堕天花 9



乾いた風の吹く街を、フードを目深に被った男がてくてくと歩いていく。
足取りは軽く、まだ若い。
大きな荷物を幾つも担ぎ、いかにも旅の途中といった感じにあちこち見回しては、店を覗き路地を振り返って、また先へと進んでいく。

ふと足を止めて、汚れたガラス窓の向こうに飾られた陶器の皿に見入った。
そこだけビロードの布が敷かれた急ごしらえの台座に、天使が描かれた飾り皿が立て掛けられている。
金色の髪に左右で微妙に色の違う青い瞳。
頬は薔薇色に染まっているのに、肌の白さを強調したせいか全体に青白く冷たい印象の天使だ。
その背中には、小さな白い翼。


「・・・眉毛、ちゃんと巻いてるじゃねえか。」
よくよく見れば、天使の眉毛がくるんと渦を巻いている。
ここまで忠実に描くことに民衆の愛情が伺え、相反する憎悪もまた垣間見える。

よく描かれた姿絵や記念カップが、路地裏のゴミ溜めの中で粉々に砕かれていたのも目にした。
この国の民から熱狂的に支持され、愛される堕天花。
争いの火種として疎まれ憎まれる堕天花。


「ほんとにお前なのかよ、サンジ―――」
フードを被っても隠し切れない長い鼻を啜って、男は呟いた。

















1年前―――
バロック公国に舞い降りた堕天花は、瞬く間に民衆の心を捉えた。
類稀な金髪、空の青と海蒼のを兼ね備えた瞳、愛らしい眉毛に伸びやかな肢体、真珠のような肌。
そして背中を覆う、綿雪のごとき真っ白な羽毛。
これぞ天使だと、民衆はその外見に熱狂した。
その羽根が本物かと疑いを持つ者もいたが、クロコダイルがどこに行くにも堕天花を連れ歩いたので、間近で見た貴族達は改めてその美しさに驚き、賞賛した。

伝説の堕天花を手にしたクロコダイルは、世界を手にする。
民衆の間には、いつの間にか約束事のようにその確信が広がり、士気は上がった。
兵は募らずとも集まり、近隣の矮小な国々はバロック公国に吸収され、あるいは滅ぼされた。
戦で名を上げようと他国からも戦士が訪れ、街は活気付き、また乱れた。
ある者は家族を守るため武装し、またある者はよそ者のために店を構え商売を広げる。
国の繁栄と世情不安。
蝕むように侵略を続けるバロック軍と難民の流入。
世界の領土地図はその形を買え、望むと望まざるとに関わらず、全ての民が大きな動乱の波に飲み込まれようとしていた。




その元凶が、お前かよ。

ウソップは小さな酒場に入り、安いビールを啜りながらそこにも飾られている天使の絵をじっと見つめる。
酒はそう好きな方ではないが、なんとなく飲みたい気分だ。

サンジが、自分にもカヤにも内緒で屋敷を出て行ってそろそろ1年がたつ。
村が冬に閉ざされる前に、ウソップはサンジを探しに旅に出た。
カヤは、お願いしますと静かに頭を下げて見送ってくれた。
どうして自分がサンジを探しに旅に出るのか、疑問はあっただろうにあえて尋ねてこなかった。
もしカヤが尋ねてきたら、きっとうまく誤魔化せなかっただろう。


ゼフが死の床から託した小さな硝子瓶を、ウソップは捨てた。
サンジが旅立つことがあれば杯に混ぜて飲ませてやってくれと、それが俺からの餞だと土気色の顔で翳したその瓶の中身は毒薬だった。
サンジがゾロと行ってしまってから、ゼフに心中で詫びながらカヤの主治医に調べてもらってそれと知った時の衝撃は、言い表わせない。

ゼフが、あれほどにサンジを慈しみ育てたゼフが、サンジを殺すための毒を俺に託していただなんて。
しかもそうと知らせず。

サンジが黙って旅立たなければ或いは、自分はサンジにこの毒を飲ませていたはずだ。
何も知らず、友人を死に至らしめていたはずだ。
ウソップはそう思う度にぞっとする。
だが、自分を騙し人殺しにまでさせようとしたゼフに対する恨みより、ただ哀しみの方が深かった。

