堕天花 7



サンジの側にはいつの間にか美しい婦人が立っていて、こちらへと手を取る。
相手が女性であるにも関わらず、いや女性だからこそ顔を強張らせてサンジは戸惑った。
気がつけば見知らぬ人に囲まれて、一人取り残されている。
すぐにでも逃げ出したい衝動を必死で堪えて、サンジはフードを被ったまま俯いて女性に従った。


「すべて聞き及んでおります。どうか気楽になさってください。」
幾つもの石段を昇り、美しい庭を横切り、大理石の床を踏んで、見た事もないような見事な彫刻が施された回廊を抜けた。
ここまで歩くと、サンジの頭もぼうっとしてくる。
ここがどこだか、どこに連れて行かれるのかどうでも良くなってきて、とにかく早くゾロに来て欲しかった。
何度も振り返り、その度に女官の足を止めて先を急がされる。
漸く通された豪奢な部屋の中で、腰を下ろす暇もなくフードを取るように促された。

「恐れることはありません。すべて承知しております。」
女官は穏やかに、辛抱強く何度もサンジにそう言った。
それほどまでに念押しされることが余計に不審で、サンジは用心しながらもフードを脱ぐ。
女官はサンジの正面に立ち、すっと視線を下げて文字通り頭の先から爪先まで眺める。
そうしてまた顔に視線を戻してにっこりと笑った。

「どうぞすべてお脱ぎになってください。ここはお風呂場ですのよ。」
「・・・は?」
うっかり女官に釣られて、サンジも笑みを口元に貼り付けたまま、間抜けに聞き返した。

「まずは旅の疲れを落としていただかなくては。」
そう言われて手を広げられて、サンジは改めて見渡した。
今まで止まり歩いた宿の部屋より若干広いスペースは大理石ばりで、確かに家具らしいものはろくに置いてない。
その代わり、巨大な鏡と箪笥と・・・大きな籠?

「え、風呂って・・・」
「こちらで衣服をお脱ぎになって、扉の向こうに湯が張ってあります。」
はあはあとサンジは首を振っていちいち頷き、また困ったように視線を女官に戻した。
「それで、貴女は・・・」
「いかが致しましょう。部屋の外に係りの者を待機させておりますが、お呼びしていいですか?」
サンジは咄嗟に首を振って後ずさった。
「か、係りって、何のっ」
声がひっくり返ってしまう。
女官は更ににこりと笑んだ。
「勿論、お付きの女中達です。全身隈なく磨かせていただきます。」

サンジはくるりとターンして逃げを試みた。
が、フードをがっちり捕まえられてそのまま強引に引き剥がされる。
相手が女性では、乱暴に振りほどくこともできず、コートの下からするりと痩躯が抜け出てしまった。
慌てて身体を屈めるも、下に着た薄いシャツ一枚では背中を隠しおおすことすらできない。
壁際にぴたりと背中を貼り付け曖昧に誤魔化したサンジに、女官は顔色一つ変えなかった。

「すべて承知しておりますのよ。さ、傷口を見せてください。」
今度こそ仰天して、サンジは口をぽかんと開けた。
「あの、俺のことを・・・」
「羽根が生えてらっしゃるのでしょう。そういうこともありますわ。珍しいことではありません。」
そう言われて、肩の力が抜けた。
やっぱりゾロの言ったとおりなんだ。
広い広いこの世の中で、羽根が生えてたり、目の色が違ったりするのは特に変わったことじゃないんだ。

ほわんと表情の和らいだサンジの背後に、いつの間にか数人の女中達が立っている。
たおやかな女性ばかりではない、逞しく上背もある女性ががしっとサンジの肩を掴み女官と同じように微笑んだ。
「さ、観念なさって。お清めいたします。」
「・・・い、いやだあああ〜〜〜」
サンジの悲鳴が高い高い天井に響き渡った。











すべてを白で統一された、美しくもただっ広い部屋に通されて、サンジはボケッとソファに凭れ掛かっている。
なんと言うか、蒸され過ぎた卵の気分だ。
あんなにたくさんの湯を張って、しかも適度に暖かいまま身体をつけたことなんて、初めてだ。
しかも巨大な泉かと思うくらい広い部屋で、色んな飾りがついていて。
その場に放り込まれただけでくらくらしたのに、しかも回りは美しい女性ばかりに取り囲まれて、
文字通り隈なく洗われてしまった。

