堕天花 8

サンジの叫びを聞いた気がして、ゾロはより強く馬の腹を蹴った。
一刻も早くこの場所から、この国から離れたい。
ようやく取り戻した愛しい女と共に、帰るのだ。
故郷へ――――












ゾロより3つ年上の婚約者くいなが、バロック公国へ刀を買い付けに行ったきり戻ってこないと師匠から知らされて、ゾロが国を出たのが今から1年前のことだ。
バロックに入りゾロが捜し歩くまでもなく、公室から使いがやってきた。
イーストブルーで名高い剣士、ゾロを招きたいと言う。

荘厳な城の奥の間まで案内されれば、そこにくいながいた。
ごてごてと飾り立てられた黄金の椅子に寝そべるように腰掛けた男はクロコダイルと名乗り、ゾロを丁重にもてなしたがその傍らに佇むくいなの表情は硬く、この状況が好ましいことでないことはゾロにもすぐにわかった。

「噂はかねがね聞き及んでいる、会えて光栄だ。三刀流の剣士殿。」
口元に笑みを貼り付け、穏やかに話しているつもりだろうが、嘲りは隠しきれていない。
「実は、街でうちの兵士がくいな嬢に失礼な振る舞いをしてね、それを諌めた腕前に私は感服したのだよ。聞けば剣士として名高い君が婚約者と言うではないか。ぜひ会ってみたいと、私が無理を言って足止めしてしまった。申し訳ない。」
少しも申し訳なくなさそうに、口だけで詫びるクロコダイルの口調も視線も、身に纏う雰囲気もすべてが気に入らなかったが、その隣で突っ立ったまま離れないくいなのことが気になった。
聡明なくいなが何も口を挟まないということは、今手出しをしてはならないのだ。

くいなが世話になったことをゾロも口先だけで礼を述べたが、そこでクロコダイルは本題に入った。
くいなは、街での諍いで兵士を3人負傷させてしまったらしい。
この兵士は大切な任務を命ぜられていた兵士で、他の者では容易く代わりにはならない。
そこで―――

「俺に、あんたの使いをしろと?」
ゾロはあからさまに不機嫌な顔つきで、クロコダイルを見返した。
「生憎この平安の世において、兵士どもはどれもだらけきっておる。この任務を遂行できそうな人材は、他になかなかおらんのだ。婚約者の責任を取れとは言わないが、このか弱いくいな嬢に任せるよりも、君の方が適任だろう。」
か弱いくいな嬢にノされた兵士のが問題だろうよ。
ゾロはそう毒吐きたかったが、くいなが目で制した。

「わかった。俺で役に立つことならなんでもしよう。くいなを国に帰してやってくれ。」
クロコダイルは鷹揚に頷き、それから気の毒そうに首を振った。
「生憎だが、私もそう気の長い方ではない。君が一日でも早く戻ってきてくれるよう、役目を終えるまでくいな嬢にはこの城に留まってもらう。」
「なんだとっ」
今度こそ、ゾロは表情を変えて怒鳴った。
脇に控える兵士たちが一瞬腰を浮かしたが、クロコダイルはそれらを低く手を翳して制し、薄ら笑いを浮べた。

「なに、早く戻れるも戻れないも君次第だ。」
ゾロはくいなを見た。
くいなは蒼褪めたまま、ゆっくりと頷く。
こんな表情のくいなを、未だかつてゾロは見たことがない。
いつも快活で勝気で、黙って事の成り行きを見守っていられるような性質ではないはずなのに・・・





結局ゾロは、くいなとろくに言葉を交わす時間もなく、そのままバロックを旅立つこととなる。
預かったくいなからの手紙には、彼女らしく簡潔に明確に事の顛末が記されていた。

バロック国は最近代替わりし、今の太公クロコダイルは相当な野心家であること。
近隣の領主や戦士などの縁の者を城に軟禁しては、依頼という形で任務を命じているのだということ。
断れば人質に取っている者の粗相を理由に、攻め入られる可能性があることなどだ。