ゼフの、サンジに対する愛情は本物だったはずだ。
あのゼフが、こうまでして始末をつけなければならないほど、サンジの「生」は重要だったのだろう。

「あいつを助け、生かしたことを後悔せぬように・・・」
あの言葉の意味も、今ならわかる。
後悔するのはゼフだった。
ゼフもまた、己の罪を恐れ悔やんでいた。
サンジをあのまま呪い子として見殺しにしなかったことを、罪だと。

そんなことはねえ。
ウソップは一人拳を握り締めて、声に出さず叫んだ。

ゼフがサンジを助けたことは正しかった。
森の中で、一人で飢え死にしかかっていた小さな子供を助けたことは、正しかったんだ。
誰に恥じることも、罪を感じることもないはずだ。
だってサンジはあんなにも―――

顔を上げ、壁に掛けられた肖像画に目をやる。
白い肘を立てて斜めに目線を下ろして、こんな澄ましたポーズの似合うような奴じゃ、ないんだ。
もっと大雑把で、なんでもないことでよく笑って、口が悪くて足癖も悪くて、嫌味言われても萎れるふりして後ろ向いて舌出して、傷付けられても綺麗に受け流せる強い芯を持ってて・・・

誰よりも優しい心を持っていたサンジが、存在すること自体が罪だなんて―――



「・・・てよ、天使様様だぜ。」

不意に言葉がウソップの耳に飛び込んで、我に返った。
賑わい始めた酒場のカウンターで、客達が笑いながら話している。

「アラバスタっつったら、砂漠の王国じゃねえか。またとんでもねえところまで、攻めたもんだな。」
「ああすげえよ。城は無血開城、王は処刑。まだ齢16の王女様も海賊に売られてそれきりだとよ。」
「勿体ねえ。俺らにもお裾分けして貰いてえなあ。」
ガハハと下卑た笑い声が響く。

「んで今回はどっちを誑し込んだんだ?」
「なんと王様だとよ。天使様に宛てた密書が見付かったとか・・・」
「ラブレターだろ?」
またどっと沸く。

「太公様の寵愛を一身に受けて、それだけじゃ足りないのかねえ。」
女主人はやれやれと首を振り、男勝りの太い腕で何杯ものビールをカウンターに追加した。
「いやいやVIPにゃあ、特別に寝室で手厚いお持て成しをするそうだ。そこで絆されて調子に乗ると、不義密通でばっさりさ。」
「ばっさりも何も、当の天使様は御咎めなしじゃねえか。天使様に懸想する度首斬ってちゃあ、太公様も忙しいこったろ。」
「天使様はいいのさ。なんせ愛深きお方だ。誰にだって施しをなさる。」
「俺もお願いしたいところだな。」
「一度天国見せられたら、後は地獄が待ってるさ。」
またどっと沸く。
ウソップは拳を握り締めて耐えていたが、とうとう堪え切れず小さな声で呟いた。

「そんな奴じゃ、ねえだろ。」
ん?と一番近くにいたカウンターの男が背中越しに首を傾ける。
「・・・天使様って、んなことばっかしてる訳じゃ、ねえだろ。」
ウソップはビクビクしながらも、強い口調でそう言った。
愛想のいい女将がああと笑う。

「あんた旅の人だね。兵士にゃあ見えないね。大方天使様に憧れてんだろう。」
「ああそりゃ悪かったな兄ちゃん。夢壊しちまってよ。」
男は赤ら顔のままひっくとしゃっくりをした。
「けどなあ。男を誑し込む以外あの天使様はなーんもしてねえぜ。いっつも太公様の隣に座ってよ、こう・・・」
男はごついガタイにしなを作った。
「太公様の左の肘掛けはあの方の椅子さあ。ひったり寄り添って肘掛けにケツ下ろして、あの恐ろしい鈎爪で腰抱かれてんだ。どこ見てんだかわからねえ目でへらへら笑って・・・」
おっと失礼と大袈裟に口元を押さえる。
「慈愛の笑みを浮かべて、だな。こう冷え込んできて襤褸ばっか着込む俺らと違ってよ。お屋敷ん中はいつも春みてえにあったけえ。そこに天使様はふわりと座って、薄布一枚身体に纏ったっきりで、軽やかに笑っておられるんだよ。あの姿見るだけで、ああ〜天国イっちまうっての」
ゲラゲラと唾を飛ばしながら笑う。
ウソップは無意識に首を振った。

