堕天花 6



ぱちぱちと、木の爆ぜる音がする。
音と共に感覚が急激に戻ってきて、サンジはゆっくりと覚醒した。

生まれてよりこの方、背中の瘤のせいで仰向けに眠ったことがなかった。
自然に横向きに寝そべる傾いた視界の中にゾロの腕を認めて、安堵の息をつく。
「気がついたか?」
ゾロは、サンジのすぐ真横に座り顔を覗きこんで、髪を撫でていた。

ずっと側にいてくれたのかと、嬉しくなる。
うまく声に出せずに微笑み返して、ふと窓から差し込む明るい光に気付いた。


「あ・・・」
慌てて飛び起きかけるのをゾロは制して腰から支える。
よろめきながらもゾロの肩に縋って、サンジはゆっくりと起き上がった。
「しまった、今何時だ。」
「昼前だが・・・大丈夫だ。マーサに言ってある。」
「言ってあるって・・・」
見れば、暖炉の前には布巾を掛けられたパン籠がこんもりと置かれていた。

「お前の具合が悪いってな。だから今日は休むと言ってある。」
ほっとして、サンジは改めて一人で頷いた。
「あながち、嘘でもないだろう。」
ゾロの声にはっとして、恐る恐る背後を振り返る。
視界の隅にちらちらと白いものが写った。

「見えねえか?羽根だよ。」
「・・・」
あまりのことに声も出ず、ぱちくりとゾロを凝視したまま瞬きを繰り返した。
「てめえのこの、肩甲骨の辺りから、丁度うまい具合に羽根が生えてたんだ。つっても翼じゃねえな。羽毛が固まって生えてる。飛ぶのは無理だ。」
至極あっさりとそう言われても、サンジには頭が付いていかない。
「・・・人間に、羽根が生えるもんなのか?」
口に出してから、ああと思った。
幼い頃から言われ続けて来たじゃないか。
自分は悪魔の子だって。
きっと、人間じゃないんだ。

一人で傷付いた顔をするサンジの項垂れた首筋をそっと撫でて、ゾロは肩を抱き寄せた。
「痛くは、ねえか。」
「・・・痛く、ねえ。」
「まあ、皮一枚切っただけだ。出血が酷く見えたのは、ずっと溜まってた血と膿瘍が流れ出ただけだ。」
そう言って、安心させるように抱いた手に力を込める。
「身体に羽根が生えてる人間の話を、俺も聞いた事がある。天使ってんじゃねえ、単なる突然変異だ。そう珍しいことじゃねえ。」
「・・・そうなのか?」
ゾロはサンジの痩せた両肩に手を掛けて、正面から見据えた。

「前に俺が話して聞かせただろう。この世界は広い。あの料理長の10倍くらいでかい巨人族って人種もいる。
 海の魚と人間が合体したような、魚人ってのもいる。まだまだ、俺が知らない人種もいっぱいいる。お前は何一つ、珍しいもんじゃねえんだ。」
「・・・」
「背中に羽根が生えてるくらい、なんでもねえ。あんな瘤背負ってるより、すっきりしたろう?」
言われて素直に頷いた。
明確な痛みはないが、常に腫れぼったく引き連れるような違和感が背中にあったのだ。
それが今は妙にすっきりして、傷口が風に触れる小さな痛みはあっても顔を顰めるほどでもない。

「けど、俺こんなんじゃ・・・」
先のことを思って、サンジは思わず弱音を吐いた。
ゾロは珍しくないと言ってくれるけれど、ここではさらに異端視されるに違いない。
この姿を見て料理長たちがなんと言うか、想像しただけで気が重くなった。
カヤは多分、喜ぶかもしれないけれど。

「いっそ、お前の刀で斬り落としてくれねえか?」
本気でそう言ったのに、ゾロは笑って取り合わない。
「よく似合ってっぞ。破れた皮膚は余計な部分は切り取ったから、すぐに傷口も塞がる。骨から直接生えてっから、
 動かすことはできねえだろうけどな。」
暢気な物言いに少し腹が立った。
「冗談じゃねえ、お前はもうどっかいっちまうから関係ねえだろうけど、残された俺はどうなるんだよ。」
言ってから、しまったと思った。
それこそ、ゾロにとっては関係のないことだ。
こんなことで八つ当たりなんかするもんじゃない。
ゾロに愛されて、無意識に思い上がった自分の言動に愕然として恥じる。