湯上りの肌をさらに染めて、うっかり思い出して一人身悶える。
カヤ以外の、綺麗な若い女性に近寄られたり触られたりするなんて初めてなのに、その上裸を見られて、羽根まで触られてしまった。
それはもう優しく丁寧に、大事に大事に扱われて、傷口を手当されている頃には放心状態になっていた。



「なんて綺麗な肌なんでしょう。」
「髪も、絹糸のようですわね。瞳をどうしてお出しにならないの?とても綺麗。」
なにやら口々に誉めそやされてはいい匂いのする何かを塗られたり揉み込まれたりした。
途中から脱力して身体を投げ出していたから、本当にされるがままだ。
気持ちよかったけれど、ほわほわしてすべてが夢のような気もする。

―――ゾロ、早く来てくれよお・・・
今ゾロの顔を見たら泣いてしまうかもしれない。
それとも怒って蹴り飛ばすかもしれない。

とにかく、ゾロの貌が見たい。
ゾロに、会いたい。




裏門で別れて2時間も経ってないのにもう恋しくなって、自分でもこりゃダメだと突っ込んだ。
せっかく、あんな綺麗なお姉さま方が世話してくれて褒めてくれてるのに。
あんな野蛮人のことばかり恋しがってちゃ、男としてダメだろう。
理屈でそうは思ってみても、感情がついていかない。

ゾロだから、あの村を出たのだ。
ゾロが俺を認めてくれたから。
ゾロが、俺を必要だと言ってくれたから。
ゾロだから――――



バタンと大きな音を立てて、いきなり扉が両開きに開いた。
サンジは飛び起きて、音のした方へ振り返る。
誰かが、入ってきた。



身に纏う雰囲気が黒い・・・そんな感じの男だ。
大柄で、荒い黒髪を撫で付け、いかめしい顔には酷い傷跡が一本真横に走っている。
目つきは鋭く、口元に笑みを湛えているのも酷薄に見えた。
毛皮を肩に羽織り、ゆっくりとこちらに近付いてくる。

一目見て、使用人の類ではないとわかった。
では、まさかここの主か?
サンジは立ち上がり、改めて自分の格好に気付いて胸元を押さえる。
白いバスローブを一枚纏ったきりだ。
これは失礼に当たるのでは・・・

戸惑い、後ずさるサンジに、男は少し腰を屈めて貼り付けたような笑みを見せる。
「はじめまして。我が国へようこそ。」
ああ、やはりこの城の・・・
いや、国って、まさか―――

「私はバロック公国の公爵、クロコダイルと申します。」
そう言って伸ばされた手を、サンジはおっかなびっくり握り返す。
クロコダイルと名乗った男は、そのままサンジの手を引いて己の胸に抱き込んだ。

「何をっ・・・」
手で突っぱねるのも構わず、ローブの襟元を下げて背中を覗く。
肩甲骨から密集するように生えた羽根を確かめて、ふはははと声を立てて笑った。

「うむ、見事。本物の堕天花だ。よくぞやった。」
「離せっ!」
サンジは裸足のままクロコダイルの脛を蹴り、身体を押した。
呆気なく離され、よろめいてソファに尻餅をつく。
慌てて立ち上がるが、クロコダイルは余裕の笑みで見下ろすばかりだ。




「『堕天花』を、知っているか?」
「・・・」
サンジは用心深く睨み返し、ローブの前を合わせ浅く椅子に腰掛けた。
ふかふかとしたそれは、油断すれば身体が深く沈み込んで咄嗟に立ち上がれなくなりそうだ。

