Bon appetit!  -人買いと火を噴く竜のおはなし- 2


繁華街の中心地で宿を取った。
表の賑わいを窓の下に見下ろしながら、サンジは桟に腰掛けて足をブラブラさせている。
「結構遅くまで、人が歩いてるもんなんだな」
「まだ宵の口だろ」
先にシャワーを浴びて来たゾロが、身体を拭きながらベッドに腰掛けた。
ぎしりと凹んだ白いシーツに目がけて、サンジもジャンプする。
固めのスプリングに弾かれてよく跳ねた。
「うひゃっ」
「遊んでと落っこちるぞ」
ぽよんぽよんと2度跳ねたところで、パシッと受けとめられる。
そのまま風呂場に持って行かれ、湯を張った洗面器の横に置かれた。
「湯加減どうだ?」
「まあ、いいけど…」
しゃがんでじっと見ているゾロを、しっしと足で追い払う。
「風呂入るんだから出てけ」
「溺れたりすんなよ」
「するかボケ!」
どこまで心配性なんだと悪態を吐きつつ、ドアが閉まるのを待った。

なんのかんの言いつつも、こうしてドアを閉められると自分で開けるのは困難になる。
結局なにもかもにゾロの手を患わせるのだなと思うと、なんだか遣り切れない。
気を取り直して、服を脱いで洗面器の湯を浴びた。
久しぶりの風呂は気持ちがいいが、着ている服は随分くたびれて来た。
どこかで新調したいが、作ってくれそうな店は見つかるだろうか。
なんてことを考えながら、巨大石鹸に抱き付き手早く身体を洗う。
洗面器の縁から滑り落ちないよう、慎重に湯に浸かった。
城ではサンジ専用のミニチュア猫足バスがあったが、ここではそんな快適さは求められない。
なんでも一人でできるようにならなくてはと、決意を新たにしながら湯船に浸って目を閉じる。
と、おもむろにドアが開いた。
サンジは慌てて、首まで中に引っ込んだ。
「なんだ?」
「タオルだ」
ゾロが持って来たハンドタオルを素早く受け取り、洗面器から上がると同時に身体に巻き付ける。
「もっとゆっくり浸かってりゃ、いいぞ」
「いらねえ、のぼせる」
ゆっくり浸かってたら、その間じっとゾロが待っていそうで落ち着かない。
「なんでそう、隠したがるんだ」
「俺は人前で裸晒す趣味はねえ」
実際サンジは、なんでも自力でできるよう環境を整えられていたし、躾もされてきた。
だから、家族以外に肌を見せることも医者以外にはない。
小さい身体へのコンプレックスも相まって、極端に嫌がっている。
「いいけどよ」
ドアを開けっ放しでゾロが出て行ってくれたから、サンジはその隙に急いで服を着た。

「夕飯どうする?」
「なんか買って来るか」
再び窓の桟に腰掛けて、外を眺めた。
すっかり夜も更けて、往来を歩く人影はまばらだ。
しかも男ばかり。
「買って来てくれると助かる」
「じゃあ待ってろ」
そう言ってゾロは部屋の外に出て行った。
パタンと扉が締まり、階下へと降りる足音も遠ざかって行く。

しんと静まり返った部屋で、サンジはしばらく窓の外を眺めていたが、その内少し蒸し暑くなって来た。
風呂上がりのせいかと思いつつ、窓でも開けようとカーテン伝いに窓枠へとよじ登る。
鍵は掛かっておらず、手で押せば少し開いた。
けれど蝶番が軋んで、それ以上は開かない。
面倒くさくなって足で蹴り付けると、パコンと開いた。
「開け過ぎたか」
どうやって閉めようかと、窓枠から身を乗り出したサンジの頭上に、大きな黒い影が過った。