「ごめん、今のは忘れてくれ・・・」
蒼褪めて首を振るサンジの顔を、ゾロはじっと見つめて言った。

「俺と一緒に、来い。」
力強い言葉に、それでもサンジはおずおずと顔を上げて見返す。
「春を待たずに、今すぐ俺とここを出よう。」
改めてそう言われて、ぎゅっと両手を握り締められた。
その掌は、まるでサンジを勇気付けるかのように熱い。

「構わねえだろ。てめえがここにいて、なんになる。」
はっきり言われて、返す言葉もなかった。



幼い頃拾われて以来、恩返しをしようと必死で働いても自分はいつも厄介物扱いだった。
どこへでも出て行けと、何度言われたかわからない。
結局どこに行く当てもなくて、ずっとここに住み続けただけで・・・
今更ながら、自分の価値のなさに愕然とする。

「けど俺は・・・」
「俺と一緒に来てくれ。俺にはてめえが必要だ。」
俯いたサンジからゾロは目を逸らさず、顎に手を掛けて上向かせた。

「俺と一緒に旅に出て、ずっとてめえの飯を食わせてくれ。一緒に色んなものを見ねえか?」
あまりのことに、声も出ない。
何か言おうと開きかけた唇は戦慄いて、喉の奥から搾り出される息は泣き声のようにしか響かなかった。
「お前に海を見せてやりてえ。」

海を―――
果てなく続く空と似て、違う色の蒼――――



「空と海が混じり合う果てを、てめえに見せてえ。」
「ゾロ!」
感極まって、サンジは泣きながらゾロに縋りついた。
細い身体をしっかりと抱き止め、ゾロはその髪に頬擦りする。

「一緒に行こう。誰にも知らせず、今夜二人きりで―――」
サンジはただこくこくと頷き、ゾロの胸元を涙で濡らした。















冬枯れの木立が立ち並ぶ屋敷への道を、サンジは振り返りぼんやりと眺めた。
思い出してみれば、どれもこれも暖かな思い出ばかりだ。

森から助け出された記憶はまったく残っていないが、物心ついたらいつも側にはゼフがいてくれた。
広い厨房で、怒鳴り蹴りながらも、ゼフは決して自分を厭わず側にいることを許してくれた。
ゼフの手元を盗み見ては、サンジはいつの間にか料理を覚え、作る楽しさを見つけることができた。
心優しい旦那様も、まるで我が子のように慈しんで育ててくれた。
カヤの勉強の時間には一緒に立ち合わせてくれたお陰で、簡単な読み書きはできるし、ゼフのレシピノートだって
ちゃんと理解できる。
優しいカヤとウソップに助けられて、マーサ達にも可愛がられて、ここの暮らしは本当に幸福だった。

改めて胸に熱いモノが込み上げて、サンジはずずと鼻を啜った。
ここから眺める屋敷の赤い屋根も、風に飛ばされそうな風見鶏も、春や夏はまるで絵のように美しい広い庭も、何もかもを想い出の中に焼き付けようと、潤む目を見開いてゆっくりと眺める。


持ち出すほどの荷物はない。
着古した衣類と、小さなフライパンに鍋、その程度だ。
枯れた枝を踏んで通い慣れた厨房への道を歩けば、料理長の居丈高な声が聞こえた。









「サンジと随分仲良くやってるみてえじゃねえか。」
あからさまにからかいを含んだ言い方で、サンジは足を止めて繁みに身を寄せる。
ゾロは別に振り返るでもなく、干草を集めながらまあなと応えた。
「大した物好きもいたもんだ。よくあんなの見て勃つな。」
怒りと恥ずかしさから、カッとサンジの頭に血が昇った。
今すぐ耳を塞いで逃げ去りたくなる。

「うちのカミさんが、最近サンジが綺麗になったとふざけたことを抜かすようになった。ったく、あんな気味悪いガキをよく手なずけたもんだ。」
ゾロはフォークを持った手を止めて、料理長に向き直った。
また掴み掛かられるかと身構えた料理長に、にやりと笑って見せる。

「あんたの目が、節穴で助かったぜ。」
「なんだとお?」
「あいつは、花さ。」
ゾロの穏やかな声に、料理長は一瞬呆けたような顔をして、それから赤い顔をして怒り始める。
「なに戯言言っとるんだ、からかう気か?」
頭から湯気でも出しそうな料理長に、ゾロはやんわりと手を振って頭を下げた。
「そんなつもりはねえよ。邪魔したな。」
そう言ってくるりと背を向けると、せっせと作業を続ける。
料理長は何か言いたそうだったが、相手にされないとわかったのかどすどす足を踏み鳴らしながら去っていった。





