Sacrifice 4

夜更けのラウンジで、一人ひたすらシンクを磨く。
キッチンに立っていると余計なことなど考えることはない。
磨けば磨くほど、隅々までぴかぴかになる過程は見ていて気持ちいい。
煙草を吸うのも忘れて夢中になっていると、背後のドアが静かに開いた。

大体この時間にふらりと現れるのはゾロだ。
いつものコースなら勝手にワインを抜き取って甲板辺りに出て行くのだが、今日はなんせ事態が違っている。
ゾロは無言でサンジの後ろを通ると、立ち止まって振り返った。

「・・・おい。貰っていいか?」
ウソップが改めて作ってくれたワインラックには3本しか入れてない。
さすがに気が引けたのだろう。
「あー、ナミさんがおっしゃるには、次の島まで近いらしいから、かまわねえぜ。」
今はとにかく、酒でもなんでも与えてとっとと目の前から消えて欲しい。
そう思うのに、ゾロは何を思ったかワインを持ってテーブルに着いてしまった。

適当に剥いて指でコルクを抉じ開け様ようなんてするから、つい見ていられなくて横から引っ手繰った。
「グラスを使えと何度も言ったろうが!」
この野蛮人と悪態を吐きつつ、ついセッティングついでにつまみまで用意し始めてしまう。
身についたコック魂が恨めしい。

目の前に皿を置かれて、ゾロは「お」と声を出した。
「すまねえな。」
あんまり素直にそう言われて、サンジはなんだか尻こそばゆくなる。
あの島を出てからずっとゾロに感じている違和感の正体が垣間見えた気がした。
なんと言うか・・・少なくとも今、ゾロは自分を敵視していない。
同じ船に乗り合わせたとは言え、基本的に反りの合わない喧嘩相手でしかなかったのに。
何故だろう。

ゾロは美味そうに酒を呷りながらふと視線を逸らした。
食器を片付けないまま休むのはポリシーに反するが、ゾロが何か言う前に立ち去りたくてエプロンを
外したが、それより先に声を掛けてきた。

「あの子は、どんな様子だった?」
「あ?」
咄嗟に頭が廻らず、素で聞き返してしまった。
「お前が助けた、娘だ。」
ああーと舌打ちしたくなる。
忘れろってのに、このマリモ頭は余計なことばかり覚えているのだろうか。
不愉快な表情を隠さずに、サンジはシンクに凭れて煙草を取り出した。

「そんなの、今更俺に聞いてどうするよ。どうしようもねえだろ。それとも何か?てめーはレイプされた女に興味があって、事細かに聞かせて欲しいのか。」
自分で言いながら、反吐が出そうになった。
マジでもう、勘弁して欲しい。

サンジの挑発的な物言いにも、ゾロは怒らない。
ただ静かに空のグラスを置いて、サンジを見上げた。
「てめえはガキん頃、髭のおっさんに助けられたんだろ。」
唐突に話がそっちに行って驚いた。
ゾロは、何を考えているのか。
「あのおっさんに恩があって、なかなかレストランから離れられなかったんだよな。てめえ。」
「・・・」
サンジは合槌も打てなかった。
ゾロの真意がわからない。
「俺は今まで、自分のしてきたことを後悔したことは一度もねえ。これからもねえと思っていた、
 けれど・・・」
苦そうに顔をゆがめ、グラスに酒を満たす。
「だが今回のことは、明らかに俺の軽はずみな行動が元凶だ。しかも傷付いたのは自分じゃねえ。そのことが、これほど辛えとは知らなかった。」
ゾロの口から「辛い」なんて言葉を聞くとは、思わなかった。
思わず目を見開いて顔を見てしまう。

「自分のせいで他人が傷付くことの痛さをはじめて知った。取り返しがつかねえってことも。けどてめえはガキだったし、あのおっさんは自分で選んでしたことだ。てめえが責任を感じることはねえと思う。それでも苦しんでるてめえの気持ちが、少しはわかった気がする。」

