猿酒 -1-

― 秋の暮れ 黄金の薄 掻き分けて
狛犬二匹 戯るを見る ―


明け方の冷え込みが日に日に強くなり、布団から出るのがことのほか億劫な季節の到来だ。
しかも、布団の中がほどよく温かくて気持ち良すぎる。
というか、出ようとするとそれを阻まれるのも敗因の一つかと。
すべてはこいつが悪い、と理不尽な責任転嫁をしつつぼうっと緑色の旋毛を眺めていた。
・・・ら、上の方から響く異音に気が付いた。
「ん?」
ゴト、ゴトト・・・
瓦が動く音だ。
平屋なのに。
「え、ちょ、ゾロ?」
サンジは慌てて飛び起きて、まるで条件反射のように眠ったまま腰にしがみついてきた緑頭をペシペシ叩いた。
「ゾロ、起きろ!屋根になんかいる!」
「ふァ・・・?」
口は開いても目は閉じたままだ。
この役立たず!と内心で罵倒しつつ、なんとかゾロの腕の中から抜け出して縁側に続くカーテンを開けた。
軒下には、ずらりと玉ねぎが吊るしてある。
その上から、小さな手がひょいと伸びた。
「!!!」
咄嗟に鍵を外してサッシを開けた。
「コラ――――っ!」
サンジの怒鳴り声に驚いたのは、犬小屋で寝ていた風太と颯太の方だった。
どひゃっと寝そべったまま飛び起きて、それが恥ずかしいのか誤魔化したいのか意味もなくワンワンと吠えだす。
サンジと犬の鳴き声に瓦屋根はガタタゴトトと大きな音を立て、次いで茶色い塊がするすると雨どいを伝って降りてきた。
「猿だ!」
大きなはぐれ猿が一匹、赤い尻を向けてささっと走り去っていった。
さすが猿。
逃げ足が速い。

「くっそ、風太!颯太!お前ら番犬だろうが!」
激高するサンジに、二匹ともそうだそうだと迎合するように吠え返す。
お前ら、全然わかってないだろう。
さすがの騒ぎに、遅まきながらゾロも布団から這い出てきた。
「朝から、なに騒いでんだ」
「ようやく起きて来たか、お前番犬以下だな」
サンジの冷たい視線に、ぶるっと身を震わせてから「サム・・・」と腕を組む。
「いいから閉めろよ、まだ早ェだろうが」
「猿だよ、猿出たんだよ。しかもはぐれだ、一匹猿」
「はぐれか〜厄介だな」
ちっとも厄介そうには思えない暢気な返事で、ゾロはまた布団の中に潜ってしまった。
そうして手だけ出して、ちょいちょいとサンジを誘う。
「もう目が覚めたよ、誰が行くかバーカ」
サンジは今頃ぶるりと震えが来て、腕を擦りながら台所に取って返しストーブを点けた。



「…ってことが、あったんだよー」
「はぐれ猿は怖いですよね」
和々にケーキを持って行ったついでに、世間話に花が咲く。
平日だから午前中はゆったりとしているが、昼すぎからちょくちょく混んで来るようになった。
座敷スペースではカヤがパウリーとカクを遊ばせ、たしぎはカリファを抱いている。
「それに比べて、こっちのお猿さん達は可愛いなあ」
「時々凶暴ですよ」
「すばしっこいしね、ちょっと目を離した隙になにするかわからなくて」
ねーと言い合うカヤとたしぎの間で、パウリーが微妙な表情を見せた。
「ん?どうしたパウちゃん」
サンジは目ざとく見つけ、畳に座って目線を合わせる。
「あら、まだ落ち込んでるのかしら」
「昨日のことでしょ」
理由を知っているらしいお梅ちゃんが、手際よく布巾を畳みながら感心したように頷いた。
「覚えているの、えらいねえ」
「どうしたの」
「昨日ね、ヤンザのおじさんに怒られたの」
散歩の途中に見つけた、車庫の屋根に引っかかっていた綺麗な色の落葉を落とそうとして、小石を投げたのだそうだ。
そこは車庫だから、当然傍に車が止めてあった。
「コラ!車に石が当たったらどうする!って怒鳴られてね。びっくりしちゃって」
パウリーに気を遣ってか、たしぎが声を低めてそっと囁く。
「ああ、それは怖かっただろうねえ」
サンジは慰めるつもりで、頭を撫でてやった。
「あんまりよその人に怒られたことがないから、顔強張らせて固まってて、おかしいやら可愛いやら」
「でも、怒っていただけてありがたいですね」
カヤがおっとりと言うと、たしぎもそうなのと大きく頷く。
「私がなに言ったってヘラヘラ笑って聞きやしないのに、おじさんに怒られたら途端にピタッて、フリーズよ。効き目あるわあ」
「いい経験したなあ、パウちゃん」
サンジはぽんぽんと頭を軽く叩いて、まだしょげている顔を覗き込んだ。
「知らないおじさんに怒鳴られてびっくりしただろうけど、怒ってくれる人ってのはいい人だぞ。誰も怒ってくれなくなったら寂しいぞ」