サンジはその後ろ姿を見送りながら、ゾロが呟いた言葉を胸の中で反芻する。


『あいつは、花さ。』

いくら考えても、その言葉の意味はわからなかった。



小屋の中を、元の物置以上に綺麗に掃除して暖炉の火を消した。
テーブルの上には、カヤとウソップにあてた手紙。
そしてカヤの大好きだったケーキのレシピ。
散りそびれた山茶花を添えて、サンジはそっと席を立つ。

もう一度振り返り、ここに長く住んでいた気配すら消えた小屋の中をもう一度見渡す。
誰もいない空間に深々と頭を下げて、サンジは静かに扉を開けた。



ひゅうと吹きつける風は、粉雪を纏って踊るように足元を舐め、コートの端をはためかせる。
月もない闇の中で、漆黒の鬣を撫でながらマントを一枚羽織ったきりのゾロが待っていた。
黒い森の向こうからどっどどと低い咆哮のような地鳴りが響いて、旅立つ意思を挫かせる。
怯えて歩みの止まったサンジの腕を掴んで、ゾロは顔を寄せると笑いかけた。

「旅立ちにふさわしい、嵐だ。」
何の恐れも気負いも感じさせない、頼もしい笑顔。
こいつと共に行けるなら、例え嵐の雪山で行き倒れても決して後悔しないだろう。

黒い森で、一度は死に掛けた儚い命だ。
一度くらい、己のために生きる道を選んでみるのも、悪くない。

「ああまったく、俺達に似合いだ。」
サンジがそう返すと、ゾロは声を立てて笑って、サンジを片手で抱き上げたまま馬に飛び乗った。

ぶるるんと馬が嘶き、前足で宙を書くと一目散に駆け出す。
「うわ、馬鹿ゾロッ・・・落ちるっ」
「ちゃんと捕まってろ、飛ばされんな。」
前を向いて座らないまま走り出されて、サンジはゾロにしがみ付く格好で両手と両足を腰に絡めた。

「この馬鹿、乱暴者。」
「物より軽いな。お前、羽根のようだ。」







風が雪が、暗い景色が矢のように飛び去っていく。
フードをすっぽりと顔まで被って、サンジはゾロにしがみ付いたまま笑い出した。

初めてこの村を出るのに、胸は躍り全身の血が逆流したかのように熱く高鳴る。
伺い見れば、ゾロは真っ直ぐ前を向いたまま、口歯しに笑みを留めてひたすら馬を駆っていた。
片手は手綱を握り、もう片方の手でしっかりとサンジを抱き締めて。

もうなにも、恐れることはない。
サンジもしっかりと前を向き、暗闇に吸い込まれるような吹雪の向こうを見据えて走った。


























「この吹雪に山を越えて来たって?正気の沙汰じゃねえなあ。」
背中の傷と疲労のせいか、ゾロの腕の中で殆ど意識を失ったようにくったりと寝てばかりいたサンジは、初めて立ち寄った山小屋で村を出てから既に二晩過ぎていることに気付いき吃驚した。
三日も寝ずに、馬を走らせていたというのだろうか。

「急ぐ旅じゃんねえって言ってたのに、なんでそんな無茶を・・・」
ゾロの背後で、宿の主人から隠れるように身を寄せて呟く。
ゾロはそれには応えず、手早く金を払うとサンジの腕を引っ張って軋む階段をさっさと上がった。




部屋に入りコートを脱ぐと、ゾロは漸く一息つけたとばかりに伸びをして、ベッドに倒れこんだ。
そんな姿になんと声を掛けてよいかわからず、サンジはそのまま立ち尽くす。

「・・・急いでる、訳じゃねえんだ。」
ゾロは天井を見つめたまま独り言のように呟いた。
「だが、冬が来る前に北から離れた方がいいだろ。進めるうちに進んどいた方がいい。」
「進むって・・・」
がばりと起き上がり、にっと笑う。

「南だ。ちょっとでもあったけえ方がいいだろ?」
ああ、とサンジは気がついた。
「そっちに、海があるのか?」
ゾロは微妙な笑みを浮かべた。
それを正解と受け取って、サンジは破顔する。

