錯誤の夜 1

どうも腑に落ちない。

サンジは仰向いて、抜けるような空に煙を吹きかけた。
白い雲に紛れて風に溶ける。

しっくりこねえ。
身体がなまる。
気が晴れねえ。
苛々する。
物足りねえ。

サンジはぎりと煙草を噛んだ。
むかつくぜ畜生。




原因はわかっている。
ここ数日、ゾロに蹴りを入れていないのだ。
正確に言うならば、喧嘩をしていない。
もっと正確に言うならば、ろくに口もきいていない。

なぜだ。

サンジに思い当たる節はない。
ゾロの様子がおかしいのはここ数日のことだ。
この狭い船の中で寝食を共にしていて言葉を交わさないなど、不自然であり得ない。
つまりそれって・・・

サンジは大きく息を吐いた。

俺が避けられてるってこと。
腹立ち紛れに投げ捨てられた吸殻が、弧を描いて海に落ちた。





ゾロは食事時に必ずキッチンへ来るようになった。
これだけなら凄い進歩だ。
わざわざ呼びに出向くこともない。
横腹や脳天に蹴りを入れて起してやる手間も省けた。
本来なら喜ばしいことだが、そのお陰で唯一とも言える二人の接点が、途切れている。
ルフィたちと同じように水汲みをして掃除もして、嵐の時は起きて働き、鍛錬をして眠っている。
自主的に動くゾロに、サンジが口を挟む隙はない。
客観的に見ればいい傾向なんだろうが。
やはりサンジは腑に落ちない。
ゾロが自分を見ないことを。







「あんたたち、喧嘩してんの?」
夕食の場で唐突にナミさんが爆弾を落としてくれた。
俺にとってはいいチャンスだ。
自分から何故シカトすんだと問い詰めるのは癪に障るが、一緒に旅を続ける以上妙なしこりは早めに取り除くに限る。
俺はじろりとゾロをねめつけた。


ゾロは表情を変えず、それでもサンジとは目を合わさずに「別に。」と答えた。
「別に、ねえ。」
ああ、ナミさんが女神に見える。
「私の気のせいでなければ、あんた達最近ロクに会話してないし、罵り合わないし、船も壊さないし。どう見てもおかしいのよね。」
「それを喧嘩してないって言うんじゃねえのか。」
思わぬゾロの突っ込みに、ナミさんはうっと詰まった。
「もともと仲良しって訳じゃねえから、うるさくねえだけマシだろ。気にすんな。」
くいとグラスを呷って、早々に席を立つ。
ナミさんもそれ以上追及しない。
ただ怒ったような顔で、俺に振り向く。
「サンジ君は、わからないわよねえ。」
ただ曖昧に頷くしかなかった。
ゾロが俺を避けてる。
わかったことは、さっきの会話でそれが決定的になったこと。







サンジは何度目かの溜息をついた。
一人キッチンに残って仕込みをしていると、毎日のように奴は酒を取りにきた。
そのままどこかへ消えることもあれば、テーブルに座って一人でちびちびやることもある。
そん時俺は簡単なつまみを作って、黙って奴の前に置いてやったりもしたもんだ。

悪い雰囲気じゃなかったよなあ。
何でこんなことになったんだろう。
何よりショックなのは、自分が今落ち込んでるという事実だ。
ゾロごときの言動に動揺している自分が信じられない。

「らしくねえな、畜生。」
つい声に出して悪態をついた。
今夜の不寝番はゾロだ。
トレイには暖かな夜食が準備されている。
見張りが誰に限らず、夜食の差し入れはいつもの習慣だ。
今日ゾロに差し入れたって不自然じゃねえ。
っていうか今日だけ持って行かなかったらそっちの方が絶対おかしい。
サンジは自分に言い訳するように心の中で繰り返した。

ただの差し入れだ。
いつものことだ。
もう一度深く息を吐いて、サンジはキッチンの扉を開けた。



春島が近いのに、風はまだ冷たい。
上がるほどきつくなる風に、サンジは何度か煽られる。
「よお、起きてるな。」
努めて軽く、何気なく声を掛けた。
蹲る人影は、うんともすんとも返さない。

「シカトすんな、おら、食えよ。」
手すり越しにトレイを差し出した。
ゾロは身じろぎもせず、顔を上げないまま信じられない言葉を吐いた。
「いらねえ。」
カッと頭に血が上る。
「何がいらねえだてめえコラ!俺様のこの世のものとは思えねえうまい夜食をいらねえたあ、どの口が言いやがるんだ、ええ!!」
激昂して掴みかかるサンジの手を避けて、ゾロはトレイを引ったくった。
相反する行動にサンジの気が削がれる。

「失せろ」
発せられた声は低く冷たい。
久しぶりに正面で捕らえたゾロの瞳は潜められ、サンジを拒絶している。
「てめえには金輪際、夜食なんか作ってやらねえ!」
子供じみた言葉で言い返し、サンジは逃げるように降りた。
マストを掴む指が強張ってうまく動かない。
なぜだかひどく惨めな気持ちで、見張り台を振り仰ぐことも出来なかった。
ただ訳もなく哀しい。
受け入れてもらえなかったこと。
喜んでもらえなかったこと。
ゾロに、拒絶されたこと。

「知るかよ畜生!!」
改めて声に出した呟きは、月もない闇に溶けた。









翌朝、静まり返った早朝のキッチンにちょこんと置いてあった、綺麗に平らげた皿とトレイ。
野郎、とことん俺を避ける気だな。
そっちがその気なら、俺は別にかまやしねえ。
俺はやや乱暴に片付け始める。
気づかなければどうってことないことでも、気づいてしまえば余計なことまで気になるモノだ。
朝食の席でもゾロは知らん顔でもくもくと食べている。
時折ウソップの話に相槌を打ち、ルフィをどつく。
いつもと変わらない風景。
俺が一人でガンつけてる以外は。

