堕天花 3

実際、ゾロは下働きにもの凄く間に合う男だった。
あれしろこれしろと頼めば、言われた以上に手早く用事を済ませてくれる。
ウソップが根回ししてくれたお陰で、他の使用人達も表立ってはサンジを責めなかった。

「んじゃ次はこっちを頼むよ。」
ゾロの仕事ぶりを気に入って、下男たちが興味半分で仕事を持ち込んでくる。
その礼にか食糧は二人分以上提供してくれるし、馬のために干し草も調達してくれた。

「ここで冬を越すかな。」
冗談交じりにそんなことを言うゾロを、サンジはそっと伺い見て慌てて目をそらす。
それに気付いた料理長がわざとらしく声を立てて笑った。

「どこの馬の骨ともわからねえ同士、せいぜい仲良くやるこったな。おいサンジ、いくら女に相手にされねえからって、男銜え込む技量があったたあ驚きだ。」
「・・・!」
サンジが言い返す前に、ゾロが動いた。
小山のようにでかい料理長を片手で掴み上げ、もう片方で拳を作る。

「ちょっと待て、止めろてめえ。」
慌てて間に入るサンジにも、ゾロは凍るような眼差しを投げた。
「てめえもてめえだ。侮辱されてなにヘラヘラしてやがる。怒らねえから、馬鹿にされんだぞ。」
「うっせ馬鹿、早く下ろせっ」
ゾロはぐいと腕を引いて、乱暴に払った。
料理長はどさりと派手な音を立てて床に転がり、慌てて立ち上がる。

「この狼藉者が!お屋敷に訴えてお前共々追い出してくれる!」
「そりゃ願ってもねえなあ。」
にやにやと笑うゾロに仰天して、サンジは思い切り足を踏んだ。
「黙ってろ阿呆!すんません。俺がよく言って聞かせますんで・・・」
「ああそうしてくれ。この乱暴者は、どうやらお前の言うことは聞くらしいな。大した物好きもいたもんだ。」
また何か言いそうなゾロを制し、サンジは頭を下げ続けた。







「ったく、けったクソ悪いでくの坊だ。」
ゾロは小屋に帰ると、乱暴に上着を投げ捨てて暖炉をかき回した。
「お前こそあの程度で熱くなんな。ほんっと馬鹿のつくほど単細胞だな。」
サンジはもう抵抗なくコートを脱ぐと、ゾロの上着とともにハンガーにかける。
「あの、カヤって女は確かにいい子だ。お前のことも大事に思ってる。ウソップってのもそうだな。だが、あのでくの坊はどうもいけねえ。」
「だから単純馬鹿だって言ってんだ。カヤお嬢さんやウソップや、てめえのが変わり者なんだ。料理長達は真っ当だよ。」
サンジは卑屈な素振りも見せずそう言い、タバコを取り出した。
「何が真っ当なもんか。ちっと目の色が違うだけでなんだってんだ。背中に瘤があって誰に迷惑かける?」
まだ怒気を孕んだゾロの言葉に、サンジは深く息を吐いて顔を上げた。

「よそモンのお前には到底理解できねえだろう。街を歩いてるだけで、石を投げ付けられるんだ。目が合えば不吉だと罵られ、病気の子供が死んだのはお前のせいだと詰られる。そんな気持ち、てめえにゃわからねえだろう。」
淡々と、諭すようにそう言われ、ゾロはぐっと言葉に詰まった。
「見ただけで不快になるような俺みたいなのは、本当はこんなとこにいちゃいけねえ。けど、どこにも行く当てはねえからな。せいぜい誰にも会わないように、ひっそりと暮らしていくのが一番だ。ここの暮らしは気に入ってる。食事の下拵えをするのも、掃除をするのも性に合ってる。俺にはカヤお嬢さんもウソップもいる。春になれば・・・」
そこで窓の外を見て、目を細めた。
「北の森から狐や狸が遊びにくるんだ。リスだって可愛いぞ。そいつらと一緒に飯を食うのはすげえ楽しい。」
「てめえ・・・」
口元に持って行き掛けた手を止めて、ゾロは細い手首を握った。
あかぎれだらけの指は所々破けて血が滲み、節が腫れている。
氷のように冷たいそれを握り込んで、己の口元へと誘った。
はあと暖かな息を吹きかけられ、雷に撃たれたかのようにサンジが身体を震わせる。
逃げようと引く背中に腕を回し、ゾロは顔を一層近付けた。

