錯誤の夜 2

ゾロは蜜柑の木の下で、何度目かの寝返りを打った。

眠れねえ―――――

普段なら、目蓋を閉じて秒速2秒で眠りに落ちる万年寝太郎が、まんじりともできずにいる。
奴のせいか。
目を閉じれば、浮かんでくるのはどこか怯えた目をしたコック。



一目置ける仲間に囲まれて、恵まれた環境の中で鍛錬を積みながら世界一の剣豪を目指す。

快適な生活の中で、なぜかコックの声だけが耳障りに響く。
ナミやロビンに猫撫で声で話し掛けるのを耳にするだけで虫酸が走る。
ウソップと馬鹿みたいに大口開けて笑って話したり、ルフィに抱き付かれている姿に腹が立ってチョッパーの毛並みを撫でる手を
見ただけで張り倒したくなった。

訳もなく苛つき、胸がざわめく。
慢性的な動悸、息切れ、不眠―――

どこか具合でも悪いのだろうか。
これはチョッパーの領域か。
だがこの症状が現れるのには、一定の条件がある。
目の前にコックがいる。
ただそれだけ・・・。



コックのよく動く白い手を見ていたら、まだルフィたちと出会って間もない頃、ナミの短いスカートからはみ出した太腿を見た時と
同じような感覚に襲われた。
だが、あいつは女だ。
今ではとうに見慣れて、女としても意識できなくなっているが。

男であるコックに対して、そんな感情が生まれる筈がない。
あのいけ好かない面とか、生意気な口調とかすべてが癇に障る。
ここまで人を嫌いになれるものなのか。
自分の度量の小ささに、愕然とする。

思い切り、突き飛ばした。
かなり強く頭を打ってたが――――
・・・痛かったろうな。
毛嫌いしている相手に、何を気遣っているのか。
ゾロは自嘲気味に笑った。

だがあのままでは、自分はコックに噛み付いていた。
噛み付く?
なんで?

コックを見ていると、時折暴力的な衝動に駆られる。
それは女を抱く時に似て―――
いや、女を抱くときはそれなりに気を使う。
暴力的なのは、暴くと言うこと。
組み敷いて曝して、穿つということ――――



ゾロはがばりと身を起した。
目を閉じて考え事をしていただけなのに、嫌な夢でも見たように額に脂汗が浮いている。
どうかしている、俺は―――――
バンダナで顔を拭い、ゾロは雑念を払うべく座禅を始めた。





ロロノア・ゾロ 19歳

たわわに実った蜜柑の下で悟るには、あまりに無自覚な遅すぎる初恋だった。











「予定通り、お昼過ぎには島に着けるわよ。」
ひゃっほうとはしゃぐ船長と共に、サンジも踊りたくなった。
久しぶりの上陸は、今の自分にとって地獄に仏だ。
街に繰り出して麗しいレディとひと時を過ごせば、ここの所ずっと頭を占めている緑腹巻のことなど払拭できるだろう。
一気に上昇した気分を打ち砕くように、ナミの無情な声が届いた。
「あ、今夜の船番はサンジ君だから。」
「えええ!!」
思わず抗議の声を上げてしまった。
「あらだって、前の島で一巡したでしょ。だから今日はサンジ君の番。」
ああ、そう言えば・・・。
「で、明日はゾロで明後日は私が早めに戻るわ。ログが溜まるのは3日。それでいいでしょ。」
てきぱき采配するナミに、依存はない。
一気にトーンダウンする気持ちを抱えたまま、サンジはへらりと笑った。







誰もいないキッチンで、ただぼうっと煙草をふかす。
静か過ぎて波の音がやけに響く。

誰かがいれば、気が晴れるのに。
誰かの為に何かが出来れば、それだけでいいのに――――


俺、もしかして鬱か・・・

サンジは一人、口を歪めて笑った。
人に無視されるのが、こんなに堪えるものとは知らなかった。
腹が立つというより、今自分の中を占めている感情は哀しみに似てて・・・

ゾロだけが、俺の料理を美味いとは言わない。
ゾロだけが、俺の名を呼ばない――――

どうやら俺にとって、ゾロは特別らしい。
多分、悪い意味での特別。

己を馬鹿と自覚して憚らない超がつくほど大馬鹿なのに、他人に馬鹿とは呼ばせない。
真っ直ぐに前を向いた、揺ぎ無い剣士。
向けられた綺麗な背中は、安心して任せられた証と自負していたのに・・・
今、向けれられている背は、拒絶以外の何物でもなくて――――