     * * *



いつもは食堂で適当に食事を済ませ、買って帰るものは酒くらいしかないゾロは、慣れない惣菜売場の前であれこれと悩んでいた。
なにがいいかわからないし、どれくらいの量が必要かもわからない。
コックの小さな口でも食べやすいもの、少しでも栄養になりそうなものと、あれこれ迷いつつ、デザートコーナーでも足を止めた。
―――こういうのも、好きそうだ。
珍しく品定めしているゾロの頭上で、一匹の黒猫が金色の何かを咥えて屋根の上を走り去っただなんて、気付きもしなかった。

「クソっ離せ!」
いくら手足をバタつかせても、襟首を咥えた猫には届かない。
サンジはなす術もなくぶら下がりながら、眼下に過ぎ去っていく屋根を信じられない思いで見つめていた。
ゾロの傍からどんどん離れてしまう。
このままでは、本当にはぐれる。
「くそう、ゾロ!」
精一杯伸ばした足が、猫の首元に下げられた鈴に触れた。
飼い猫だろうか。
野良猫に攫われたより、マシなんだろうか。

不意に立ち止まった猫は、くるりと方向を変えて狭い木戸を潜り抜けた。
空気が温かくなり、室内に入ったのだと気付く。
「クロ!またなにか捕って来たの?」
少女の声がして、サンジは柔らかなシーツの上に放り出された。
「わ!」
「きゃっ」
コロンと一回転して起き上が、サンジは顔を上げた。
正面には幼い少女がいて、サンジを見つめ目を丸くしていた。
「クロ、なあにこれ?」
「ンナァン」
呑気に鳴き返す猫をひと睨みして、サンジはその場で膝を折った。

「驚かせとごめんねレディ。俺はサンジ、君の小さなプリンスさ」
「プリンス?」
少女はしばらくしげしげと見入っていたが、ひゅうと息を吸い込んで大声を出した。
「お母さん!クロがなにか拾って来ちゃった」
「いや、なにかってプリンスだって」
止める間もなく、ドアが開いて女性が入って来る。
「どうしたの、またネズミ?」
箒と塵取り持参の母親は、ベッドの上に座っているサンジに目を丸くした。
「おやまあ、なんだいこれは」
「こんばんはマダム、貴女の小さなプリンスです」
困り果てたサンジは、苦笑いしながら再び自己紹介した。

「すごいねえ、ちゃんと動いて喋ってるねえ」
「お母さん、それ私のプリンスよ。貸して」
二つの手で持ち上げられたりひっくり返されたりしながらも、女性相手だからさしたる抵抗もできず、サンジはされるがままだ。
「プリンスちゃん、私のお友達になって」
「もちろんだよ、リトルレディ」
取り敢えず、箒で掃き出される恐れはなくなり、サンジはほっと息を吐いた。
よく観れば、少女はベッドに座ったきりだ。
もう夜だから眠るためかもしれないが、それにしてはあれこれと母親に物を言い付けてばかりいる。
「プリンスちゃんと一緒に寝るから、お人形さんのクッション取って来て」
「お前と一緒に寝たら、プリンスちゃん潰れちまうよ。お人形さんのベッドに寝てもらおうね」
母親はそう言うと、少女の額にそっとキスして布団を着せた。
「もうお休み。また明日」
「プリンスちゃんは?」
「ボクももう寝るよ、お休みレディ」
屈み込んで少女の手の甲にチュッとキスをすると、少女は大切そうにその手を組んだ。
「お休みなさいママ、プリンスちゃん」
「お休み」
母親はそっとサンジを持ち上げ、灯りを消して部屋から出て行った。



