砂漠の薔薇 -3-


サンジが後片付けをしている間、ゾロは物珍しそうに畳の上に寝転がったり押入れを開けたり締めたりしていた。
他人に部屋の中をゴソゴソされるのは気分がいいものではないが、何か大事なものがある訳でもないので放っておく。

その内、ゾロは勝手に冷蔵庫を空けて発泡酒を取り出した。
繁々と眺めてからサンジに軽く掲げて見せる。
「どうぞ」
食べ物は毒見させたくせにアルコールは自力で探すのかと思うと、腹が立つより可笑しくなった。

発泡酒は、前の職場の先輩がサンジの部屋に飲みに来た時、持ち込んだままのものだ。
しこたま飲まされて酔い潰れたところをいきなり襲われたから、手加減(足加減?)せずに蹴り出して、結局その店もクビになった。
先輩が振られた腹いせに、あることないことオーナーに訴えたせいだ。
その前の店では、現金ネコババの濡れ衣を着せられたんだったっけ・・・
過去の嫌な思い出がいきなり次々と甦ってきて、サンジは溜め息を吐きながらきゅっと水道の蛇口を捻って止めた。

振り向けば、卓袱台の上には幾つもの発泡酒の空き缶が転がっている。
そして最後の一缶を、名残惜しそうに仰向いた口の上で逆さに振っているゾロ。
「・・・ぷっ」
溜まらず噴き出したサンジを、ゾロはきょとんとした顔で見上げた。
でかい図体して、まるで悪戯したこともわからないガキみたいだ。
「すげえな、全部飲んじまったんだな」
冷蔵庫を開ける度に思い出して腹が立ったのに、結局飲むことも捨てることもできなかった発泡酒を飲み尽くしてくれたことで、妖しい腹巻男を拾ってよかったなんて少し思ったりもした。



とは言え、いつまでも家に置いておけるものでもない。
間もなく出勤の時間だし、得体の知れない男を留守番に置いておくほどサンジも無用心ではないから、ジェスチャーで退出を促す。
「俺、これから仕事行くから。お前出て行け」
どこまで通じたかわからないが、ゾロはのそりと立ち上がった。
「スウェットはお前にやるよ。でも腹巻で革靴なのな、おかしいぞ」
サンジのからかいも意に介さないで、ゾロは先に立って玄関を出ると、そのままドアを押さえてサンジが出るのを待つ。
やけに慣れた立ち居振る舞いで、どことなく気品がある・・・気がする。
「なんか、レディファーストが板に着いてるみてえだなあ」
生憎自分はレディではないが、ゾロのスマートな所作には好感が持てた。

「んじゃな、また縁があったらどっかで会おう」
錆びた階段を降りきると、サンジはゾロに向き直って手を振った。
ゾロはわかっているのかいないのか、うんと大きく頷くとそのままきびすを返す。
振り返ることもなく真っ直ぐ歩き去っていくのを確認して、サンジは安心して職場に向かった。












「はい?」
「だから、もう来なくていいっつってんの。あんたクビ」

誰より早く出勤して掃除を始めていたサンジに、オーナーは無情に宣言してくれた。
「な、なんで?」
「こっちが聞きたいよ」
オーナー曰く、寝入り端に恐喝電話がかかって来たらしい。
「サンジをクビにしなきゃ店に火をつけるってさ。火つけられちゃたまんないから、悪いけどあんたクビ」
そう言われては、サンジに反論などできる余地もない。
「・・・長い間、お世話になりました」
「今月分の給料は、ちゃんと月末に口座に振り込むからね。お疲れさんでした」
大して惜しむでもなく軽い感じで送り出されて、勝手口から足を踏み出したら強い勢いで扉を閉められた。
まさに締め出された形だが、これ見よがしに塩を撒かれなかっただけでもマシだろう。

「あー・・・なんてこった」
文字通り頭を抱えたくなって、サンジは汚れた壁に寄り沿うように凭れ煙草を咥えた。
よく考えたら今はまだ月始めだ。
今月の給料もクソもないし、月末まで待ってる余裕なんてない。
「参ったな・・・」
すぐにでも次の仕事を探さなきゃならないが、この界隈で飲食店を当たるとなると、またギンが動かないとも限らない。
とは言え、この街から離れる気力も資金もあるでなし―――
「・・・参った・・・」

祖父が突然死してから2年。
一人で何とか頑張ってきたけど、そろそろ限界だ。
どれだけ頑張って真面目に働こうとも、若いから軽く見られるし使い捨てみたいに扱われる。
誰かに頼りたいけれど信用できる大人はいないし、心許せる友人も恋人もいない。
この街では誰もが孤独で狡猾で、互いを疑い牽制しながら馴れ合って暮らしている。
そんな器用には生きられないから、サンジは何処に行っても馴染めなくて生き辛いのだ。
「―――疲れた・・・」
いっそ悪い仲間の誘惑に乗って自堕落に過ごすか、それともギンの元に身を寄せるかしかないだろうか。
楽な道を選ぶのことは決して逃げじゃないと知っているけれど、それでも心のどこかに抵抗感があって踏み切れない。
死んだジジイにも世間様にも顔向けができない、何より自分自身に後ろめたい生き方は、やっぱりしたくないから。
「くそったれめ」
サンジは携帯を取り出して、久しぶりに日払いのバイト登録をし直した。