サンジはさっきからもうビックリの連続だった。
ゾロの独白は真っ直ぐすぎてあまりに真摯だし、そこに自分が引き合いに出されていたことにも正直驚いたまさか自分の過去をこんなきっかけがあったにしろ、気に掛けていたことも意外だった。
驚くと同時に、理不尽な怒りも沸々と湧き上がる。
誰かに負い目を感じたから、他人の痛みを重いものと知ったから、自分と同類と判断したのか。
同じ思いを抱いた仲間だと、見なしたのか。
島を出てからずっと、やけに親しげに接してきたのはこれだったのか。

怒りのあまり噛み締めた口から、フィルターが切れて煙草が落ちた。
だがゾロを罵倒しそうになる自分をぐっと抑える。
ここで自分が怒れば、辻褄が合わなくなる。
少女を助けた自分ならば、そうかてめえも人の痛みがわかるようになったか、と肩の一つも叩いて成長を褒めるか茶化すのが自然な流れだろう。
そう、少女を助けたのであれば。
傷つけられた本人でなければ。



血が昇った頭で、それでもサンジは冷静に考えをめぐらせた。
「殊勝な心掛け・・・ではあるが、てめえが気に掛けたってどうなるもんでもねえだろ。もう終わったことだ。」
だから忘れろ、とそう続ける。
自分に言い聞かせるみたいに。
だがゾロは首を振った。

「彼女は・・・ドーラっつうんだが、海洋学者の父親と調査船に乗って旅をしていると聞いた。広いグランドラインでそうそう出会うこともねえとは思うが、もし・・・もしもまた会うことがあったら・・・」
ゾロは口元を引き締めて、えらく真剣な目で手にしたグラスを見つめている。
「その時彼女が望んだなら、責任を取ろうと思う。」
ゾロの声は静かだが力強い響きがあった。
その意志の硬さがそのまま現れているようで、サンジは愕然とする。
こいつは本気だ。
カッコ付けとか奇麗事とかそんなんではなくて、真剣に。
サンジはこくんと唾を飲み込んで、口元に笑みを浮かべながら煙草を吹かす。

「そりゃあなにか?どう責任取るってんだ。結婚でもすんのか?」
「そうだ。」
即答されて咽そうになった。
マジなのか、こいつは。
「おいおいおい未来の大剣豪が何言い出すんだ。責任取って所帯持つって?そんでクラゲの生態でも調べるってのか。おい。」
ゾロは固い表情を崩さない。
「お前だって、おっさんに報いるためにレストランを手伝ってたんだろうが。なんとかブルーって奴を見つけに行く夢を諦めてでも、側にいようって思ってたんだろうが。」
サンジはう、と詰まった。
そうだ。
確かにそうだが、何かが違う。

「お、俺は元々料理人を目指してたから、ジジイの元で働くのに異存はなかった。けどてめえは違うだろ。女の為に剣を捨てるって、そういうこったろが!」
抑えていた怒りがまた込み上げてくる。
ここは、怒ってもいいと思う。
「大体そんなのはてめえの勝手な自己満足だ。彼女はそんなこと望んじゃいねえだろ。それどころかてめえの面あ見ただけで、やなこと思い出して苦しむことになるんだ。よしんばどっかで彼女を見かけたとしてもぜってー声掛けちゃなんねえ。ぜってーだ!」
興奮して途中で声が引っくり返ってしまった。
けどここはちゃんと言いくるめておかないと、それこそとんでもないことになる。
ゾロは珍しく反論もせず、相変わらずの生真面目な顔でサンジの言うことに耳を傾けている。

「・・・自己満足、か。」
「おうよ。責任取りゃあ、てめえの気が済むだけの話だ。それこそありがた迷惑じゃねえか。」
サンジは吸い殻を乱暴に灰皿に揉み消すとエプロンを置いて扉に向かった。
これ以上ゾロと話していると余計なことを言ってしまいそうだ。

「皿はシンクに置いておけ、別に洗わなくていい。」
「コック」
ゾロの声に、渋々振り向いた。
真っ直ぐな目でこっちを見て、ふと口元を緩めた。
「・・・悪りいな。」
その、ぎこちない笑顔みたいなものを見て、サンジは急に笑い出したくなった。

「言ってろ、馬鹿」
歪む口元を見られないように顔を背けて乱暴に扉を閉める。
いっそすべて笑い飛ばしてしまいたい。
情けなく凹むゾロも、いちいち動揺してあれこれ言い繕う自分も全部。

