砂漠の薔薇 -6-


幸いその場ですぐに止血し、病院で手当を受けたため大事には至らなかった。
ただ、契約内容に保険は含まれていなかったため、診察代はすべて自腹。
労災の対象どころか、即日解雇されてしまった。
まさに踏んだり蹴ったりだ。



「畜生・・・」
自分の迂闊さを呪っても後の祭りだ。
サンジはズキズキと疼く右手を抱えながら、肩を落として家路に着いた。
麻酔が切れても痛み止めを飲むのは極力我慢しよう。
これ以上薬代が掛かるのは懐に痛い。
健康保険に入っていたからまだましだが、これからの消毒や通院の為の費用も馬鹿にならないし、下手をすると仕事に就かなかった方が、損害が少なかったかもしれない。
何より痛いし、料理ができない。


サンジはすっかり打ちひしがれていた。
誰を責めることもできず、ただ口惜しくて情けない。
みじめな気持ちで日の暮れた街角をトボトボと歩いていると、遠くに赤色灯がチラチラ回っているのが見えた。
事故でもあったかなと、その光に吸い寄せられるかのように歩を早める。
と言うか、それはサンジのアパートの前で回転していた。

「何事?」
つい声に出して立ち止まったら、アパートの管理人がサンジの姿を見つけて食いつかんばかりの勢いで駆け寄って来た。
「あんた、何処行ってたんだ。困るよ」
「え?困るって」
年に数回しか顔を合わせない管理人にいきなり詰られて、サンジは腕を抱えたまま目を瞬かせる。
管理人の後ろから迫ってきた警官が、サンジの包帯を目に留めた。
「どうしたのそれは」
「あ、いえこれはちょっと、出先で・・・」
就業中に怪我をしたと報告されては困ると、契約会社からは窓口サイドで口止めされている。
サンジとしてもこれで仕事が回ってこなくなったらお手上げだから、ことを荒げる気はなかった。

「あんた、なんかこっち系の人と関わりあったでしょ」
頬に指を当てて、管理人はやや興奮状態だ。
「え?こっち系?」
どっちだ?
「とぼけてんじゃないよ。最近クリーク組とアーロン組の抗争が激化してんの、知らない訳じゃないでしょ」
知らなかった。
パソコンはおろかテレビだってないし、携帯は仕事でしか使ってない。
ニュースを見る場所も時間もないのが現状だ。

「実は真っ昼間にこちらのアパートに銃弾が打ち込まれる事件が発生しましてね」
警官が徐に口を開いた。
「何か心当たりがあるのでは、とこちらからお聞きしまして」
「え、ええええっ」
サンジとしては寝耳に水だった。
そもそもギンのやや過剰な好意から生まれた単なる付きまといだと思っていたのに、まさか発砲事件にまで発展するなんて―――

少々どぎまぎしながらも、早口で否定する。
「俺はまったく身に覚えありません。関わりもないし、心当たりもまったく・・・」
「前から顔色の悪い変な人、ウロウロしてたじゃないですか」
黙れ管理人。
「この前はでっかくてバタ臭い顔の人が、あんた小突いてたでしょ」
見てたんかてめえ。
「いつだったか明らかにその筋の人が、ステテコ姿で蹴り出されてたし」
なんで知ってるっつうか・・・
「あれは学生ですよ、同級生です!」
サンジはそこだけムキになって反論した。

「まあともかく、銃弾が打ち込まれたのは壁で、貴方の部屋が狙われたとは限りませんね」
警官は大雑把に質問を終えると、別の住人に話を聞くべくさっさと立ち去ってしまった。
だが管理人はネチネチとサンジに言い募る。
「他にも年寄り世帯がいますし、別の棟には家族連れだっているんですから―――」
ただでさえ物騒な街なのに、これじゃおちおち夜も寝ていられないでしょ?
幸い契約更新の時期だし、今なら敷金の一部返還も考慮してあげるから。
だから――――

荷物をまとめてとっとと出て行けと、管理人は笑顔全開で宣言した。











「嘘だろ〜」


数時間後―――
結局ゴネることもできず、サンジは着の身着のままバッグ一つを抱えて、文字通り路頭に迷っていた。

右手の痛みは時間と共にどんどん酷くなってくる。
立春とは言え、まだ風は冷たい。
公園で野宿する訳にもいかず、とりあえずネットカフェに避難した。
早く傷を治して別の仕事を見つけたいが、このままでは満足に栄養を摂ることもままならないかも知れない。

「まいった・・・」
もう明け方の時間、サンジは椅子に蹲るようにして身を丸め寝転がった。
なんだかもう、色んなことが次から次へと起きて驚く感覚すら麻痺してしまったようだ。
将来どころか、明日をも知れぬ身になってしまった。
今度から、いや今日からこの先、どうしよう。
身体はくたくたに疲れていたけれど、傷が痛んで眠れない。
何度かウトウトと浅い眠りを繰り返し、どうにか身体だけは休めることができた。