結局その日は仕事にありつけなくて、半日街をぶらついただけでアパートに戻ってきた。
街灯が灯りはじめた路地を歩くと、どこからか食事の匂いが漂ってくる。
食卓を囲む時間なのだろう。
今まで昼夜が逆転していた生活が続いていたから、なんとなく変な感じだ。

口座引き落としのための貯金があるとは言え、このままではすぐに底をつく。
家財道具がある訳ではないが、一旦アパートを出てしまうとその後の人生の転落が目に見えるようでそれだけは避けたかった。
なるべく食費から切り詰めて、仕事がない日は極力出歩かないように省電力モードに入ろうか―――
なんてことを考えながらアパートの階段に一歩足を掛けたら、影から男が姿を現した。

相変わらず顔色の悪い、少し猫背の立ち姿。
つい、うんざりとした表情を露わにして、サンジは気だるげに首を傾けた。
「・・・ギン」
「すみません、サンジさんっ」
ギンはその場で土下座しそうな勢いで、頭を下げた。
「うちの若いもんが先走ったことしやがって、サンジさんにご迷惑を・・・」
「もういいよ。済んじまったこたあ仕方ねえ」
そう言ってカンカン音を立てて階段を上がろうとして、手首を捕まれる。
「待ってくれサンジさん、けど、あんた困ってんだろう」
「そりゃそうだ、てめえだってわかってんだろ」
サンジは苛々とタバコのフィルターを噛んだ。
とりあえず、禁煙から始めなきゃなと思い立ち、そのことがさらにサンジを苛立たせる。
「せっかくまじめに勤めてた職場も追ん出されたんだ、他に行く当てはねえしよ。だからって、てめえの世話にはならねえぜ、絶対」
こうなったら意地でもギンに頼るまい。
そう決意するサンジに、ギンは益々済まなそうに身体を竦めたが、それでも掴んだ手は離さなかった。
「こうなったのも、元はと言えば全部俺のせいだ。余計な真似しやがった連中は俺がこの手でちゃんと落とし前つけたから、もうあんたに迷惑掛けるこたねえよ」
サンジの前ではしおらしいギンだが、その実態はクリーク組の若頭にして「鬼神」の異名を持ち恐れられている。
そんな彼が自ら手を下したのなら、パール達は無事ではいられまい。
「ギン・・・」
サンジはフィルターを噛んだまま顔を顰めた。

この男の、あまりに直向な一途さは危険だ。
ことサンジに関しては盲目的になるのか、常軌を逸した反応を示す。
「てめえに降りかかった火の粉くらい、てめえで払う。それはギンが手え出す問題じゃねえよ。人の話に首突っ込んで来んじゃねえ」
「元はと言えば俺が蒔いた種だ。俺が、あんたをしつこく誘ったりしたから・・・」
「わかってんなら、これ以上俺に近付くな。てめえは俺に、迷惑しか掛けねえじゃねえか」
ズバリと言ってやった。
ギンの紳士的な態度にやや絆されかけてはいたものの、いつまでも甘い顔をしていて期待を持たせる方がギンのためにもよくないと思う。
「そう、そうだな・・・」
サンジの台詞を受けて、ギンは悄然として項垂れた。
だが掴んだ手は離さない。
「わかってる、わかってるよサンジさん。あんたにとって俺は疫病神だ・・・」
「いや、なにもそこまで・・・」
ここで情けを掛けては元も子もないのに、つい呟いてしまう。
「わかってんだサンジさん。あんたはただ、優しいだけだ。俺じゃなくても、その辺で泣いてる犬でも猫でも、ガキでもじじいでも、腹が減ったら食わせずにいられない性分なんだろ。俺だけが特別じゃなかった。そのことは、よくわかってんだ」
そう言って、サンジの手首を掴む指に力を込めた。
「わかってるから、だから、敢えて俺は望んじまう」
「ギン?」
ギンの様子が変だと気付いて、サンジは改めて腕を引いたが、恐ろしく強い力がそれを許さない。

「サンジさん、あんたの飯を、俺だけに食わせてくれ」
きっと顔を上げたギンの双眸は強い光を湛えて、まっすぐにサンジを見詰めている。
「俺のために、俺だけのために、飯を作ってくれ」
一語一語区切るように、ゆっくりとはっきりと、ギンは言葉を発した。
会社帰りの若いサラリーマンが、小さく口笛を鳴らしながら通り過ぎていく。
塾帰りの子どもを連れた母親は、「見ちゃいけません」と早足でその場を去っていった。