サンジの背中は予想に反して妙に柔らかい。
確かめるように手でなぞれば、振り払うより先に足を蹴られた。
それでも離れず、なお身体を密着させる。

「よせ・・・てめえ・・・」
「冷てえ手、しやがって・・・」
唸るようなゾロの声。

「だがこいつが、美味い飯を作るんだ。」
ぴくんと、サンジの動きが止まった。
「てめえの仕事は丁寧だって、マーサって女が言っていた。庭の手入れもちゃんとしてくれるってウソップが言っていた。お前が煎れる紅茶が一番美味いってカヤが言っていた。なあてめえ、色んな奴らに愛されてんじゃねえか。」
ゾロの手の温もりが、サンジの指の強張りを溶かす。
全身の血が逆流したようで止まらない動悸と火照りに、サンジはただ戸惑った。

「見てくれがどうのとてめえは言うが、俺にはてめえが綺麗に見えるぜ。まあてめえには迷惑なこったろうが。」
「ああ、迷惑だ。」
サンジは横を向いたまま、吐き捨てるように怒鳴った。
「やっぱりてめえはもう出て行ってくれ。春までなんて、とんでもねえ。このまま雪が降ったら本気でてめえは出られなくなる。だからもう・・・」
白く尖った頤に手をかけて、ゾロはゆっくりとサンジを振り向かせた。
長い前髪から覗く目元は、濡れた睫毛で金色に縁取られて、やはり潤んでいる。

「そんな風に、弱みをみせるな。」
「弱みなんか―――」
きっと向き直る頬に、ゾロの唇が触れた。
「どうしたって触れたくなる。嫌なら逃げろ。」
口ではそう言いながら、ゾロはサンジを壁際に追い詰めて両手で強く抱き締めた。

大きな手で全身を覆われるように抱き締められて、サンジは危うく気を失いかけていた。
こんな風に、誰かに触れられることなんて、もう何年もない。
凍て付いた森から助け出された、あのゼフの暖かな掌の感触が不意に甦り胸を熱くする。
けれどこれは、あの時とは違う。
包み込むようなぬくもりではなく、激しく焼き尽くすような熱の塊。

サンジはただ本能で恐れて、逃れようと身を捩った。
ゾロはそれを許さず、熱い吐息と共にまた上気した頬に唇を押し当てる。
それがキスだと、頭で漸く理解して、サンジは泣き声を上げた。

「・・・からかうな。」
ゾロは驚いたが、抱き締める腕の力を緩めなかった。
「俺にこんな真似をして、何が狙いだ。」
「触れたいと、そう言っただろう。」
どくどくと馬鹿みたいに踊る心臓の鼓動が聞こえなければいいと願う。
こんなにも逆上せ上がって眩暈すら感じるほど動揺してるなんて、悟られたくはない。
なのに鼓動はサンジの耳元まで上ってきて、吐く息が荒くなってしまった。
唾を飲み込むことさえ、恥ずかしくてできない。

「男の俺に、想われるのは迷惑か?」
サンジは口元を引き締めて、唾を飲み込んだ。
ぎゅっと目を瞑り、ぶんぶんと首を振る。
「俺は、ホモじゃねえんだから・・・」
「嫌か?」
「・・・」
しつこく問われて、ただ首を振る。
赤く染まった顔も震える肩も、嫌がっているように伝わればいいと思う。
なのにゾロはその手を緩めない。



「サンジ」
ゾロの声が、唇から届いた。
口端に押し付けられて、逃げようと傾ける首の動きにそのままついてくる。
止めろと言い掛け開いた唇を、ゾロの舌が掠めた。
思わず驚いて目を瞠るのに、視界がゾロでいっぱいになる。
唇を重ねられ、強く吸われた。

初めての感触に身震いして、いやいやをするように首を振った。
それでもゾロは離れない。
首を傾け、更に深く重ねて食むように動かした。
唇からの感覚でいっぱいいっぱいになって、サンジはただゾロのシャツを握ることしかできない。

ねとりと歯の裏まで舐められて、嫌悪が湧き上がるより慄いた。
俺の口を吸うなんて。
こんな汚い、醜い俺の―――
手ずから物を受け取る事さえ、厭う人間がいるのだ。
こんな姿を目にしただけで、今日は一日ついてないと零す人間も、たくさんいる。
なのに、まさかこうして抱き締めて、キスしてくる奴がいるなんて・・・



キス、だよなあ。
マーサが旦那と挨拶に交わすキス。
今は亡きご主人様が、カヤを抱き締めて贈ったキス。
ウソップとカヤが、木陰でそっと触れたキス―――
それらの、どれでもないこんなキスは・・・


