錯誤の夜 8

ゾロは殺気を感じて目を覚ました。


目線の先には見慣れた黒い靴。
その足は振り下ろされることなく、距離を測って佇んでいる。

「腹巻、飯だ。」

抑揚のない声が届いた。
顔を上げると、見慣れた黒い背中が、少し右に傾いで去って行く。
いつの間にか、日は高い。
眠れないだろうと思っていたが、昨夜の寝不足がたたったのか、随分ぐっすり寝込んだらしい。
自分の図太さに少し呆れて、ゾロは甲板から腰を上げた。





いつもと何ら変わることなく、キッチンにはいい匂いが漂っていた。
昨日のどんよりとした天気とは違い、今日は青空が覗いている。
そのせいか部屋の明るさも違って見える。

いつもと同じ柔らかな陽射しの中で、テーブルには温かな朝食が湯気を立てていた。
1人分をセッティングされたテーブルにゾロがかける。
少し離れた席でサンジはコーヒーを飲んでいた。






昨日のことが、夢のようだ。
夢であったらいいと思う。
そんな女々しいことを思いつく自分に、ゾロは腹を立てた。

ここ一週間ほどサンジと冷戦状態が続いていたから、こうして沈黙の中で食事をすることは
慣れているはずだ。
その状態は自分が招いたもので、今この気まずい空間も自らが仕出かした結果だと解かっている。
解かっているのに、ゾロは言葉ひとつ発せないでいた。

きちんと詫びるべきなのかもしれない。
どうしてサンジを無視していたのか。
どうしてあんなに腹を立てたのか。
どうして乱暴してしまったのか。
説明するべきかもしれない。

だが、まだ自身が混乱状態にあるゾロには、とても表現できなかった。
ただ腹立たしく、やるせなく、何故か焦りがある。
ナミに言わせれば「バカ」の一言で片がつくすべてのものがない交ぜになって、ゾロの心が憎悪で満ちてくる。
まだ、心の片隅でサンジに対する怒りが解けない。

見知らぬ男に抱かれた事実を目の当たりにして、嫌悪を感じる。
それがサンジに対してなのか、己に対してなのか判別できず、ただしこりとなって胸の奥深くで渦巻いている。

ゾロにはわかっていた。
これが不条理な怒りだと。

コックは自分のものではない。
ましてや何か誓い合ったわけでも、約束した仲でもない。
コックにしてみれば身に覚えのない言いがかりでしかないだろう。
それなのに怒るでもなく、まるで何事もなかったように涼しい顔でいつものように、自分を傷つけた男のために朝食を準備し、
知らぬ顔でコーヒーを啜っているのが許せない。

ゾロの言葉に出ない苛立ちから逃れるように、サンジはすっと立ち上がった。



「食い終わったら、流しに置いておけ。俺は買出しに行ってくる。」
飲み終えたカップをシンクに置いて、畳んであった男の上着を手に取った。
瞬間、ゾロの頭に血が上る。
その上着を奪い取って、コックを殴りつけたい衝動に駆られた。
腰を浮かしかけて、ぐっとテーブルの端を握る。
僅かに残った理性でもって、ゾロは自分を押しとどめた。

ここでコックを殴りつけるのは筋が通らない。
自分には、引き止める権利も値打ちもない。
サンジをこれ以上ないくらい傷つけて貶めたのは、他ならぬ自分で、お前が選べといったのも自分だ。
引き止めることなどできるはずがない。
ゾロは拳を握り締めて、腰を下ろした。

サンジはゾロの動揺など気にも止めず、静かに船を下りた。



一人残されて、ただ歯噛みする。
この期に及んで、手放したくない貪欲な自分がいる。



ナミ、これが恋かよ―――

力なく椅子に凭れて、冷めていくコーヒーをただ見つめた。















どこまでも続く市場通りをぷらぷらと歩く。
同じような食材は、鮮度と値段を比べて吟味したいところだが、さすがに今日はそんな余力もない。
とりあえず必要な分だけ大雑把に注文する。

ナミさんは、ここからしばらく島が続くと言っていた。
今日まとめて買い溜めする必要もない。
軽いものだけ手に下げて、サンジは人ごみに目を泳がしていた。

黒っぽい緑頭。
でかい男。
案外、見つからないもんだな。

煙草を銜えて、ベンチに腰掛ける。
一瞬響いて、不自然に腰を浮かした。
情けなくてため息が出る。

増える荷物に重い上着が余計かさばって邪魔だ。
律儀に返すこともねえ、この辺にほっぽいて、ずらかるか。
よからぬことを考えた時、探し人は向こうからやってきた。






「よお。」
一声掛けて、どかりと隣に腰を下ろす。
またしても響いて、サンジは声もなくうめいた。

「おっと悪いな。元気そうじゃねえか。」
浅黒い顔でにかりと笑う。
日に透けけた髪はやはり緑だ。
「おかげさんで。」
痣は残っているが、腫れは引いた。
昨日よりは、ましな面だろう。
口の中はざくざくに切れていて、まだかなり痛む。

