砂漠の薔薇 -5-


「お前もう、帰れよ」
風呂から上がってきたゾロの気配を背中に感じながら、サンジは振り返らないでそう言った。

「なんの酔狂か知らないけど、戻る家がないわけじゃねえんだろ。そりゃあ、慣れない異国でどういう経緯でかステテコ腹巻で街に放り出されたのは気の毒とは思うけどよ、たまたま目が合った俺についてくるのはともかく、居座ることねえじゃねえか。こんな狭いアパートでよ、いくらなんでも厚かまし過ぎらあ」
一組しかない布団を敷いて、サンジは膝立ちしたまま背後を振り仰いだ。
ゾロは、やはり感情を窺わせない無表情で髪をガシガシ拭いている。
「俺も、失業したしよ。正直金がないんだ。お前の面倒なんて見られないし、自分のことだけで手一杯で・・・」
情けなさに顔を歪めて、けれど毅然とゾロを見つめた。
「迷惑なんだよ、赤の他人が側にいるなんて。気持ち悪いじゃねえか」

当たり前のことを言っているだけなのに、なぜかサンジは歯切れが悪かった。
心の中ではちっともそんな風に思っていないと気付いているからだ。
人がいいにもほどがあると、自分でもわかっている。
だが、当てにはならない勘のようなものがゾロを信用できる人物だと判断していることや、飯を食わせてやることがちっとも迷惑だと感じてないことが、サンジに根拠のない確信を持たせてしまっている。
だからこそ、心にもない言葉をぶつけてみた。
言葉がちゃんと通じるならば、そしてゾロが常識ある人間ならば、この時点で引き下がるだろう。
だがここで意味が通じない素振りをして居座るならば、或いは自分の勘を疑ってでもゾロを警戒しなければならない。

サンジの決意を知ってか知らずか、ゾロはやや困ったような表情を見せた。
そっと腰を折り膝を着く。
てっきり土下座でもされそうな動きで、サンジは反射的に腰を浮かした。
と、ゾロの手がサンジの肩に触れる。

「へ?」
あろうことか、そのまま身体を寄せてきた。
石鹸の匂いが鼻先を掠め、湿った髪が頬を撫でる。
「へ?え?え?」
不意を突かれて抱き締められて、サンジは毛布の端を持ったままぱちくりと目を瞬かせた。

ちょっと待て、この行動は予測不能だろ?
慌てて押し退けようとするのに、ゾロの腕ががっちりと拘束するように力をこめて抱き締めて来て、身動きすらままならない。
風呂上りの体温は湯たんぽのように温かく、少し冷えたサンジの身体を暖めてくれる。
久しぶりに感じた人肌に、うっかり馴染みそうになってサンジは慌てて腕を突っぱねた。
「ちょっと待て、いきなり何を―――」
背中に回されたゾロの手が、軽く薄い背中を叩く。
「マーレッシュ」
その動きはゆっくりとして、まるで幼子をあやすかのように優しい。
穏やかなぬくもりと力強さに、何故かひどく安心できた。
目の前に覆い被さる広い肩に、うっかり首を傾けそうになってしまって、サンジは思わず首を振った。
「だって、もうほんとに、金が、ねえんだ・・・」
別に本気で追い出したいとか思ってるわけじゃない、ただ、どうしたってこのままじゃ生活できない。
「俺だって、お前に飯食わせるの楽しいよ。気持ちよく食ってくれるもん。すげえ作ってて嬉しいし、だけど、もう―――」
金もないし、仕事もない。
この先、どうやって暮らしていったらいいのかさえ、わからない。
自分の将来が、何一つ見えない。

思いがけず自分を包んだ暖かさに、サンジは流されそうになってしまった。
愚痴を言ったって仕方がないことなのに、何もかもぶちまけてしまいたくなる。
ずっとずっと、一人で生きてきた。
唯一の肉親を失ったあの日から、色んなモノがサンジの前から姿を消していったけど、それでも自分だけは見失わないようにと歯を食い縛ってでも生きてきた。
けどもう、限界かもしれない。