ちゅ、と音を立てて、ゾロの唇が離れた。
それなのに、まだそこから発火しているかのように貌が熱くて、サンジは目を開くこともできない。
ゾロの指が、額にかかるほつれ毛を掻き上げ髪を漉く。
その動きに促されるかのように、サンジはゆるゆると目を開けた。
思いのほか近いところにゾロの貌があって、微笑みを浮かべたままじっと見つめている。
気恥ずかしさに目を伏せて、改めて自分の手がゾロのシャツを握り締めているのに気付いて赤面した。

俯くサンジの前髪をもう一度くしゃりと掻き混ぜ、ゾロは静かに立ち上がる。
「てめえはそろそろ夕飯の支度だな。俺あちょっと、馬走らせてくる。」
言い置いて戸口から出て行く広い背中を見送って、サンジはようやく詰めていた息を吐き出した。




とくとくとくと心臓が小刻みに震え続ける。
それに呼応するように耳鳴りが響いて、目の前は赤く染まって見えた。

他人に、ゾロに・・・
触れられた。
この唇から熱を注がれて、舐められて吸われて・・・
あんなにも深く・・・

ぶるりと大きく震えて両手で自分の身体を抱いた。
どうしよう
どうしよう
鼓動が鳴り止まない。
指の震えが止まらない。
全身を逆流したかのように熱く迸る熱が、冷めない。

どうしよう
どうしよう

俺、嫌じゃない――――


サンジは俯き両手で顔を覆って、助けてと呟いた。










相当ぼんやりしていたらしい、気がつけば玉葱は芯まで剥かれて皮と中身がごっちゃになって籠に詰まれている。
保存用のジャガイモまで水に濡らしてしまったし、人参は葉の方を渡してしまった。
料理長は何か激しく罵っていたけれど、全然耳まで届いてこない。
とにかく、何を見ても触れてもフィルター越しに眺めているみたいで、ぼんやりとしている。

雪に備えて庭を手入れしてくれたウソップが、休憩がてら厨房裏に遊びに来た。
芋を焼いて、バターをつけるのを忘れてそのまま手渡して苦笑される。

「まったく、心此処に在らずって感じだな。」
あちちと手の上で芋を転がしながらウソップが笑うのに、サンジは呆けた返事を返す。
「それにしても、あのゾロってのはほんとに単なる迷子なのか?まあ、この辺は村からも外れてっし、お屋敷は広いから迷い込むのもわからないでもねえけどなあ・・・」
「ああ、あれは迷子だ間違いないぞ。こないだも薪拾いに裏山に入って、一晩帰ってこなかったことがある。」
ゾロの話を振れば即座に反応するサンジは、実にわかりやすい。

「なんか当てなく旅してるらしいけど、剣士なんだってさ。」
小屋の隅に立てかけられた三本の刀を、サンジはいつも恐々眺めている。
「へえ、剣士か。なるほどなあ。多分名のある奴だと思うぜ。」
「え、ほんとか?」
「だってあの馬見てみろよ。すげえいい馬だ。あんなの乗りこなせるなんて、只者じゃねえよ。」
「・・・そうなのか・・・」
サンジはいつもウソップの言うことを素直に鵜呑みにする。
世間知らずな上に親しく話ができる相手も限られているからで、ウソップはそのことを知っているからサンジに限ってはホラ話はしなかった。
冗談に、ならないのだ。

「悪い奴じゃねえとは、思うけどな。」
「ああ、見た目は凶悪だけど、全然悪い奴じゃねえ。」
勢い込んで言うサンジに、ますます苦笑いする。
「まあ、俺のお袋はイーストの出身だから言うんじゃねえが。あっちの土地柄は結構大らかで気さくらしいから。だから肩持つんじゃねえがな、少なくともここみたいに閉鎖的じゃねえ。特にこの村は、四方を山に囲まれて領主もここだけで、殆どが近親婚で暮らしている、どっちかっつううと特殊な村だ。」
「そうなのか?」
サンジは吃驚した。
今暮らしているこの村だけが世間のすべてで、それが真っ当だと思っていたから。

「世の中はもっと広いんだぜサンジ。山を越えればまた山がある。その向こうには海ってえ、でっけえ水溜りが
 果てなく広がってるって話だ。この空と同じくらい広い広い水溜りだなんて、想像できるかよ。」
サンジはまるでそこに海があるように、暗い空を眺めて、ぶんぶんと首を振った。
「けどおふくろは、その海から来たってんだ。これは俺のホラ話じゃねえぞ。」
「ああ、知ってる。だってゾロも海を知ってるんだ。」
サンジはキラキラと目を輝かせる。

「昔じじいが言っていた、すべての魚が集うような青い青い綺麗な海があるんだって。海の中にまたあるんだって。ゾロが海を知ってるなら、その海もきっとある。」
サンジはそっと前髪を掻き分け、左眼を曝した。
ウソップは唯一、この片目を厭わない人間だ。