「知るまいな。天から堕つる、花だ。」
花―――
確かに、ゾロは料理長にそう言っていた。

「正確には把握されておらぬ、数年に一人か数百年に一人か、身体に羽毛を持つものが生れ落ちる。」
びくりと身体を揺らせるサンジを面白そうに眺めながら、クロコダイルはサイドテーブルに置かれたグラスに自らワインを注ぐ。
「ノースで生まれるとの説もあるが、それも定かではない。堕天花の特徴の一つに色素が薄いということがある。そのためだろうし、実際ノースに暮らす方が目立たない。それもあるだろう。」
サンジは自分のことを言われているのだと、自覚して尚戸惑っていた。
自分が何者なのか、知られていることは正直嬉しい。
この男の言葉が真実ならば、自分は黒い森の落とし子ではない。
不吉な悪魔の子でもない。
こういう人種が、確かにあるのだ。

「先代の堕天花は、踝から羽毛の生えた女だった。お前と同じように輝く髪を持ち、透き通る目を持って、あどけない仕種で多くの男を魅了した。」
羽毛は直接骨から生えるのだ。
そう言っていたのは、ゾロだ。
「堕天花を巡って、男達は闘った。何れも国を治め、或いは支配した権力者達が剣を交え血を流し合い、小さな村や町を滅ぼしながら競い合った。」
差し出されたグラスに手を伸ばさず、サンジはじっとクロコダイルを見上げた。
こいつは、何を言いたいのだろう。


「争いに巻き込まれ、訳もわからぬまま戦いに翻弄された民衆達は、彼女を『破滅の女神』と呼んだ。」
クロコダイルが口元を歪めて怪しく笑む。
「なぜそれほどまでに男達を惹き付けたのか。それは彼女が堕天花だからだ。美しく、邪気もなく、身体に羽毛の印を持ち、豊かな愛で誰をも包み込むように愛する堕天花だからだ。そして、天の花を手にした男は、この世の覇者となる。」
「はあ?」
今度こそ、サンジは声に出して呆れた。

「な、んだよそれ。身体から羽根が生えた人間って、たまに生まれるんだろう。わかってんだろう?それでなんで、この世の覇者だなんて、大げさな展開になるんだよ。」
「そう、堕天花の存在は伝説となり、人々は知っている。」
クロコダイルは、大ぶりの指輪が嵌った指を少し上げて、サンジを軽く指差した。



「ごく稀に、羽毛を持った白い人間が生まれ、その者を手に入れれば世界の支配者となる。その伝説も知られている。だからこそ、お前の存在は貴重なのだ。その姿―――」
クロコダイルが腕を伸ばした。
サンジは反射的に身を引いて立ち上がろうとするが、咄嗟に腕を取られて動きを止める。
ここで抵抗しても、逃げるすべはない。
それよりも、ゾロを待つのだ。
先に行っていろと言った。
ゾロは必ず、ここに来るから。

「この肌の白さ。その髪、その瞳・・・」
クロコダイルのもう片方の手が、上着の下から持ち上がった。
それを見てサンジは無意識に唾を飲んだ。
手首から先が、巨大な鉤爪になっている。
冷たい硬質の感触が顎に添えられ、ゆっくりと上向かされる。
額にかかる前髪を掻き揚げられ双眸が露わになった。

「この瞳、なんと美しい二つの宝石。」
クロコダイルはうっとりと歌うようにそう囁き、満足気に目を細める。
その手が、ローブの隙間からうなじを撫でた。
サンジは弾かれたように立ち上がり、手を振って抗う。
クロコダイルはそれに構わず、ローブの襟元を肌蹴けさせると、肩と背中を剥き出しにした。
両方の肩甲骨から芽吹くように生えた白い羽毛が、サンジの動きに合わせて揺れ、傷口は薄赤い線となって名残を留め、癒えかけている。

「素晴らしい!」
クロコダイルは唸った。
「完璧なる『堕天花』。背中に羽毛を持ち、伸びやかな肢体と美しい外見。完璧だ。よくぞ見つけた。」

ぎくりと、サンジが顔を強張らせる。
見つけた?
誰が?