だから、腹が立つより哀しいのだ。



思考が沈みかけた頃、ぐらりと船が揺れた。







慌てて甲板に飛び出すと、直ぐ隣に巨大な船が着岸していた。
「なんつー・・・でけえ船だ。」
煙草を咥えたまま振り仰ぐ。

旗印はない。
海賊ではなさそうだ。
海軍でもねえ。

甲板に多くの人影が現れた。
とりあえず、身構える。
ピンクのエプロン姿じゃ、少々間抜けかなあ。

だが現れた男達は、GM号には目もくれず、一目散に陸に降り始めた。
どうやら、害はないらしい。
―――けど、完全無視もなんかむかつくぜ。
ポケットに手を突っ込んで煙草をふかすと、頭上からよく通る声が響いた。

「悪いなあ、揺らしたか。」
一際高い位置にある船縁から、でかい男が見下ろしている。
サンジは目を見開いた。
陽光に透けるその短髪の色は、緑。
「へえ、いるもんだな。」
「ああ、なんだ。」
男が身を乗り出す。
「なんでもねえ。昼寝には丁度いい揺れだ。」
サンジの答えに、男はにかりと笑ったようだ。
逆光の中で白い歯が浮いて見える。

遅れて出てきた男達が陽気に騒ぎながらこっちを覗き込んだ。
「おう、自分可愛い海賊船だな。」
そりゃ、手前らから見れば海軍でも可愛いだろうよ。
「そこのピンクの別嬪サン。一緒に降りねえか。」
かなり酔っているのだろう。
鼻の赤い男が声を掛けてくる。
「舐めてんじゃねえ。オロスぞ、おら。」
口元に笑みを貼り付けたまま、目だけで威嚇した。
赤鼻はおっかねえ、と肩をすくめて笑っている。
「てめえら、先客さんにちょっかい出してんじゃねえ、とっとと降りろ!」
さっきのいかついおっさんが一声吠えて、船員達は慌てたように行儀良く降りていった。
「さすが、マリモの一声は聞くなあ。」
軽く呟いたのに、今度はちゃんと聞こえたらしい。
「マリモたあ、うまいこと言うな。」
男は豪快に笑って手を広げた。
「俺達は商人だ。見たところあんたは海賊らしいから、せいぜい用心させてもらうぜ。」
「ああ、寝首をかかれねえように、気をつけるんだな。」
合図のように吸殻を海に投げ捨てて、サンジはキッチンに戻った。







戸棚とシンク裏の掃除を済ませて、自分の為だけの夕食に取り掛かる。
誰かの為ではない料理は酷く味気なくて、サンジは小さく溜息をついた。
多分自炊でもしたら、俺ロクなんもん、喰わねえんだろうな。
それでもキッチン一杯にいい匂いが立ち込める頃、誰かが帰ってきた足音が響いた。

「ただいまーサンジ。」
現れたのは、ウソップ。

「なんだ、どうして・・・」
驚くサンジの前で、抱えてきた大荷物を降ろす。
「なんだよ隣の船。やけにでけえな。大丈夫かあれ。」
「ああ、あれは商船らしい。無害だぜ。」
ならいいけどよ、と椅子に腰掛けた。
「張り切って買い物したら買いすぎてな。すぐに改良したいから持って帰ってきた。
 俺これからここで組み立てるから、サンジは街に行っていいぜ。」
落ち込んでいるサンジに対して、ウソップなりの気遣いなのだろう。
サンジは思わず息を止めて、それから口を歪めてみせた。
「何、言ってんだ。別にいいよ、俺あ―――。」
「俺は別に、てめえと交代してやるってんじゃないぜ。今夜ここに泊まるから、お前がいる必要はねえって言ってるだけだ。」
がさごそとせわしなく手を動かして、あちこち部品をばら撒き始めた。
サンジは心の中で、ウソップの心遣いに感謝する。

「なら、夕飯一緒に食おうぜ。」
「おう、それだけは当てにしてたんだ。」
調子のいいウソップの声に、サンジは急いでメニューを増やす。

さっきとはうって変わって軽やかな包丁の音が響いた。


next