時間だけはあるから、ニュースに気を付けるようになった。
組同士の抗争は警察の介入で沈静化に向かったようだ。
ネットニュースを見ていると、要領を得ないというか意味不明な報道もある。
「武力介入により二大勢力壊滅」って、これってどうよ?
一体どこの武力が介入して、この辺りを仕切ってた組織を壊滅させたって言うんだろう。
サンジは呆れながら画面をスクロールする。
逮捕者のリストに知った名前がないのにほっとした。
自分と関係ないとは言え、やはり気持ちのいいもんじゃない。

もしかしたら、ギンがまた詫びの一つでも言いにあのアパートを訪れているかも知れないが、もう自分の居所はわからなくなっているだろう。
何もかも、どうでもいいような気分になってきた。
こうしてヒト一人の存在がある日突然消えても、その内忘れられてなかったことにされてしまうのだ。
みんな自分が生きるのに精一杯で、人のことなんかかまけてられない。
そういう街だ。
そして俺は、多分いつかこの街に呑み込まれて消える。

それが宿命のような気がしてきた。
決して抗えない、けれどその日が来るまでは、せめて自分らしく生きていきたい。
どこか悟りの境地に到達したかのように、サンジの気持ちは落ち着いていた。




一度だけ、ネットカフェの2階の窓から、見知った顔を見つけたことがある。
交差点で信号待ちをする学生の群れ。
その真ん中に、色鮮やかな緑髪の男が立っていた。
傍らの友人らしき男に何度か頷き返し、時折り笑みを浮べている。
じじシャツ・ステテコではない、チェックのシャツにジーンズと言う普通の学生らしい格好。
なのにシャツの下に緑色の腹巻が垣間見えて、サンジは思わず一人吹き出していた。

ああ、ゾロ。
ゾロ、元気そうだな。
学校は楽しいか。
友達が一杯いるんだな。
随分ナイスバディなレディも仲間なんじゃないか。
これからコンパか?
日本には慣れたか?
なあゾロ
もう一度、俺の飯 食いてえ?

心の中で語りかけている内に、ゾロの姿は人ごみに紛れて消えた。
けれどサンジはずっと窓の下を眺めたまま、長い間動かないでいた。













昼間はなるべく図書館で過ごすようになった。
時間が来れば誰でも入れるし、長居をしても咎められない。
住所不定だから貸出はできないけれど、読むことは自由だ。
何より膨大な数の本が置いてあるから勉強になる。

家庭料理から理論まで、サンジはあらゆる分野を手にとって読んだ。
実際にはできなくても、頭の中で何度も手順をシミュレーションする。
いくら美味そうな写真を眺めていても、それほど空腹は感じなかった。
料理のことを考えていれば時間を忘れるし、将来のことを悲観する暇もない。
やはり自分には料理しかないのだ。
早く傷を治して包丁を振るいたいと、切実に願った。

だが、一度手当てを受けただけで、あれから病院には行っていない。
消毒もされない傷はあれからどうなっているのか、なんとなく見るのが怖くて包帯を解いてない。
何より、包帯自体が随分と薄汚れて臭いを放つようになっていた。
――― 一度は病院に行かないとな・・・
まだ口座に金はあるが、収入がないのだ。
どうしたって慎重になってしまって、金を使うことに躊躇いを感じてしまう。


視線を感じて、サンジはふと本から顔を上げた。
向かいの席の人や、今通り過ぎた人がこちらをチラチラと見ていたような気がする。
―――気のせいか?

また本に目を落とし、ふと顔を上げる。
今度は向かいの人と目が合った。
慌てて視線を逸らされる。

―――なんだ?
サンジはページを抑える右手を眺めて唐突に気付いた。
やばい・・・もしかして俺、臭う?


自分ではわからないけれど、もう1週間も風呂に入ってない。
春先とは言え日中は結構気温が上がるし、湿気も多い。
一応着替えてはいるがろくに洗濯もしないでローテーションだし、そう言えば髪の毛だって最近やたらと絡まっていた。

自分が“異臭を放つ存在”になっていると気付いた途端、居ても立ってもいられなくなった。
恥ずかしくて顔から火が出そうだ。
サンジは慌てて本を閉じると、書架に戻すのも忘れて立ち上がった。
擦れ違う人がみんな自分を見ているようで、顔を伏せて早足で歩く。

カウンター前を横切る時も、やっぱり強烈な視線を感じてしまった。
目を逸らせたら、「本日/返却日」の日付がふと目に飛び込んだ。

本日は3月2日。
ああ、今日は俺の誕生日だったんだ。
記念すべき20歳の誕生日を最悪な形で迎えたんだなと自嘲しながら、サンジは快適な図書館から足を踏み出した。






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