「バロックは、最近急激に力をつけてきた戦闘的な国だ。今、特にイーストの我々では、それぞれが独自の領土を治めている程度でとても太刀打ちなどできない。万が一にも、くいなの所業を口実に攻め入られでもしたら、無用な血が流れることとなる。」
コウシロウはそう言い、改めてゾロに頭を下げた。
こうなった以上、なんとしてもゾロはクロコダイルから課せられた任務を遂行しなければならない。
師匠に向かって力強く頷き、託された地図を改めて見直す。



この世にごく稀に生まれ出るという、「堕天花」を探し連れ帰ること。
広い広い、この世界のどこにいるともわからない特殊な人間を探し出すなど砂漠から一粒の砂を見つけ出すようなものだが、クロコダイルはある程度の情報は与えてくれた。

その者は色素が薄く、左右の目の色が違う者もある。
身体のどこかに羽毛が、もしくは皮膚が盛り上がって瘤になっている。
骨の密度が常人とは違うため体重が異常に軽い。
ただしノースで誕生している場合は、不吉だとして生まれてすぐに殺される率が高い。
できるだけ内密に、穏便に連れ出さなければ途中で殺される可能性もある。




「・・・条件は特殊だが、確率は格段に低いじゃねえか・・・」
ゾロは改めてため息をついて、それでも愛馬を駆って旅立った。
とにかく身体から羽根が生えていれば、年寄りでも赤ん坊でも、男でも女でも構わないのだ。
どんな手を使ってでも、生きて連れ帰れば、それでいい。
なぜクロコダイルがそんな人間を欲しがるのか、ゾロにとってそんなことはどうでもよかった。
ただくいなを取り返すために、できることをするだけだ。
そうして、ゾロはノースを目標に「堕天花」探しの旅に出た。



季節が一巡りする頃、ゾロはようやくそれらしき噂を聞いた。
ノースの片田舎に呪い子が生き延びていると。
醜い背中をコートで覆い、ひっそりと隠れるように棲んでいる、黒い森の悪魔。
そうして、木枯らしの吹くあの庭の外れでゾロは初めてサンジに逢った。



















「ゾロ?」

不意にくいなに呼ばれて、ゾロははっとして手綱を引いた。
もう随分、街からも離れた所まで走って来ていた。
丘の上に登り、崖からバロックの街並を見下ろす。
改めて腕の中のぬくもりを感じて、ゾロは詰めていた息を吐いた。

1年ぶりの再会だったのに、くいなはさぞかし戸惑っていることだろう。
「悪い、つい夢中で・・・」
ゾロはそう言って、くいなに笑いかけた。
だが口元が強張って、うまく笑顔にはならない。
くいなはそんなゾロをじっと見つめて、同じように微笑んだ。
その笑顔を、ゾロはじっと見つめる。

一年ぶり、だからだろうか。
特に痩せてもやつれても見えないが―――
どこかが、違う。

ゾロはくいなを抱え直して、その腕を両手で抱えた。
そうだ、なぜ気付かなかった。
くいなはゾロよりも馬の名手だった。
こんな風に人の前に横座りに大人しく乗っているような女ではない。

ゾロは顔から血の気が引いていくのを感じながら、改めてくいなの顔を、身体つきを見る。
「どうしたの、ゾロ」
くいなは屈託なく問いかける。
それさえも、くいならしくない。
くいなならば、きっと再会したその瞬間に何らかの反応をしただろう。
ゾロを殴りつけるとか、怒鳴るとか。
そんな女だ。

「・・・お前は、誰だ?」
まさかそんなと思いつつ、ゾロは低く呟いた。
そうであって欲しくない。
目の前の女がくいなとは別人だなんて。

だが女は薄く微笑んで、あっさりと首を振った。
「やっぱり、すぐにわかってしまうものですね。・・・いいえ、ちょっと時間がかかったくらいでしょうか。」
瞠目するゾロの前で、女は慌てる素振りもなくフードを脱いだ。
現れた顔は、その目も肌も髪もすべてがくいなに生き写しだ。