思い出すのは、すぐ怒り始終怒鳴られた厳しいゼフのことだ。
父との暮らしがギクシャクしていた頃も、言うことを聞かないサンジに対し、父は毅然とした態度を取らなかった。
まるで腫れ物に触るようにどこか遠慮がちで、会話もどんどん減って行った。
最後は、部屋の扉越しに交わす言葉さえなくなっていた。
それに比べて、ゼフもバラティエのスタッフ達も、いっそデリカシーがないんじゃないかと言いたいくらい最初からズケズケと踏み込んできたっけか。
食事もろくに摂れないほど痩せ衰えたサンジを、手加減したとはいえ殴りつけ、無理やりにでもスープを口に含ませたのはゼフだ。
以来、怒られ小突かれ蹴られ怒鳴られ、罵倒されつつ可愛がられた。
確かに可愛がられていたと、確信できる乱暴さだった。

「頑固おやじさんとか雷おやじさんとか、まだ残っててくれて嬉しいですね」
「絶滅危惧種よね。ウソップさんはとてもそんなタイプになりそうにないし」
「スモやんさんは、才能ありそうよ」
おすゑちゃんの指摘に、サンジもついうんうんと頷いてしまう。
「けど、スモーカーも親ばかだからな。パウちゃんには甘いし、カリファちゃんにはもっと甘いだろう」
「我が家で一番スモーカーさんに怒られてるの、私なんですよ」
シュンとしょげるたしぎに、みんな声を上げて笑った。


「さて、天気のいい内にそろそろ戻らないと」
サンジは立ち上がり、またねとパウリーとカクに手を振る。
「今日は畑仕事ですか?」
「うん、今のうちに大豆を収穫して干しておこうって、ゾロが稲木作ってるはず」
「じきに寒くなるからねえ、早めのがいいよう」
お梅ちゃんに頷き返し、それじゃあと和々を後にする。
なすがしら1号に跨って駅前を走り抜ければ、容赦ない横風に煽られた。
秋風が木枯しに近付いている。

肌を刺す寒さは昼になっても和らがないが、日差しは温かい。
ふうふう漕いでいる間に、汗も掻いてきた。
農道をまっすぐ進んで、畑に直行だ。
「お疲れー」
「おう」
まだ青々としている畑の中で、保護色に囲まれたゾロが立ち上がった。
土手は薄や枯草に覆われ茶色だが、まだ大根や白菜の緑は健在だ。
立ち枯れた大豆の茶色をバックにすると、緑色のツナギを着たゾロは目立つ。
「悪い、遅くなった」
「なに、そろそろ刈り取ろうとしてたところだ」
先にゾロが持ってきてくれていた長靴に履き替え、軍手を嵌める。
「んで、なにすればいいって?」
「これを根元で切って紐でこんくらいずつ束ねてってくれ。そん時、余計な葉は取ってほしい。少しでも風通し良く、日が当たるようにな」
「了解」
なにをさせても手早いと自負しているサンジは、早速作業に取り掛かった。
そこからは、二人ともただ黙々と作業に没頭した。
耕地面積は決して広くはないけれど、どうしても量が多く手間が掛かる。
そして、単純作業ながら案外と面白い。
「あんまり綺麗に取りすぎなくていいぞ、そんなんしてっと日が暮れる」
「おう。わかってんだけどさあ、なんか気になって」
適当に葉の部分だけ千切って束ねればいいと頭では分かっているのに、つい、ここもここもと目に付いたいらない部分を全部取り除いてしまっている。
こうすれば確かに風通しはよく、あとで収穫するのも楽になるだろうが、やはり量が多くて追いつかない。
「うう、じっくり腰据えてやりたくなってきた」
「そんな時間はない」
ゾロにばっさりと言い切られ、仕方なく妥協点を探しながら続けていく。