「・・・へ?」
階段の1段上から、サンジは呆然とギンを見下ろした。
ええとこれはなにか?
専属シェフの、依頼?
「や、でも俺はクリーク組と縁とか結びたく、ねえから・・・」
「組は関係ねえ」
続けて話そうとしたサンジの台詞を、ギンはきっぱりと遮った。
「俺個人として、サンジさんに飯を作ってもらいたい。一生、あんたの飯を食って生きたい。そのために組を抜けろってんなら抜ける。堅気にだってなれる。あんたのためなら」
「いや、そんな・・・」
えーと
えーと
えー・・・?
なんかこれって、プロポーズっぽくね?

その場に不似合いな単語が脳裏に浮かんで、サンジは慌てて首を振った。

いやいやいや
なに考えてんだ。
俺もギンも男だっての。
俺のために組抜けるって、一生飯を作ってくれって、そんなのまるで―――

混乱して動転して、サンジはともかくへらりと笑った。
「や、そんな深刻にならなくても、飯ならいつでも作ってやっから・・・」
「いつでもじゃねえ、ずっと側で、だ」
なお言い募るギンの瞳はどこまでも真剣だ。
「あんたのための店なんか、もうどうだっていい。そんなの建前だ。俺はあんたが欲しい。あんたが側にいて欲しい。俺のために生きて欲しい」

ギンの言葉を何度か頭の中で反芻した。
何度反芻しても、同じ意味でしか聞こえない。

「え?えええええっ?」
「サンジさん、俺が嫌いか?」
「いやだから。好きとか嫌いとか、そういう問題じゃねえんだよ」
「俺はサンジさんが好きだ」
きっぱりと言い切られ、サンジは思わずよろけて錆びた手すりに凭れかかった。

ちょっと待て。
もしかして俺って今、追い詰められてねえ。
つかこういうのを、のっぴきならねえ状態って言うんですか?
現実逃避を始めたいサンジだが、血が止まるほどに強く掴まれた手首の痛みがそれを許してくれなかった。

「サンジさん、俺のものになってくれ」
うわあ

サンジはほとほと困ってしまった。
無論、野郎のモノになるなんて真っ平ごめんなのだけれども、ここでギンを蹴り落とすのは簡単だが正直そこまでする理由がない。
サンジには恋人がいないし。
職もないし金もないし、身よりもない。
ないない尽くしの、何のとりえもない俺を、ギンは本気で欲しがっている。
組を抜けても、堅気になってもいいって思いつめるくらい、求めてくれている。
そういうのって、やっぱちょっと、絆されねえ?
って、誰に聞いてるんだ誰に。

サンジは手すりに肘をついて額に手を当てた。
落ち着け、冷静になれ俺。

「サンジさん・・・」
ギンはサンジの手を掴んだまま一段階段を上がった。
サンジは後退るようにもう一段階段を昇る。

「ダメだギン。悪いけど、あんたの誘いには乗れない」
「やっぱり、俺みたいな極道じゃだめか?」
眉を寄せて眼を瞬かせて、まるで捨てられた子犬みたいに哀れな目で見上げてくる。
やめてくれ、俺はそういう目に弱いんだ!

「極道だからとか、そんなんじゃなくて・・・やっぱ、俺ら男同士だし・・・」
「性別なんてたいした問題じゃない。俺にとってサンジさん、あんたが側にいてくれるだけでこの上なく幸せなんだ。なあ、サンジさん・・・」
ギンはすうと表情を緩めて、あどけないとも見える無防備な顔になった。
「俺を、幸せにしてくれないか」

うっわ〜〜〜〜〜
サンジはその場でへたりそうになった。

普通なら「ふざけんな!」と蹴り倒してもおかしくない台詞なのだが、これこそサンジのウィークポイント。
誰かを腹いっぱいにしたり幸せにしたり、そういうことこそサンジが一番したいことだったりする。
幼い頃に自らの不甲斐なさと世間の非情に曝された経験があり、まるでそのことがトラウマになったかのように、必要以上に人に対して尽くす性癖が生まれてしまった。
誰かを喜ばせて、楽しませて、幸せにしてあげたい。
それこそが自分の存在意義であるかのような、翻ればただの自己満足でしかない奉仕精神がサンジの根幹となってしまっている。
今その根元が見事に揺さぶられた。
いかん、このままでは絶対にいかん!
そう思うのに、断る理由が見付からない。

「サンジさん・・・」
ギンがまた一段階段を上がり、もう片方の手でサンジの肩を掴んだ。
眼を合わせたらやばい。
そう思うのに、視線が勝手に上がってしまう。
その刹那―――

ガチャリと無粋な音がして、2階の部屋の扉が開いた。







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