ゾロは、自分を同類だと見なしている。
たった一人秘密を共有する共犯者とも見ている。
だからあんなに親しげに、本音を曝け出して、サンジに語ることで無意識にでも自らの罪を癒しているのかもしれない。
けれど――――

「黙って聞き流してやれるどほど、俺も大人じゃねえんだよ。」
暗い海を眺めながらサンジは誰にともなく呟いた。





煙草の本数が増えた。
ラウンジに篭もる時間が長くなり、男部屋のハンモックで眠ることも殆どない。
一度夢で魘されて、目が覚めてから自分が何か口走っていないか心配になったからだ。
以来、キッチンの片隅で毛布を被って仮眠を取るようになってしまった。
今まで誰よりも遅く寝て早く起きていたから、サンジが男部屋で眠っていないことに誰も気付いてはいない。
だから表向きは、何事もない平穏な日々が続いている。

気がつけば、何も考えていないのにぼうっとすることが多くなった。
ウソップに見咎められて、蹴りで誤魔化す。
意識的に食事の量を減らしてみる。
空腹を感じれば、あの時の飢餓を思い出す。
そうすると孤独とか絶望とか、無力感とかそんなものが綺麗に蘇って、今の痛みを紛らわせてくれる。
自分一人が飢えていると思って、大切な恩人を殺そうとした自分の罪を強く意識して己を苛む。
そうすれば、今自分が置かれた立場も苦しみも扱く当然のものと思えて、納得できる気がする。

もしも、もしもだ。
繰り返し思うのは過去いくつもあった分岐点。
もしも自分がオービット号に乗っていなかったら。
もしもあの時、海賊に歯向かわずにキッチンで震えているだけだったら。
もしもあの嵐に飲み込まれてそのまま命を落としていたら。
もしもあの島で、自分に与えられた食料がすべてだったと気付いていたら。
もしも・・・

過去をなぞる思考は限りがない。
すべての分岐点で別の道を辿ってその先の未来を予測する。
死んでしまえば未来はないが、もしも違う道を生きていたら、何かが変わっていくだろうか。
ルフィと旅立たずにバラティェに残っていれば。
ドラムの雪山で打ち所が悪くて半身不随になっていたら、空島でエネルの船に乗ったまま月に
向かっていたなら、デービーバックファイトでデービーバックされていたら。
そこまで想像していくと、笑いが漏れてきた。
結構、面白い。

あの島で、あの店に入らなければ。
貝々ルーレットなんかに参加しなければ、女の悲鳴を聞いて助けにかけつけなければ、あのまま彼女を見殺しにして、身体が元に戻るまで時間を稼いでいれば―――――
あるいは。

想像するだけなら罪にはならない。
だからサンジは何度も繰り返し思い出す。
ロロノアの女だなんて名乗らないで、隣で犯される彼女の姿に目を瞑って、悲鳴に耳を塞いで自分の
体力が元に戻るのをひたすら待って・・・
そんな風にしてはいけなかっただろうか。
それとも、いくら女の身体だったからって手足を縛られていたからって、死に物狂いで抵抗したら、あんなことにはならなかったんじゃないか。
自分に隙があったんじゃないのか。
自ら進んで身体を投げ出す意味があったんだろうか。

いつもここで、サンジの思考は止まる。
女になっても代わらぬ脚力はあったはずなのに、押さえつける男の力に敵わなかった。
圧倒的な力の差。
体格の違い。
身動きの取れない恐怖心。
泣いても喚いても許されない屈辱。
腹の底がしん、と冷えてくる。
目の前が赤く染まるほど血が昇っていた脳内は、いつの間にか白く空っぽになっていく。
過ぎたことだ。
もう仕方がない。
全部終わった。
みんな死んだ。
なにもない。
もうなにもない。
誰も知らない。
すべて忘れろ。



ラウンジの片隅で固いイスに腰を下ろし一人、夜毎物思いに耽る。
表情の変わらぬ白い顔の下では、一時屈辱と羞恥と、怒りばかりが嵐のように渦巻いてサンジを打ちのめす。
それでも表情を崩さず荒れ狂う自分を自身で押さえつけ、すべての可能性を提示しては打ち消して、言い聞かせてきた。

