猿酒 -2-

昼食で本調子を取り戻したサンジは、後片付けを買って出た。
「あんま調子に乗んなよ。しんどい時はきちっと休め」
「そりゃ俺の台詞だ。いいから仕事行って来い」
ゾロが一輪車に乗せて運んできた大根の山も引き受ける。
「天気がいい内に洗って干しとくから」
「んじゃ任せる。だがくれぐれも―――」
「はいはい、行ってらっしゃい」
蹴り出す代わりに、上がりかまちに立って身体を屈めゾロの頬にぷにっと唇を付けた。
思わぬ行動に一瞬固まったゾロに、笑顔で手を振る。
「行ってらっしゃい」
「・・・行って来る」
ゾロは引き結んだ唇をもにょもにょさせながら、大人しく仕事に出かけて行った。

「さって、んじゃ挽回しますか」
サンジは手早く洗い物を済ませると、手袋に束子持参で長靴を履いて川戸まで大根を運んだ。
冷たい水でがっしがっしと洗う。
泥が綺麗に落ちるのは気持ちがいいが、葉の付け根部分の汚れはなかなか落とし辛い。
しかもゴム手袋に穴が開いていたのか、早々に中が水浸しになって身を切るような冷たさだ。
「―――ちっ、やっぱ手袋も消耗品かなあ」
ひとりごちて、それでも黙々と作業に没頭していたら不意に頭上で悲鳴が聞こえた。

「ひぃゃァ――――――っ」
すわっ、女性の悲鳴!?

サンジは慌ててすくっと立ち上がり、周囲を見回す。
どうやら、橋の向こうのお隣さんちからだ。
「おばちゃん?」
お隣のおばちゃんに何事かあったのかと、大根と束子を置いて慌てて駆け出した。
こういう時、長靴は走り辛い。
それでも俊足でお隣さんちに辿り着くと、家の裏にある畑におばちゃんが棒立ちになっていた。
突っ立ったおばちゃんの足の間には、小さなものがいる。

「――――猿?!」
猿だった。
おばちゃんが足を踏ん張って立つ足の間に猿がちょこんと座って、おばちゃんの片足を抱きしめている。
「ひゃー・・・ひゃァァァ―――」
「コラ―っ!さーるーっ!!!」
おばちゃんの弱々しい叫び声に被せるように、サンジは腹から声を出して怒鳴りつけた。
猿はぴくっとこっちを振り向き、おばちゃんの足を軸にしてくるりと方向転換してから、脱兎のごとく駆け出した。
「こらっ!こらっ!!おばちゃん、大丈夫か?!」
片手を振り上げながら、逃げ去っていく猿の後ろ姿を威嚇する。
そうして、その場にへなへなとしゃがみこんだおばちゃんの肩を抱いた。
「ああーサンちゃん、びっくりしたァ」
おばちゃんは震える手をサンジの肘に掛けて、疲れた様子で項垂れた。
「もう、びっくりしたのよう、もう」
「あの猿、どっから・・・」
「どっからもなにもないのよぅ、気が付いたら足元にいて掴まれて・・・」
おばちゃんは立ち上がろうとして、顔を顰めた。
「なんか、しくしくするねぇ」
「大丈夫、噛まれたんじゃないの?」
「いやァ、噛んだりしてないのよぅ。でもびっくりしたわぁ」
とにかく家の中へと、おばちゃんを支えながら玄関を入った。
おっちゃんはちょうど農協に出かけていて、おばちゃん一人だったという。

「本当に、音もなく気配もせずしずかーに近寄ってきたのねえ。誰かが後ろから掴まって来たから、なにかと思ったよぅ」
やんわりと触れる感覚がまるで小さな子どものようだったので、おばちゃんはなんとはなしに下を向いて仰天したのだという。
まさか、足元に猿がいるとは思いもしなかった。
「それで、きゃーとか叫んでもあっちは全然驚かないの。平然として見てるし」
「確かに」
猿はきょとんとした様子だった。
サンジが声を張り上げて近寄らなければ、ずっとあのままいたかもしれない。
「こっちが騒いでも猿が平気だと、どうしようもないわねえ。逃げられないし」
「蹴飛ばしてやればいいんだよ」
「そんなの、怖いし可哀想ねぇ」
サンジが駆けつけなければ、おばちゃんは猿に足を掴まれたままきゃーとかひゃーとか叫び続けていたかもしれない。
それはそれで気の毒だ。