「そんな訳ねえ。誰より寒さを知ってる奴だ。いつだってじっと休んでられないくらい、ちょこまかと働く奴だ。誰かの側でじっとだなんて・・・」
「はあ?」
隣の男が口を突き出したまま目を細めてウソップを見る。
「あーんだあ?天使様を知ってるみてえな口ぶりだな。もしかして、昔の男かあ?」
また笑い声が起きた。

「こーんなガキまで誑かしてやがったかよ!恐れ入ったぜ。」
「よしなよ。天使様人気もうちの店のウリなんだから。」
嗜める女将の声も笑っている。
ウソップは立ち上がりかけて、不意に肩を叩かれた。



「おいおい、久しぶりの酒で酔ってんじゃないよ。悪いな待たせて。」

馴れ馴れしく肩を抱いて話しかけてきたのは、知らない男だった。
黒い髪にそばかすの浮いた人懐っこそうな顔。
このクソ寒いのに、殆ど半裸な格好をしている。

「なんだおま・・・」
「あーあー、わかる。こいつねえ、熱心な天使様シンパなんだよう。だから夢見がちなの。まあ、俺はどっちかってえと、このポートレート見るだけでドキドキガチガチになるタイプだけどね〜」
「なんだ兄さんも地獄行きか?」
男の軽口に酔っ払いが乗った。
「イけたら本望v」
ウィンクを投げて、ウソップの両肩を掴んだまま店の奥へと押しやった。
その力に抗えず、手早く荷物だけ持って奥のテーブルへと歩かされる。



「誰だよ、あんた。」
低く問えば男は屈託なく笑った。
「俺エースっての。あんたとは初対面だけど、俺の連れがあんたを知っててね〜」
連れ?と促されてテーブルに着いている男を見た。
男はジョッキを置いて被っていたフードを脱ぐ。

「――――!!」




忘れもしない、サンジを屋敷から連れ出した男がそこにいた。


「お前っ」
気色ばんでなにか言いかけるウソップの背をトントンといなして、エースが席を勧める。
異国の地で、それでも知り合いに会えたことに安堵してウソップは大人しく座った。






「お姉さん、こっちビール追加ね〜v」
エースは手を振ってからウソップとゾロの間に腰掛けた。
「はい自己紹介。俺イーストブルーのエースっての。ゾロとは半年前に知り合った。」
で?とエースが掌をウソップに向かって見せるう。
ウソップはああ、と首を引きながらもゾロを睨み付けたまま用心深く口を開いた。

「ノースの、外れの村から来た。ウソップってんだ。」
それでお前はと、目でゾロに問う。
ゾロは少し視線を下げた。

「俺はイーストのロロノア・ゾロだ。」
「ゾロはすげーんだぜ。三刀流の戦士っつってな。一度に三本の刀使って闘う剣士だ。イーストじゃちと名の知れた海賊狩りでもある。」
「それで?」
それがどうしたとばかりに、ウソップはエースにまで敵意を剥き出しにする。
「その海賊狩りさんが、なんで一人でここにいるんだ。・・・サンジはどうした。」
一瞬、ゾロの目が瞬いた。
ウソップはテーブルに肘を着いて身を乗り出し声を潜める。

「俺は、お前がサンジを連れ出したことを責めてるんじゃねえ。だが、今お前らが一緒にいないのはどういう訳だ。一緒にいないどころか、堕天花の噂はちょうど1年前、サンジが村を出奔したときから始まってるじゃねえか。お前、まさか―――」
認めたくはないが最悪の可能性を示唆して、それを否定されることを望んで言葉を続ける。

「まさかサンジを、クロコダイルに売ったんじゃねえだろうな。」
馬鹿なことをと、即座に言い返して欲しかった。
そんな訳ないだろう。
本気で惚れて、愛して連れ出した。
止む無く奪われる形になったが、決して忘れてはいないと。