「そっか、海か・・・」
憧れの海を、この目で見られる。
そう思っただけで、馬に揺れ続けて痛む身体も寒さに凍えた夜も全部吹っ飛んでしまった。

「ゾロ・・・」
それでもおずおずと、ゾロの前に立って両手を伸ばす。
ゾロは同じように両手を上げてその腕を取ると、柔らかく引き寄せて抱き止めた。

「ゾロ、冷てえ・・・」
「すぐあったまる・・・」
「違・・・シャワー浴びてから・・・」
背けたサンジの顔を追いかけてゾロが口付けると、二人の間でくう〜と腹が鳴った。
顔を見合わせ、どちらともなく噴き出す。
「それと、飯な。」
サンジを抱えたまま勢いよく起き上がり、食事を頼むために階下へと降りて行った。







誰かが作ってくれた食事を食べることも、壁一枚隔てたところに他人が寝起きしている状況も、サンジにとっては初めてのことだらけだ。
それでも、側にゾロがいるから何も不安に思わない。
けれど―――

ゾロは、いつも何かに急かされているかのように見える。
宿を出れば、過酷なほどに馬を走らせ、休憩もろくに取らない。
いくつもの山を越え、途中怪しげな輩に遭遇しても、それと気付く前に全部蹴散らして前へと進んでいる。
サンジは馬上ではゾロにしがみ付いたまま殆どうつらうつらとしていたから、気付かないことも多かったのかもしれない。

そうして、一旦宿に入れば、今度は貪るようにサンジを抱いた。
まるで時間を惜しむかのように、忙しなくひたむきにサンジを求める。
そのことがサンジを不安にさせたが、弱音を吐きたくはなくてゾロには何も言わなかった。
















村を出てから1週間走り続けた頃、大きな街に出た。
サンジは馬上から街並を眺め、眩暈を起こしそうになった。

人、人、人・・・
色とりどりの店や屋台。
色んな服装をした人たちが行き交い、馬だけでなく変わった動物が闊歩している。

「すっげーでかい街。」
「まだ街じゃねえ。ここは入り口の手前だ。」
ゾロは馬の歩みをゆっくりにすると、壁伝いに進む。
サンジは上を見上げて、それが城壁だと気付いた。

「街って、この中?」
「ああ」
高い長い塀がどこまでもどこまでも続いている。
所々兵士らしき集団がいて、強固な警備を見せ付けるかのようにいかつい顔で辺りに目を配っていた。
その中の一人がゾロを呼び止めた。
「城内は馬では入れん。入りたいなら南へ行け。」
それにああ、と頷いて懐から何か取り出し兵士に見せた。
「城内に入りたい。先導を頼む。」
兵士は目を眇めて馬上の二人をじろじろと眺め、了解したと自ら馬を走らせ合図した。

裏門が開けられる。
サンジはゾロにしがみ付いたままフードを目深に被って、何事かと成り行きを見守っている。
表の喧騒とは打って変わって静かな裏道を、兵士に導かれてゾロはまっすぐ城に向かって走った。









サンジは夢を見ているような心地で、目の前の光景をぼんやりと眺めていた。
城壁の中に入ってもまた白壁作りの家々が立ち並ぶ巨大な街が広がり、更にその奥にこんもりと大きな森があり、更にその上に、強固な石造りの城が聳え立っている。

「すげえ・・・」
知らず漏れ出た声も、風を切る音に掻き消される。
青く晴れ渡った空の下、土煙を巻き上げながらゾロはその城を目指してひた走っていた。

森を抜ければ更に内堀があって跳ね橋が下ろされる。
華やかな街の賑わいとは対照的に城の裏門は陰気で物々しい雰囲気だ。
ゾロの到着と共に門が開かれ、頑健な鎧を身に纏った男が出迎える。

「よくぞ、帰られた。」
ゾロの腕の中のサンジにちらりと視線を走らせ、鷹揚に頷く。
ゾロはサンジを抱えたまま馬から下りると、男に向かって目礼し、サンジに振り返る。
「ここは知り合いの城だ。しばらく休ませて貰おう。」
知り合いの家だ、と言うような口調だがそれにはあまりに不似合いな、荘厳な城だ。
サンジは怖気づいて、ゾロのコートを引っ張った。

「知り合いって、ゾロはここで働いてたってことか?まさか、城主様が知り合いなんてこと・・・」
ある訳ないよなと続くはずの軽口は、途中で途切れる。
ゾロが、あまりに固い表情をしていたので。

肩を抱いた手が一瞬ぎゅっと強く握られて、離れた。



馬の手綱を馬番に預けると、サンジに向かって手を翳す。
「俺はこれから挨拶があるからな。お前は先に入って待っていてくれ。」
「そんなっ・・・」
伸ばした手に触れぬように、ゾロは一歩下がってコートを翻した。


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