ともかくと、長靴を脱いでズボンを捲り上げたら、ふくらはぎに傷が付いていた。
どうやら、猿の爪が当たったらしい。
「大変だ、すぐ医者行かないと」
「この程度、かすり傷ね。唾つけときゃ治るよぅ」
「ダメ、それは絶対ダメ!野生動物の傷なんだから、点滴してもらって抗生物質飲まないと大変なことになるよ!」
サンジが目を吊り上げて怒るのに、おばちゃんは相変わらずおまんじゅうみたいに笑う。
「サンちゃんは大げさねえ」
「おばちゃんが呑気過ぎんだよ、いますぐ一緒に医者いこう!」
「でも、診療所の受付は午前中までだし」
「急患だってば!」
「時間外に気の毒だよぅ、別に急ぎじゃないし」
「だから急患―――」
不毛な言い争いを続けていたら、おっちゃんが軽トラに乗って帰ってきた。
二人とも、助け舟とばかりに同時に腰を浮かす。
「おじさん!大変だ、おばちゃんが猿に怪我させられた!」
「はぁ?そりゃあ猿も災難じゃったの」
「違―う」
「ほんに、災難ねえ」
呑気にコロコロ笑うおばちゃんに、サンジはもう気が気じゃない。
「おばちゃんに医者行けって、おっちゃんからも言って!」
「ああ、わかったわかった。わしが連れてっちゃる」
あっさりと引き受けられると、逆に猜疑心が頭をもたげる。
「・・・ほんとに?」
「ほんとほんと」
おっちゃんの赤ら顔は狸みたいで、人の良さ全開なのにどこか胡散臭かった。
「じゃあ、おとうさんと一緒に行くからね。ありがとうね」
おばちゃんも、これ幸いとばかりにサンジを追い出しにかかった。
そんなに医者に行くのが嫌なのか。
サンジがなおも言いつのろうとすると、おっちゃんは台所からあれこれ取り出してきた。
「それより、これオカンが漬けた粕漬け。ちょうどいい塩梅だから、持って帰れ」
「これクズ芋だけど美味しいのよう、いっぱい採れて困ってるから、助けてらえると嬉しいのぅ」
あれもこれもとビニール袋や紙袋を押し付けられて、結局うやむやのまま退散することになった。
両手いっぱいに手土産を抱え、長靴をカッポカッポと言わせながら来た道を帰るサンジは、釈然としない。
一体俺、なにしに行ったんだ。



「・・・ってことが、あったんだよ」
レテルニテのカフェタイムに、フランキーとウソップがカウンターで世間話をしているのに参加した。
先ほど村の奥様方がティータイムを終えて出て行ったので、ちょうど男ばかりが残った形になる。
「そりゃ大変だったな。んで、おばちゃんは結局医者に行ったのか?」
ウソップのもっともな質問に、サンジは顔を顰めて首を振る。
「いんや、案の定そのまま赤チン付けて終わったって後で聞いた」
「まあ、そんくらいの人は大げさだとも思うだろうな」
「医者に行くの、そんなに億劫かな」
サンジはカウンターに頬杖着いて、不満そうに唇を尖らせる。
「医者に行くのが嫌ってえより、時間外に病院に行くのが遠慮なんだろ」
「極端なくらい、人に手間かけさせるの嫌がるとこあるよな。この辺の人たち」
「まあ、なんとなく気持ちはわかるんだけどね」
サンジだって、逆の立場ならやっぱり消毒だけで済ませただろうとは思う。
だがやはり、心底心配したのだ。
大好きなおばちゃんにもしものことがあったらと思うと、平静ではいられない。
「あの後、チョッパーから弁当箱受け取るついでに話はしといたんだけどな」
「まあ心配いらねえだろ。それよりはぐれ猿のが問題じゃねえか」
「あれなぁ、実はさろべえさんの小屋に住み着いてるらしいぞ」
「マジで?」