「私の名はたしぎ。代わりを頼まれたんです。私が直接くいなさんとお会いしていれば、もう少しうまく演技もできたのでしょうが・・・」
そう言って不敵に笑うその表情は、やはりくいなそのものだ。
だが、自分で違うと認めている。

「会って・・・だと?くいなはどこだ!」
激昂し肩を持って揺するゾロにも、たしぎは動じなかった。
「残念ですが、私が城に上がった頃には、すでにくいなさんは亡くなられていました。」
――――!
信じられないと、その言葉ばかりがぐるぐると脳内を巡る。
くいなが、死んだ?

「あなたが旅立たれてすぐだったらしいですよ、事故で。」
「嘘だ!」
ぐいと襟元を掴み上げても、たしぎは悲鳴一つ上げなかった。
まるでゾロを憎んでいるかのように、気丈に睨み返す。
「嘘じゃありません。階段から落ちて、亡くなったそうです。・・・そこにはクロコダイルもいたそうですが。」

くいなが、死んだ。
階段から落ちて―――
クロコダイルが、側に―――?

「なんだと・・・」
蒼褪め、宙に視線を漂わせるゾロにたしぎははっきりと言い放つ。

「クロコダイルは自分が気に入った人間を人質にとり、何人もの使いを立ててその実人質を手中に収めていたのですよ。そんなこともわからないで、貴方はのこのことお使いに行っていたの?」
嘲笑われて、かっと頭に血が昇った。
だが、くいなにそっくりの面差しに拳を握り締め、耐える。

「どちらにしても、貴方はもう堕天花を見つけてしまった。恋人を救い出すことも、クロコダイルと闘うこともしないで、あっさりと彼の望むものを差し出してしまった。いっそのこと、彼を見つけ出さずにどこかに逃げていればよかったものを。」
「約束だった!」
ゾロはたしぎの声を遮るように叫んだ。
「クロコダイルの望むものを連れて帰ったなら、くいなを返すと、約束だった!」
「愚かな。」
たしぎは冷ややかに言い放ち、ゾロの腕に抱えられた形のままで真正面から向き直る。

「せめて、彼と共にどこかへと落ち延びればよかったのに。あんなにも、あんなにも彼は貴方を愛していたのに・・・」
「お前に何がわかる」
ゾロは目を背け、乱暴にたしぎの身体を横薙ぎに払った。
たしぎはバランスを崩すことなく、器用に地面へと降り立つ。

「貴方が城に帰ってから彼を引き渡す間のほんの一瞬でさえ、私にはわかったわ。彼がどれだけ貴方を信頼していたか。真っ直ぐに貴方だけを見て、貴方の言うがままに、貴方を信じていたからこそ―――」
「黙れ!」
ゾロは馬から飛び降り、鯉口に手をかけた。
女を斬る気は毛頭ない。
ゾロの気に恐れをなして、その口を閉じればいいのだ。
だがたしぎは怯まなかった。

「恋人を救うために闘うこともせずみすみす死なせておきながら、また貴方を慕う人を陥れただなんて。どちらにしろ、彼はもう取り返せないわ。」
「堕天花が、なんだと言うんだ!」
ゾロは刀を握ったまま低く唸る。
「たかが身体に羽根が生えた程度の人間が、なんだと言うんだ。」
「それが伝説となっているからよ。」
殺気を放つゾロと対峙しながら、たしぎは堂々と言葉を紡ぐ。
コートの下は薄いドレスで、武器らしきものは携えていない。
まったくの丸腰で、それでもどこか威圧感がある。