だが、ゾロは何も言い返さずただ視線を手元に落としている。
「・・・なんとか、言えよ。」
ウソップは低く唸り、拳を握り閉めた。
ゾロの胸倉を掴んで怒鳴りつけたいが、場所を考えてなんとか堪える。

「あいつを、クロコダイルに引き渡したのは、俺だ。」
あっさりと肯定された言葉に、目の前が真っ暗になる。
冷静になるよう努めて深く呼吸を繰り返しながら、ウソップは拳の震えるままジョッキを握った。
「・・・引き渡した、だと。最初から、・・・まさか最初からそのつもりだったの、か?」
怒りが強すぎてゾロの顔を直視できない。
だがウソップの目線の端で緑色の上は僅かに縦に振られた。
一気に頭に血が昇る。

「最初から?最初から・・・」
サンジを、堕天花だと知って――――

ダンっと音を立ててジョッキがテーブルに叩きつけられた。
白い泡が飛び散るのも構わず、ウソップはテーブル越しにゾロの胸倉を掴む。

「最初から、知ってててめえは騙したのか!あいつは、あいつは本気でてめえをっ・・・」
サンジの笑顔が昨日のことのように甦る。
ほんの少し目元を染めて微笑んだ。
あんな幸福そうな顔で笑うサンジを、見たことなかったのに。

「初めて、初めて他人を信じたんだ。初めて愛したんだあいつは!てめえだってわかってただろうっ・・・」
それ以上言葉にならず、ウソップはゾロを掴み上げたままぶるぶると震えた。
視界が潤んでゾロがどんな顔して目の前にいるかすらよく見えない。
勢いよく鼻を啜ると、豪快な水音が響いた。

「詫びて済むとは思ってねえ。」
開き直りとも取れるゾロの台詞に本気で切れた。
ガツンと、渾身のパンチをゾロの頬に繰り出す。
ゾロは素直にそれを受けたが、踏み止まり倒れはしなかった。

「てめ・・・」
もう一度と拳を握り直して、傍らに立つエースの存在を思い出した。
エースはテーブルに着いたままニコニコとジョッキを傾けている。

「あー、気にしねえでそのまま続けてくれ。若いモンは情熱のままぶつかっといた方がいい。」
「・・・なんだってんだ、てめえ。」
一気に気が抜けた。
この場面でこうも飄々としてられると、調子が狂う。

「俺から見たってゾロは言い訳のしようもない。全て事実だ。だから、あんたはちゃんと怒っていい。」
さあどうぞと言われて毒気が抜かれて、ウソップは渋々ゾロを掴んだ手を離した。
ゾロは頬を赤くしたまま、でくの坊みたいに突っ立っている。

「言い訳しないって、ほんとに何にも言うことないのかよ。」
声が情けなくひっくり返ったが、ウソップはもう構わなかった。
「全部全部、嘘だったのかよ。あいつのことは、もうなんとも思ってねえのかよ!」
ゾロは頭を振った。
「ちったあ、悪いことしたとか、思ってんのか?」
ウソップは涙に濡れた目で壁に掛けられたポートレートを見る。
やたらと繊細に描かれた金髪の天使は、見たこともないような微笑みを湛えて飾られている。

「こんなのは、奴じゃねえ・・・」
ウソップは声のトーンを落とし呻いた。
「返せよ、俺達の大切な友人だった。誰よりも優しくてふてぶてしい、あいつを返してくれよ!」
ウソップはその場で突っ伏し顔を覆った。
この場でゾロを殴りつけたって、手が痛いだけだ。
どんなに口汚く詰ったって、それでサンジが帰って来るわけじゃない。



「お前もさあ、ちったあ言い訳くらいしねーの。」
その場にそぐわぬのんびりとした口調でエースがゾロに声をかける。
「言い訳することはない。俺はあいつを騙して連れ出した挙句、クロコダイルに引き渡したんだ。全部事実だ。」
「それは過去の話っしょ。未来はこれから、俺らが作んじゃん。」
クサイ台詞を大袈裟に唱えて、エースはウソップに向かってにかりと笑った。


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