そうして感情が落ち着いてきた頃、ゾロが静かにラウンジに入ってくる。
最近は酒もないのにこうしてゾロが側で過ごすことが多い。
今日も黙ってサンジの向かいに座り、入れ替わりに立ち上がったサンジが煎れるコーヒーを口にする。

サンジが嫌がるから、あの島での少女の話は口にしなくなった。
けれど、サンジに対する接し方が柔らかい。
昼間、いくら憎まれ口を叩いても、以前のようにムキになって怒らなくなった。
食事の時間に遅れたりしないし、気付いたことはなにかと手伝ってくれるようになった。
サンジに、気をつけているようだ。
同類として意識しているせいか、一方的な親しみを感じているらしい。

喧嘩腰にさえならなければ、ゾロは意外といい奴だった。
細かいことによく気がつくし、穏やかに話す言葉は心地良い。
時折、思い出したように故郷のことや子供の頃の話をされると、サンジもつい引き込まれて耳を傾けてしまう。
思いがけず訪れたゾロとのこの穏やかな時間は、サンジの胸に小さな痛みを伴いながらも
救いにもなっていた。







そうしているうちに、船は次の島に着いた。
比較的小さな島だった。
繁華街は島の中心地に一箇所で、回りはのどかな田園風景が広がっている。

「あ〜でもこんなとこは食材が豊かなんですよね〜v」
サンジは煙草を吹かしながら船縁から島を眺めた。
「この間買い付けしたところだから、それほど補給しなくても大丈夫でしょ。」
「ええ。まあ俺は最終日に市場辺りをぶらつけたらそれでいいですよ。こうのどかだとナンパの
 腕も鈍りそうだ。」
そう言ってにやんとくずれる笑顔も、心なしか力なく見える。
「サンジ君、船番なら私がするわよ。心置きなくナンパ行ってらっしゃいよ。素敵な子がいるかもしれないじゃない。」
「ありがとうございます〜vでも愛しいナミさんにそんな気を遣わしちゃあ男が廃りますって、今回は俺が船番してますよ。」
島に降りて暫く過ごせば気が紛れるかとも思ったが、どうも船を降りる気にはならなかった。
一人で暗い海面を睨んで、とことんまで落ち込んだ方がいいのかもしれない。
そう思ったからサンジは自ら船番を引き受けたのだ。

「じゃあ、明日にはルフィが交替に帰ってくるからね。」
「ナミさんたちも、どうぞ気をつけて〜v」
サンジは明るい声で皆を見送り、船に閉じこもった。





島に降りたクルー達は、港から市場を通り抜けて島の中心地へと歩く。
道すがら、ナミはゾロに話し掛けた。
「ゾロ、あんた最近サンジ君と大喧嘩しないのね。」
「ああ・・・そういやあ、そうかな。」
面倒臭そうに応えて、そうだな、ともう一度繰り返す。
「なんでかな、喧嘩にならねえな。」
「ちょっと元気ないでしょサンジ君。あんた何か気付いてるんじゃないの?」
「あ?そうか?そう言えば、突っかかってこねえような気もするなあ。」
ゾロはナミと会話しながらも、ついきょろきょろと辺りを見回しながら歩く。
心ここにあらずといった感じだ。
「何きょろきょろしてんのよ。」
「いや・・・」
ゾロらしくない歯切れの悪い口調に業を煮やして、ナミはピアスのついた耳を軽く引っ張った。
「どこ行くの、食事はこっちよ!」
「痛!なにすんだてめえっ」
皆で近くのレストランに入ろうとした時、目の前を通り過ぎた蜂蜜色の髪が視界に残った。

ナミに耳を引っ張られたまま、すごい勢いで振り向く。
「ちょっとどこ見てんの?」
昼時で混雑した街中を、確かに前に見た後ろ姿が紛れるように遠ざかっていくのが見えた。

一瞬、サンジに言われた言葉が頭を過ぎる。

いいか、どこかで彼女と再び出会ったとしても、ぜってえ声掛けちゃいけねえぜ。
てめえの顔を見て嫌な想いをするかもしれねえんだ。
ぜってーぜってーダメだからな。



だが、ゾロは殆ど無意識にその場から駆け出していた。

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