夏に亡くなったさろべえ爺さんが耕作していた田圃は、作り手を失って遊休農地になっている。
そこの作業小屋が放置され、はぐれ猿はそこに住み着いているらしい。
「居場所がわかってるんなら、猟友会に頼んだらどうだ」
「いや、あの人らも猿は嫌がるんだと」
それもわからないでもない。
鹿やイノシシはまあ、形態が四ツ足だし狩ってもその後食料になるが、猿はそういかない。
なにより、人間に近すぎる。
「嫌だよなあ」
「どれも同じ命に変わりはないが、でもやっぱ嫌だろなあ」
フランキーとウソップを眺め見ながら、サンジも複雑な気持ちになっていた。
ゾロが本格的に猟師デビューしたとして、やはりそれは嫌がるだろうか。
それとも、どれも等しく同じ命だからと、躊躇いなく撃つだろうか。
どちらにしろ、その答えは知りたくないと思ってしまう。

「ところでさ、今年ことのほか紅葉が見事だっていうじゃね。近場でどっか、いいとこ知らねえか?」
サンジがコーヒーのお代わりを注ぎながら聞くと、ウソップとフランキーは顔を見合わせた。
どちらもどんぐり眼をパチパチと瞬きする。
「そうだなあ、今年は特にどこも行ってねえな。そこらの山見てるだけで綺麗だし」
「オリヴィアを連れての遠出は、来年までお預けだ」
「うちも」
お互い乳飲み子を抱えているため、行動範囲は狭い設定らしい。
それもそうかと、サンジは考えの至らなさを反省した。
「だよな」
「いやでも、話はいろいろ聞いてるぜ。近場でってんならあれだけど、ちょっと足を延ばせばドラムとかロングリングロングランドとか」
「ああ、ドラムは桜の名所だが秋もなかなかいいらしいな」
「さくら茶屋が、秋にはもみじ茶屋になるとか」
「へー」
以前、ゾロと一緒に東の観光地を制覇したことがあったが、北はまだだった。
方向を変えてあちこち旅行するのも、いいかもしれない。
「ロングリングロングドーナツは、一度食っとけ。お勧めだ」
「ボーイン村もいいぞ、世界の大昆虫展は年中やってて、そりゃあでかいヘラクレスオオカブトンが・・・」
「まあ虫はいい」
サンジはさっくりと話を切って、ありがとなと腰を上げる。

「今度の休日の行き先が決まったわ。それじゃそろそろ、レテルニテ閉店のお時間でございます」
「おー、そういやこんな時間か」
「ご馳走さん」
会計を済ませた二人に、サンジは紙袋を渡した。
「こっちは、麗しい奥様方にお持たせで」
「あ、ありがとう」
「まったく、何しに来てっかわからねえな」
遠慮なく紙袋を受け取り、今度は一緒に飯を食いに来るなと笑う。
「旅行行くんなら、風太と颯太の散歩は任せろ」
「いまから宿取るの難しいなら、ロビンの伝手を聞いてやるぜ。誕生日割引も、聞くといいが」
気が回りすぎる友人達に、サンジは若干顔を赤らめて掌で遮った。
「気持ちだけで結構。日帰りでちょっと遊びに行くだけだ」
「なんだ、露天風呂付き温泉とか」
「ゆっくりしてくりゃいいじゃねえか。最近はホテルもなかなか充実しているらしく・・・」
「うっせーっての、またのお越しをお待ちしております!!」
最後はサンジに蹴り出され、フランキーとウソップはガハガハ笑いながらレテルニテを後にした。

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