そのうち、なぜか気持ち悪くなってきた。
吐き気を催すほどではないが、なんとも言えない不快感が込み上げてくる。
視界も揺れるし、指先が自分でも驚くほど冷たくなっていた。
「――――あ・・・」
サンジの、ちょっとした変化にも聡いゾロがすぐに気付いた。
「どうした?」
「や、なんかちょっと、気持ち悪い」
「大丈夫か」
すぐさま温かい茶を入れた水筒を持ってきて、甲斐甲斐しく汲んでくれる。
その場に腰を下ろし、水分を口に含んで一息吐いた。
「悪ぃ、なんだろこれ。たいしたことねえのに」
「そうやって休んでろ、ここまでできたんならもうすぐだ」
腰を下ろして休むサンジを置いて、ゾロは作業を再開させた。
なんとも情けなくて、サンジは額を抑えて項垂れた。

ゾロは毎日外仕事しているのに、自分はたまに手伝っただけでこのていたらくだ。
情けなさと申し訳なさで、何とも居た堪れない。
「ごめん、なんだろこれ」
もう大丈夫、と言いたいところだが全然大丈夫じゃない。
気持ち悪さは変わらないし、作業を続けようと思ってもグラグラして余計気分が悪くなる。
いっそ、土の上でも構わないからこのまま横倒しに寝転びたかった。
「歩けそうなら、先帰れ。そろそろ昼だろ」
「――――・・・」
それもそうかと、立ち上がった。
別に眩暈がする訳じゃないから、普通に歩ける。
というか、早く横になりたいから自然と早足になった。
「悪い、先帰る」
「おう、寝てろよ」

あー情けねーと思いつつも、ゾロになら弱い自分を曝け出せる安心感も手伝って素直に家に帰った。
なすがしら号は、また散歩の時にでも取りに来ればいいだろう。


帰って来たサンジを風太は飛び上がって出迎えたが、片手を振りかえしただけで家に入った。
とりあえずストーブを付けて薬缶を乗せ、少し温まってきた空気の中でばったりと倒れ伏す。
しばらく横になっていると、徐々に気持ち悪さが薄れてきた。
それと同時に、指先の冷えも和らいでくる。
どうやら、風で体温を奪われ過ぎたのが敗因らしい。
日差しが温かいのと、作業で汗を掻いたから適温だと思っていたのに冷え切っていたようだ。
「あー情けねえなあ」
声に出して嘆いてから、サンジはゆるゆると身体を起こした。
ゾロが帰ってくるまでに、なにか昼食を作っておこう。



昼を少し過ぎた頃、ゾロが戻ってきた。
軽トラの荷台に乗せていたなすがしら1号を下ろし、纏わりつく風太を宥め颯太を構ってから家に入ってくる。
「お、大丈夫か」
「もうなんともねえ」
サンジは火を止めてから、振り返った。
「飯できてるぞ、今日は中華丼」
「おう、美味そう」
「美味そうじゃなく、間違いなく美味いっての」
サンジの軽口を背中で聞いて、ゾロは洗面所に向かった。
「気持ち悪いの、だいぶ治った。なんだったんだろうなあ」
「風で冷えたんだろ、あったかいもん食えばもっとよくなる」
「確かにそうかも」
ゾロが着席してから二人同時に手を合わせ、湯気の立つ中華丼を頬張る。
「うん、美味い」
「だろ」
黙ってはふはふ食べながら、サンジはふうと息を吐いた。
「現金なもんだな、飯食うとほんとに治った」
「飯は力の元だ」
ゾロは頬に米粒を付けたまま、空の丼を差し出しておかわりをねだる。
「いっぱい作ったから、たんと食え」
サンジも食べることは好きだが、やっぱり自分が作った料理を食べて貰える方が何倍も嬉しい。

「ここんとこ忙しかったから、疲れてるのもあんじゃねえか?ハロウィンとか、講習会とか立て続けだったろ」
「あんなん、どうってことねえよ」
まだ冬季のディナー営業も始まっていないのに、いまから疲れていては話にならない。
「それより、お前の誕生日はちょうど定休日なんだよな」
「それだけどな」
ゾロが、お代わりを頬張りながら箸を上げる。
「その日、どっか行かないか。近場の観光地とか」
「お、いいね」
丁度紅葉の時期だし、平日なら混んでもいないだろう。
「今年の紅葉は見事だっていうしな、日帰りでちょっと遠出すっか」
「コビーから預かってる軽があるだろ、あれでドライブしようぜ」

コビーはこの秋、海外協力隊に旅立って行った。
一つの目標としていたから、合格した時はみんなでお祝いしたものだ。
2年間は、異国の地で奮闘することになる。
「たまには乗ってやんないとな」
「普段は軽トラしか使わねえから」
楽しみな予定を控え、サンジも上機嫌で中華丼をお代わりした。


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