「ちょうどいい、おっさん。返しとく。」
上着をばさりと、男の膝に置く。
「こんなもん、返してもらわんでいい。俺が欲しいのはお前だけだ。」
煙草を持つ手が止まった。
恐る恐るといった風に顔を向けて、自分の腕を指差す。
「それは・・・あれだな。コックとして・・・だよな。」
「あたりまえだ。」
あからさまにホッとした顔に、また苦笑した。

「このまま弱っちいてめえをかっ攫って監禁するって手も、有りだな。」
邪気のない口調で物騒なことを言う。
「そりゃあ、海賊のやり口だ。あんらたらは商人だろ。」
どっちが海賊だかわかりゃしない。

「生憎俺がいねえと、船の奴らは飢え死にする。船長は人外の大喰らいだ。なんせゴム人間だ。
 腹ん中にいくらでも入る。どれだけの容量が入ればとりあえず満足できるのか、経験でわかってる
 俺にしか食料配分はできねえ。そのほかにも欠食児童みてえな育ち盛りが3人もいて、食事時は
 ひでえ有様だ。それにうちには絶世のスレンダー美女が二人もいる。彼女たち美容と健康には俺の
 カロリー計算がかかさねえ。」
そこまで話して、ようやく区切った。
全部聞いているうちに男の身体が前のめりになっている。
「つまり、俺はあの船に必要不可欠な存在だ。降りるわけにはいかねえ。」
それだけはきっぱりと、伝えなければ。

「仲間の為か。」
男の目に、皮肉な色が映る。
「それとも、自分の為か。」
「自分の為だ。」

本当はよくわからない。
ただ奴らと旅を続けたい。
オールブルーを見つけるなら、あいつらとでないと嫌だ。
ルフィが海賊王になるのも この目で見届けたい。
そして――――



少し胸が詰まった。
今の俺は、きっと情けない顔を晒してるんだろう。

「まあ、あの頭見たときに、大体わかったがな。」
男が拗ねたように、ふんと鼻を鳴らした。
「ありゃあ、見事だ。マリモだ芝生だとは、結局あれじゃねえか。」
「・・・そんなんじゃ、ねえ。」
後ろめたくて、視線を落とす。

わかっているのだ。
あんな目に遭わされた今でも、ゾロへの気持ちは変わっていない。
俺の中のゾロは、変わってない。
けど―――――
多分、あいつん中で俺は変わっちまった。



「まあいいさ。俺は美しい想い出を胸に、傷心を慰めるよ。」
「なんだそれ。」
男の白い歯がキキと笑った。
「後半年は持つな。お前が涎垂らしてイきまくるあの顔・・・」

がこん!

わが身を省みず、繰り出されたコリエが見事に決まる。
倒れ付した男の背中越しに、ウソップとチョッパーが歩いてくる姿が見えた。
いとしのロビンちゃんも続く。
「おーい、サンジ〜!通りすがりの人に乱暴働いてんじゃねえぞ。」
血相変えたウソップに、サンジは笑いかけた。













「まいど!三河屋で―す。ご注文の品お届けに上がりました―。」
「はーい。」
若奥様よろしく初々しい声で返事して、ナミはゾロに振り返る。
「ゾロ、今度はお酒届いたわよ。早く運びなさい。」

さっきから何度か1人でキッチンと甲板を往復していたゾロは、ナミの言い様に鼻白んだが、口には出さなかった。
ナミが早めにGM号に戻ったとき、ゾロは一人で鍛錬をしていた。
それとなくサンジの動向など訪ねたが、ああともううとも返事が返らず、不機嫌な顔にはどこか悲壮感さえ
漂っていて、ナミといえどもそれ以上の追求は諦めた。
だがこうして続々と荷物が届くということは、サンジは買出しに奔走しているのだろう。

波止場に賑やかな船長の声が届く。
「ルフィ、丁度よかったわ。そのケース持ち上げて」
「おう、ナミただいま!!」
しゅるしゅると伸びた腕が、酒瓶を軽々と甲板に持ち上げた。
それを受け取ったゾロの目にも、遠くから歩いてくるウソップ達の姿が見えた。

チョッパー、ロビン、そしてサンジ。

両手に買い物袋を下げて、出かけに手にした上着はなくて。
それだけで、ゾロの顔に安堵の色が広がる。
ナミは横目でその表情を読みとったが、何も言わなかった。


「ったく、あんた達も海賊なら、上陸して遊んでないで隣に止まってるでっかい船からお宝の一つもぶんどって来なさいよ。」
「にしし、それもそうだな。今度からそうすっかあ。」
呑気に答えるルフィの後ろで、サンジは海を眺めながらそ知らぬ顔で煙草を吸っている。
お宝を奪うどころか仲間を奪われかけたなど、誰に言えるはずもない。

ゾロは苦い思いを噛み潰す。

それでも、コックは戻ってきた。
その事実だけで、ゾロは満足してしまった。
自分の気持ちがわかったから。






そして――――

ゾロは、思ってしまった。



コックはあの男ではなく、自分を選んだのだと。

これからまた、変わらぬ日々が続くのだと。






自分はコックに許されたのだと



―――――思って、しまった。


next