「お前を我が手にすることが、重要なのだ。この世は飽和しておる。山のイースト、海のサウス、そして豊かな我がウェストに、閉ざされたノース。それぞれに危うい均衡を保ちながら、小さな小競り合いを繰り返しておる。」
クロコダイルの笑みに、顔面の傷が引き連れて見えた。
「私がそこに、風を送ろう。」
その手が、サンジのうなじから背へとなぞる。
サンジは首を振って抗った。

背に触れていいのは、ゾロだけだ。
柔らかな羽毛を撫で、口付けを落としていいのは、ゾロだけだ。

「お前を我が手に、私はこの世の覇者となろう。小物が犇き合うイーストを制し、サウスを滅ぼし、ノースを我が手に・・・」
「やめろ!」
サンジは叫び、裸足でクロコダイルの腹を蹴りつけた。
揺らぎもしない体躯を押し退けて、戸口へと向かう。
だが当然のようにそこは閉められ、びくともしない。


「そのために、お前が必要なのだ。その姿、その羽毛。お前が『堕天花』であること。支配者だけが手にする『花』であることが、重要なのだ。」
クロコダイルがゆっくりと近付く。
サンジは怯え、重厚なドアノブに縋りながらも睨み返した。

「お前のものになど、ならない。ゾロはどこだ?」
クロコダイルはまた笑った。
さっきから、この男はずっと笑っている。
「ロロノア・ゾロ、期待などしていなかったが、実によく働いてくれた。私はヒントを言っただけなのだよ。」
働いた?
「潜むなら、恐らくはノースだろう。白い肌、色素の薄い髪や瞳。骨から直接羽毛が生えるため、通常は皮膚が上を覆い隠して瘤のようになっていると。」

どくんどくんと、先ほどから耳に痛いほど心臓が鳴っている。
ゾロは、ゾロはどこだ。

「本当に今この世に生まれているかどうかはわからぬ。だが、探してみるのなら、ノースだ。瘤を持つものだ。骨の密度が違うから、異常に体重の軽い者だ。男でも女でも構わぬ。身体に『堕天花』の印があるならそれでいい。必ずや、連れて帰れと。」

鼓動が一際強くなり、まるで耳鳴りのように響く。
ゾロは、ゾロはどこへ―――

「彼の婚約者を、我が城で預かっていたのだよ。『堕天花』を連れ帰った暁には、晴れて一緒になると約束してね。」
くらりと、目の前のクロコダイルの笑顔が歪んで見えた。
今なんと、言った?

「だから、今頃は二人で1年ぶりの再会を喜んでいるだろう。・・・おや。」
クロコダイルは窓の外に目をやり、嬉しげに振り向いた。

「噂をすれば、だ。ゆっくりと休めばいいのに、じっとしていられないらしい。」
クロコダイルの指が、窓の外を指す。
サンジは見てはならないと頭のどこかで警鐘を鳴らしているのに、ゆっくりと窓の側まで近付いた。



豪華な飾り窓の桟に手を掛けて、遙か下に広がる広場に目をやる。
黒い馬だ。
漆黒の尾を振って、馬が一目散に駆けている。
その上に乗っているのは、見慣れた碧の髪。
汚いマントをそのままに羽織って、その腕にしっかりと黒髪の女性を抱いて―――


「ゾロっ」

呼ぶつもりはなかったのに、勝手にその名が口から漏れた。
恐らくはこの城の中でも最も高い塔の上から叫んだって、聞こえるはずがないのに。
聞こえたなら、この声が届いたなら、ゾロはきっと振り返ってくれる。
そうれなのに―――

ゾロは振り向かない。
前だけ真っ直ぐ向いて、しっかりと女性を腕に抱いて、広場を駆け抜け城門へとひた走る。

振り向きもしない、この声は届かない。
海を見せると言ったのに。
お前の飯を食べたいと、言ったのに――――


その名をもう一度呼びかけて、サンジは唇を噛み締めた。
あの腕に抱かれて共に山を越えたのは、つい昨日のことだったのに。
先に行ってろと笑いかけたのは、ほんの数時間前のことだったのに。

ゾロは振り向かない。
城門の向こうに、小さくなっていくその姿が消えてしまっても、サンジは声も出せず目を逸らすこともできなかった。

ローブを肌蹴たまま、呆然と見送るサンジの背にクロコダイルが寄り添い、そっと肩に手をかける。

「お前のその哀しみも、愁いも、すべて私が埋めてやろう。我が愛しき、堕天花よ―――」



クロコダイルの囁きをどこか遠くに感じながら。
サンジは口を閉ざし目を瞑る。

例えどんなに叫んでも、もうゾロには届かない。



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