ナミさんの心配そうな視線を感じた。
綺麗な眉がひそめられている。
心なしかロビンちゃんの視線も感じる。
麗しいレディに心配を掛けるわけには行かない。
花のような顔を曇らせるわけには行かない。
俺は表情を緩めて、食事に専念した。
何が気に入らねえのかしらねえが、今に見てろよゾロ。
船の上でコックを怒らせたらどうなるか、思い知らせてやる。





風が冷たくても陽射しは暖かい。
雲ひとつない空の下で、昼間は汗ばむほどの陽気になった。
パラソルを翳して読書に励むレディ達にアイスティーを差し入れする。
「ありがと。コックさん」
極上の笑みを頂いて、自然足取りも軽くなる。
釣り糸を垂れるウソップとチョッパー、それにお気に入りの船首に跨ったルフィ。
音が出そうなほど力任せに錘を振っている腹巻を無視して、俺はキッチンに帰った。
てめえに茶などくれてやらねえ。
喉が渇いたなら、自分でキッチンに出向いて水でも飲みやがれ。
自分でも少々大人気ないと思うが、嫌われている相手にまでへこへこ差し入れするほど、俺はお人よしではない。

なのに―――
「わあん、サンジ〜」
チョッパーが泣きべそをかきながらキッチンに飛び込んできた。
「なんだ、どうした。」
「ゾロが、俺のアイスティー飲んだあ。」
はい?
何考えてんだ、あのクソ剣豪。
「サンジー。」
気が付けばウソップも立っている。
「ゾロに飲まれた。」
手には空のグラス。
「何やってんだお前ら!」
つい、声が荒くなる。


「お前らがうまくやってくんねえと、とばっちりがこっちに来んだよ。」
「俺のせいじゃねえよ。ばーか」
新しく作り直したアイスティーをチョッパーと二人すすりながら、ウソップがこぼす。
「今回マジで俺は何にもしてねえぞ。あの寝腐れ腹巻、何が気にくわねえんだかさっぱりわからねえ。」
珍しく本音で話しちまう。
乱暴に氷をかき混ぜると、浮かせたミントがくるくる回った。
「俺たちの前では普通だよなあ。」
「さっきも笑ってたぞ。」
だから余計腹立つんじゃないか。
「お前が言いにくいんなら、俺からも言ってやるよ。狭い船ん中だ。これからずっと旅するんだし、ギクシャクしてんのは、
 お前も嫌だろ。」
いつも調子のいいウソップ顔が、やけに頼もしく見える。
俺は目をぱちぱちしてから、おう、と答えた。




結局、今日も一日、何も話さずに済んじまった。
エプロンを外して明かりを消す。
昼間と同じようによく晴れた空から、月明かりが差し込んでテープルを照らす。
うざってえ。
緑ハゲごとき、会話があろうがなかろうが気にしなければ良いのに、なんでまたこうも気になるのか。
そこんとこが忌々しくて、ムカツク。
うざってえなあ、俺。

男部屋で眠る気にもなれず、グラスを取り出した。
取り置きしておいたワインを開ける。
今朝点検したら料理酒がなくなっていた。
一言、言ってくれりゃあ、教えてやるのによ。
少し速いペースでつまみもなしに飲んだ。
ゾロがキッチンで飲むときは、簡単なつまみを出したもんだ。
何を話すでもなく俺の後ろで一人グラスを傾けていたのが、随分昔のことのように感じる。



聞き慣れた靴音が近づいてきた。
思わず息を潜める。
静かに開いたドアから、長い影が滑り込んだ。
暗闇に俺の姿を認めて、ぎくりと歩を止める。
さすがにすぐ飛び出すのは気が引けるのか、突っ立ったまま動かない。

「グラス持って来いよ。いい酒あんぜ。」
瓶を振って見せる。
ゾロは立ち竦んだまま動かない。
俺が嫌いでも酒には弱いんだな。
やべえ、笑いそうだ。

意を決したように大股で近づいたかと思うと、いきなり瓶を引っ手繰ろうとしやがった。
あきれて物も言えねえ。
意地でも手を放すもんか。
「てめえ、いい加減にしろよ!」
ダンっと乱暴に置かれた瓶は赤い液体を溢れさせながらテーブルを転がった。
「何が気に入らねえのか、言ってみろ!」
このままじゃ、生殺しだ。
俺の剣幕に押されてか、ゾロは視線を落としてためらうそぶりを見せた。
―――らしくねえ。
「―――が・・・」
「あん、なんだって?」
「面が・・・気にくわねえ。」

はあ?

「面・・・かよ。そりゃあ仕方ねえ。直しようがねえ。こりゃあ生まれつきだ。」
っは・・・とんでもねえ言いがかりだ。
俺はゾロの襟元を掴んで引き寄せた。
「しょうがねえから見慣れろてめえ。どんな面でも見てりゃ慣れるぜ。」
鼻がくっつくほど顔を近づけてやる。
ゾロの顔が一瞬こわばって、目がぎらつく。
刹那、強い衝撃を受けた俺は壁に突き飛ばされた。
後頭部を打って、一瞬目がくらむ。
「むかつくんだよ!」
ゾロの罵声だけが遠くで聞こえる。
「てめえの面、見るだけで・・・むかつくんだ!」

「くそ・・・」
起き上がれない俺を置いて、ゾロは逃げるようにキッチンを出て行った。

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