「金がないし、仕事もないし、俺なんて、いなくたって別にいいし―――」
ゾロの手が、ぽんぽんとサンジの背中を撫でる。
大きくて分厚い、幅の広い掌だ。
撫でられた部分がじんわりと熱を帯びて強張りを溶かしていくようで、身体も心も弛緩して行く。

ああ、人恋しかったんだなと、どこか頭の隅で他人事のように気が付いた。
もしかしたら、ギンでもよかったのかもしれない。
タイミングの問題だろうか、数ヶ月前から知っていたギンじゃなくて、昨日であったばかりの得体の知れない男にこんなに気を許してしまうなんて。
俺はやっぱり、緩いのかなあ。



ゾロのじじシャツに目元を押し付けて、ごしごしと首を振った。
別に酒を飲んだわけでもないのに、なんだか酔っ払ったみたいだ。
「悪い、あんたにゃ関係のない話だ」
サンジは俯いたまま、そっとゾロの身体を押し退ける。
今度はゾロは、素直に身体を離した。

「あんたに愚痴ったって仕方ないのにな、悪い・・・」
サンジは俯いて照れ隠しに笑った。
「あんただって学生だしな。さっき学生証見ちまったんだ。お前老け顔なのな〜」
サンジの失礼な物言いにも、ゾロはむっとしたりしない。
「俺とタメじゃん、わかるか?俺も来月の2日にゃ20歳になるから、同い年なんだぜ」
ほんの少し、ゾロの片眉が上がった。
「学生でもプーでもさ、まだガキなのは変わらないよな。人生そうそう上手く行くもんじゃねえしさ。身体が丈夫なだけ儲けもんだ、また頑張るさ」
散々弱音を吐いたお陰か、サンジは憑きものが落ちたかのように晴れ晴れとした気分になった。
対してゾロは、なにやら胡坐を掻いたまま膝に肘を着いて考え込んでいる。

徐に腹巻の中に手を入れると、先ほどとはまた別のパスケースを取り出した。
どんだけ入ってるんだと注視するサンジの前で、黒いカードを手に取る。
すっと目の前に差し出されたそれを、サンジはまじまじと眺めた。

なんだろう。
見たことない色だけど、この彫像の顔みたいな柄には見覚えがあるな。

何かはわからないが、クレジットカードだということはよくわかった。
それで?と問うつもりで目を上げると、ゾロが真一文字に口を引き結んだまま真剣な眼差しで見詰めている。
思わず受け取ると、また大きく頷いた。
そうしておいて、今度は馴れ馴れしくサンジの肩を抱いてきた。
同じように穏やかに叩いて見せるが、今度はどこかゾロの掌がじっとり汗ばんで感じる。
そのまま身体を凭せ掛けるようにして傾けてくるから、サンジは畳に手を着いて踏ん張った。

「・・・ちょっと待て」
鼻がくっ付きそうなほど近くまで、ゾロの顔が迫っている。
「待てよお前、俺にこれくれて、その代わりその・・・なんだ?」
しどろもどろになるサンジの、両肩をゾロががっと掴んだ。
そのまま真後ろに倒れそうになる。
「なんだ?つか、何か?俺になんかしようとか、してる?」
がくんと肘が折れて体勢がさらに低くなってしまった。
これは明らかにゾロに押し倒されている。
「ふ・・・ざけんなぁぁ!」

ドカンと派手な音を立てて、ゾロの身体がドアに叩きつけられた。
ノブの外れた扉はそのまま豪快に開き、そのまま戸外へ転がり出る。
ゴチンと手摺りに頭をぶつけた音まで聞こえたが、サンジは怒りに全身を戦慄かせていてそれどころではない。
「この野郎、ふざけやがって!」
肩で息をしながら、サンジはカードと玄関に置いてあった靴を拾って、呆然と見上げるゾロに投げ付けた。
重い靴はゾロの頭を掠めて手摺りに当たり、バラバラに跳ね返る。

「俺はなあ、いくら落ちぶれたって金で自分売ったりしねえんだよ!」
口に出して言えば、余計情けなさが募った。
「そんなつもりでお前拾ったんじゃねえ、二度と面見せんな勘違い野郎!」
最後は声が上擦ってしまって、それを誤魔化すために自分の表情を隠すようにして勢いよく扉を閉めた。
ドアノブどころか蝶番までイカれてしまったようで、ドアはやや傾いた状態で壁に張り付いている。