「この、俺の目の色もゾロは綺麗だと言ってくれた。右は空で、左は海の色だって・・・」
最後は消え入りそうな子でそう呟いて、もごもごと口を閉ざす。
耳まで真っ赤に染まって、へにょんと下がった眉が、言うんじゃなかったと後悔しているように見える。

「へえ、ゾロがそう言うんならきっとそうだろう。俺もお前の目の色は、前から綺麗だと思ってた。」
思わぬ言葉に、サンジはきょときょとと視線をめぐらして、落ち着きなく手を擦り合わせた。
「い、いいいいや、別にそんなこと・・・」
「照れんなよ馬鹿。どうせてめえは俺の言うことなんか、半分くらいしか聞かねえんだから。
 ゾロが言ってくれてよかったよ。」
「いや、別に・・・ゾロはな・・・」
「あ、ゾロだ!」
「えっ」
飛び上がって振り向くサンジに、ウソップは爆笑した。

「悪い悪い、間違えた。松の木だあれは」
「この野郎〜〜〜っ!」
頭から湯気を出して飛び掛るサンジからウソップは笑いながら逃げ出し、じゃあまたなと手を振り駆けて行く。
サンジは真っ赤に頬を染めたまま、その姿を見送っていた。










夜も更け凍るような星空が黒い森の彼方まで広がっている。
仕事を終えて小屋に戻ってもゾロはいなくて、サンジはもうさっきから何度も小屋の中をうろうろと歩き回っていた。
いくら迷ったとは言っても、こんな夜は下手すれば凍死しかねない。
心配で堪らなくてコートを羽織れば、遠くで馬の嘶きが聞こえた。

「ゾロっ!」
息せき切って戸口から飛び出せば、湯気を立ち昇らせて漆黒の馬の形が闇に浮かび上がっている。
「ゾロ、遅え・・・」
「悪い・・・」

がしがしと頭を掻いて降りるゾロに、サンジは心底ホッとした。
「湯が沸いてるから、早くあったまれ。食事にしよう。」
「待ってたのか。」
「・・・別に。」
そっけなくそう言って踵を返すサンジに、ゾロは背中から声をかけた。

「今夜は、馬小屋で寝る。」
「なんでっ?」
驚いて振り向くサンジに、ゾロは困ったように笑いかけた。
「もう、一緒にはいられねえ。」
「・・・なんで・・・」
理由に思い当たって、サンジの顔から血の気が引いた。
がたがたと足元が震えるのは、寒さのせいばかりではない。

「そんなの、風邪引くだろ馬鹿。俺が、俺が嫌なら・・・俺が出てくから・・・」
「嫌、じゃねえ。逆だ。」
真っ青な顔で首を傾げるサンジに、ゾロは小さく首を振ってゆっくりと近付く。
「お前が好きだから、触れたくなると言っただろう。」
そっと頬に添えられた手は、ゾロのものとは思えないほど冷たい。
けれど、それが心地いいほどサンジは一気に逆上せ上がった。

「こんな狭い部屋で一緒に寝ちゃあ、俺はてめえを抱いちまう。」
「・・・」
サンジは息を呑んで、ただゾロの顔を凝視した。
もう、視線を逸らすことさえできない。
今ゾロは、なんと言った?

「・・・お前を、抱きたい。」
もう一度、ゆっくりとゾロはそう告げ、サンジに顔を近付けた。
瞬きもせずその動きを目で追って、サンジは視界のすべてがゾロで埋め尽くされるのを待つ。



コートの上から抱き締められて、冷たい唇が触れた。
吐く息で目の前が白く煙り、遠く瞬く星々が霞む。
合わせた唇から命を吹き込まれたように、そこだけ暖かくて柔らかな感覚が広がる。
両手で手を合わせ、でくの坊みたいに突っ立ってゾロの口づけを受けながら、サンジはもう今死んでも構わないと思った。
こんな風に、誰かに求められる瞬間が来るなんて、思いもしなかったから。


動かないサンジを了解と受け取って、ゾロはそのまま腰に手を添えて抱き上げた。
あまりに軽い感触に驚いて一瞬唇を離す。
気付いて、サンジがあ、と声を出した。

「・・・あの、俺・・・なんか軽くて・・・」
生まれつき、体重が足らないのだ。
ゼフや領主もそのことで随分心配してくれたが、どうしても体重が増えることはなかった。
サンジのたどたどしい答えに、ゾロはくしゃりと顔を崩した。
嬉しくて堪らないと言った風な、全開の笑顔。
サンジの胸が、音を立ててきゅうと締まる。


「問題ねえ。」
そう言ってまた愛しげに唇を合わせ、サンジを抱えたまま大股で小屋に入った。



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