、それじゃHIVの検査はしてないのかしら」
「してますよ。そういうことはあいつがうるさいんで、心当たりはなくともお互い定期的に・・・」
言ってからしまったと思った。
カリファの懸念要素を潰してどうする。
時既に遅く、カリファはますます嬉しそうににんまりと笑った。
「私も、いろんな検査は定期的に受けてるわ。気が合うわね私達」
「よしてください」
「誤解しないで欲しいんだけど・・・」
カリファは煙草を灰皿に押し付け、カクテルのお代わりを頼む。
「貴方とセフレになりたいって訳じゃないのよ。今夜だけ寝たいと言ってるだけなの。今回ダメだったからと言って、またお願いするつもりもないわ」
「―――・・・」
「なんとなくそういう気分なのと、やっぱりタイミングかな。貴方のことは気に入ってるしこれからも一緒に仕事をしていきたい。私は特定のパートナーを作る気がないし、結婚にも家庭にも興味はない。お互い後腐れがないでしょう」
「気持ちの問題です」
勝手にお代わりを頼まれ、新しいカクテルが目の前に置かれる。
ゾロはそれに手を付けず、ぐっと拳を握り締めた。

「本当に彼にぞっこんなのね。もし、会社や家族に彼との関係を知られても、貴方は逃げも隠れもしないのかしら」
「当たり前です」
決して声高に主張できる関係ではないが、ゾロ自身、サンジと付き合っていることを恥ずかしいとは思っていない。
だが―――
「お相手の方は、どうかしらね」
カリファの目が、底意地の悪い光を帯びて眇められる。

「バラティエの跡継ぎとして、若い内から注目を浴びてるのよ彼。オーナーは人一倍厳格だと聞いているし、レストランなんて水商売だからなにより人気が一番大切でしょうね」
ゾロの心臓が、早鐘を打つようにとくとくと鳴った。
「サラリーマンの貴方とじゃ、背負ってるものが違うんじゃないかしら」
「なにが言いたい」
このまま殴り倒して出て行ってしまおうか。
凶暴な衝動をなんとか抑え、ゾロは彫像のように固まっている。

「脅してる訳じゃないのよ。ただ私も、自分の望みはなんとしてでも叶えたくなる性分なの」
再び煙草を取り出して、艶めいた唇に挟み込む。
「貴方に触れたいのは今夜、一夜だけ。もし妊娠しても認知は迫らないし、今後一切関わり合いにならないと念書を書くわ。妊娠しなくても、貴方と一晩楽しめたらそれでいいし」
「なんで俺なんですか」
ゾロは搾り出すように言った。
「さあね・・・」
カリファはふうと、ゾロの横顔に煙を吹き掛ける。
「たまたま私の目の前に貴方がいた、それで理由にならない?」



脅されるのは不本意だが、ゾロには他の選択肢がない。
カリファが下衆な行動に出る確証はないが、ここで無碍に断ればサンジとの関係をなんらかの形で暴露される可能性は高かった。
ゾロは構わない。
サンジと付き合っていることに、なんら後ろめたさも感じていないがサンジは違う。

――――俺は、てめえとの関係を誰にも悟られたくない。
サンジ自身の立場と、彼の夢のために。
こんなところで、ふられた腹いせに言いふらされるようなことがあってはならないのだ。
ゾロは苦虫を噛み潰したような表情でしばらく黙り、ふうと深く息を吐いた。

「今夜だけですよ」
「約束するわ」
カリファは微笑んで、置きっ放しのゾロのグラスに勝手に自分のグラスをかち合わせた。





急な支店へのヘルプの帰り、サンジは慣れない街を携帯片手に歩いていた。
このまま裏通りを突っ切れば、駅に近道だ。
ネオン輝くホテル街に足を踏み入れ、夜遅くまでお盛んだなあとややヤサグレた気分で歩く。

一緒に暮らす暮らさないで軽く口論した後、ゾロとはしばらく会ってない。
お互い仕事が忙しかったし、積極的に時間調整もしていなかった。
結果的に自分が一方的にゾロを言い包めた形に終わっていたから、少々後ろめたいのも事実だ。
もう一度ちゃんと、冷静に話した方がいいだろう。

―――たまにはこういうホテルで、心置きなくやりながらじっくり話すってのもアリかな。
機嫌を取るつもりはないが、ちょっとサービスしておきたい気持ちだ。
ゾロと夢とを天秤に掛けたくはないし、どちらもサンジにとって大切なモノであることは変わりないのだから。



「・・・悪趣味だな」
聞き覚えのある声が響いた気がした。
サンジは行きかけた足を戻し、それとなく路地に目を向ける。
そこに見慣れた緑頭を見つけ、はっとして見返した。
髪の長い美しい女性が、ゾロの腕を取り寄り添うように立ち止まる。
「あら、どうせなら思い切り楽しみましょうよ」
そう言って腕を引っ張った。
ゾロはやれやれと言った風に、それでも抵抗することなく女性の後について建物の中に入った。
ラブホテルの中へと。





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