あかぎれだらけの指は、氷のように冷たくてカタカタと震えていた。
恐らくは、素早く飛び出せば容易く逃げ出せるだろう指の檻から、サンジは敢えて脱出しようとは思わなかった。
大人しいサンジを潰さないよう、しっかりと手を合わせ、母親は、階段を降りる。
キッチンへの扉を肘で開けて、あんた!と短く呼んだ。
勝手口で疲れたように座り込んでいた男が、驚いたように顔を上げる。
「なんだ」
「あんたっ見て」
ブルブル腕を震わせながら、母親は手にしたサンジを男に見せた。
「…なんだ、これは」
「クロが拾って来たんだよ、ちゃんと喋るし動くんだよ」
サンジにしたら甚だ失礼な表現だが、女性が言うから文句は出ない。
「生きてる、のか?」
「言葉も話すよ、とってもいい子…」
胸に押し戴くように抱えると、指の間から涙の飛沫が跳ねた。
「いい子なのに、こんな珍しいモノ授かって、もし売れたら…」
「もしかしたら、手術代くらい稼げるかも…」
二人、額を寄せ合うようにして見下ろされ、サンジは母親の手の中で身体を竦めた。

よくよく話を聞いてみると、やはり先ほどの少女は身体が悪いらしい。
足を怪我して、ろくな手当てもできずに放っておいたら歩けなくなってしまった。
手術をすれば元通り歩けるようになるが、そのためには金が掛かる。
「うちはこの通り、毎日食うや食わずの生活だ。それでも爪に火を灯すような努力をして、ようやく50万ベリー貯めた」
けれど、手術にはあと50万ベリー必要なのだという。

サンジは粗末な食卓の上に乗って、煙草を吹かしながら夫婦の身の上話を聞いた。
なるほど、先ほどの愛らしい少女がベッドから出られないのは実に不憫だ。
出掛けられなくて外ばかり眺めて過ごす辛さは、サンジが一番よく知っている。
「話はわかった。俺を人買いに売れば、残りの50万ベリーくらい稼げると、そういうことだな」
サンジが言えば、夫婦は揃って頭を食卓に擦り付けた。
「すまねえ、勝手なことを言って。あんたにはなんの責任もねえのに、こうして手に入っちまったもんは神様の思し召しだと思っちまって」
「あたしら、娘のためにならなんだってしたいんだよ」
手術を受けるなら、一刻も早い方がいい。
サンジもそれは頷ける。
だが―――どうしたもんか。

本当は、この夫婦にゾロがいる宿まで送ってもらって、そこでサンジの全財産を譲れば解決ではないかと思った。
けれどやっぱり、そのやり方は間違っているとも思う。
この先も旅を続けて、困っている人に出会う度に富を分け与えていては、ただの施しだ。
それよりも、サンジができることで手助けしてやるのがいいだろう。
そして今、サンジができることは身を売ることだけだ。
「猫に攫われたってのも、なにかの縁だしな」
「ほんとに、いいのかい?」
まさか本人の承諾を得られるとは思っていなかった夫婦は、狐にでも摘まれたような顔をしている。
「人買いに売られるってことは、誰に買われるかわからないんだよ」
「どこに売られるかもわからないよ、遠くに連れて行かれるかもしれないよ」
「いいんだって、そん時はそん時だ。いざとなったらこっそり逃げるさ」
呑気なサンジの物言いに、夫婦は揃って反対した。
これでは立場が逆だ。
「それより、あんたらは娘さんのことだけ考えてあげてくれよ。あの子にとって、この世で一番愛してくれるのは、親であるあんたらだけだ」
「ありがとうございます」
「ありがとう、本当にありがとう」
食卓に突っ伏して泣く夫婦を眺めながら、サンジは煙草の火を揉み消した。
昇る紫煙の中に、ゾロの面影を見る。

―――探してるかな。
急に姿を消したから、心配してるだろうか。
それとも、めんどくさいのがいなくなってせいせいしてるだろうか。
手元に残してきた調理器具や宝石類は、適当に活用してくれるだろうか。
少しは、ゾロの役に立てるといいな。

善は急げと、人買いに連絡を付けるため出ていった父親の後ろ姿を見送りながら、サンジはどこか晴れやかな気分でいた。


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