サンジは上がりかまちに蹲って、頭を抱えてじっと歯を食いしばった。
薄い扉の向こうで、ゾロが起き上がる音がする。
鍵は壊れているのだ。
いくらサンジが追い出そうとしたって、扉を開けて乗り込んで来るのは容易い。
もしまた家に上がりこんで来たら、そしてゾロが本気でサンジに襲い掛かってきたなら、もう抵抗することはできないと思う。

耳に腕を被せていても、背後の気配は感じ取れた。
靴を履いたゾロが、ゆっくりと踏み締めるように歩き出す。
その音は徐々に遠ざかり、やがて階段を下りる鉄の音を響かせて消えた。

―――行っちまった・・・
サンジは頭を抱えたたまま、詰めていた息を吐き出すことができなかった。

行っちまった。
ほんとに、行っちまった。

サンジは立ち上がり、部屋の中を見回した。
ゾロが残して行ったものは、サンジのスウェットと空き缶だけ。
追い掛けてせめてゴミは持ち帰れくらい文句を言ってやってもいいが、それはさすがにあんまりだろうと思う。
忘れ物一つ、ない。
そもそも、何も持たずにやってきて、散々飲み食いして出て行っただけのことだ。

サンジはそっとドアを開けて、外の様子を窺った。
目の前の手摺りがほんの少し曲がってしまったくらいで、後はなにも変わりがない。
ゾロの、ほんの少しスパイシーな残り香さえ、風に吹かれて消えてしまった。








翌日、サンジの携帯に仕事の依頼が入った。
内容は下請け企業での部品組み立て作業。
食品以外に手を使う仕事は避けたかったが、背に腹はかえられない。

街から少し離れた職場で、サンジは黙々と働いた。
できる仕事があるのは有り難いし、僅かとはいえ収入があるのが心強い。
新しい職場はおいおい探して行けばいいだろう。
今はただ何も考えず、手を動かしている方が気が楽だ。

一日中立ちっ放しで単純作業を繰り返すと、帰宅する頃には身体がくたくたになっている。
体力には自信があったが、疲れるポイントが違うのだろうか。
家に帰っても食事を作る気力すら残らなくて、サンジはコンビニの袋を提げてとぼとぼと暗い夜道を一人で歩く。
見慣れたアパートの階段下、街灯がちらちらと瞬く角に人影がないか、いつの間にか目で探している自分がいた。

最近やたらと思い出すのは、ゾロと二人で買い物したことや一緒に食事をしたことばかりだ。
襲われ掛けて蹴り出したのは、前の職場の先輩の時と同じなのに、なんでだかゾロのことは忘れられない。
馬鹿にしやがって、とか思う。
人の弱みにつけ込んで、金をチラつかせて関係を迫ったようなものなのに、理屈で思うほどに怒りが湧いて来ない。
どちらかと言うと、惜しいことをしたとかさえ感じている。
ゾロの眼差しとか温もりとかに心を残して、同情以上に親身になってしまった自分の行為を正当化させる理由が見付からないのだけれど。
いや、見つけるのが多分、怖いのだ。
認めてしまったところで、ゾロはもう帰ってこない。
元々、ゾロが帰る場所はここじゃなかった。
気まぐれに立ち寄っただけのこと。
あんな風に手酷く拒絶して蹴り出したなら、普通はもう近寄りもしないだろう。

サンジは後悔していた。
後悔する自分を叱咤し詰り嘲り責めても、この気持ちは消えない。
認めるのは癪だけれど、理屈で済まない感情は確かに存在する。

相手が男であろうとも、得体が知れなくても、外国人でも、言葉が通じなくても一目惚れってのはほんとにあるんだと、サンジは思い知った。






遅まきながら自覚した初恋に戸惑いながら、サンジは他になす術もなくただ働いた。
一緒に働く同僚とも呼べる人達は、サンジの派手な外見を敬遠するのか話し掛けてもろくに返事してくれない。

慣れない作業と馴染めない雰囲気の中で、サンジはある日ミスをした。
右手の親指の付け根に裂傷を負ったのだ。



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