「身体に羽根を持つ堕天花であるということ。それだけでクロコダイルには充分なの。しかもあの外見で、背中に生えてるだなんて、できすぎだわ。貴方はクロコダイルが世界の覇者となるべき口実を運んでしまったのよ。」
堕天花を手中にしたものは世界を制する。
ただの伝説だ。
だが、伝説は時として、民衆の圧倒的な支持を得る。

「もうバロック公国の勢いは止まらない。貴方はもっとも危険な火種を連れ帰った。このままここで私を斬って、死を覚悟で彼を取り戻しに行く?」
表情の失せた白い顔で、たしぎは正面から問うてくる。
真意がわからず、ゾロは身構えたまま背中で気配を感じた。
もう一人、尋常ならざる気を持った人物が自分達を見守っている。


「見張りがついて来てんのか。」
「貴方が私の正体に気付いたときのための、用心棒よ。」
恐れ多い用心棒だわと、自嘲するように笑うたしぎの視線の先に、異様な男がいた。
黒いマントに羽飾りの付いた帽子、巨大な十字架のような剣を背に背負っている。
これが敵だと、ゾロは瞬時に察知して向き直った。
たしぎもゾロに敵意を持っている。
だが、それは殺気ではない。

「なに、単なるヒマつぶし。」
飄々とした声が響く。
幅広の鍔の陰から、男の目が光って見えた。
身に纏う雰囲気だけでかなりの手練れだとわかる。

「お前は・・・」
師匠に聞いたことがある、世界最強の剣士。
鷹の目のミホーク。

一度は会い見えたいと思っていた強大な敵が、今目の前にいる。
ゾロは刀を抜き、口に咥えた。
右と左とにも携え腰を落とす。

「ほう、三刀流か、」
ミホークは珍しい見世物でも見るように目を眇め、懐から短刀を取り出した。
「弱き者よ。力の差も測ることができぬのか。」
お前の相手はこれで充分とばかりに翳された小さな刃にも、ゾロは激昂しなかった。

くいなが、死んだ。
そのことが、まだ現実のものとして受け入れられない。

何もかもが嘘ではないか。
このたしぎと言う女がでたらめを言っているのじゃないか。
すべて罠なのではないか。

「お前を、相手にしている暇はない!」
ゾロは叫びながらミホークに斬りかかった。









空気の流れが変わった気がした。
ミホークの周りだけ時が止まった様な、波に翻弄されるかのような不安定な空間。
ゾロが己を取り戻すより早く、目の前が朱に染まる。

力の、差か―――

すでにわかっていたことだった。
今の自分では、短刀一本のミホークにすら敵わない。
だが、それでも――――

見下ろせば、自分の胸に深々と短刀が突き刺さっている。
急所は外してあるのだろう。
それがどうにも、苛立たしい。

ごぶりと、喉が鳴った。
鮮血を口から滴らせながら、ゾロは刀を下ろし両手を広げた。
前面を晒した立ち姿に、ミホークが眉を顰める。


「なんのつもりだ?」
「背中の傷は、剣士の恥だから、な。」
そう言って不敵に笑うゾロに、ミホークも笑みを返す。

「よかろう。」



くいなが自分に操立てて死んだと言うなら、俺もくいなへの愛に殉じよう。
まったく自分らしくない、くいならしくない死に様だと口元を歪めて、それでもしっかりとミホークを見据える。

ミホークは背中の長刀に手をかけ、口元を歪めた。











白い光が斜めに走った。
一瞬遅れた血煙が空気を染め、ゆっくりと青い空が横たわる。

足元が崩れ、仰向いたままゾロは崖下へと落ちて行った。











その刹那、脳裡に浮かんだのはくいなの笑顔でも、憎いクロコダイルの顔でもなく―――――




粗末な小屋の中
暖め合って眠った小さなベッド
伏せた睫毛とバラ色に染まった頬
仏頂面のまま口元だけ歪める、ぎこちない笑顔







一瞬、輝いた白い光は

―――すぐに闇に呑まれた




next