堕天花 1



北に佳人あり

黄金 瑠璃 破璃に真珠
あらゆる宝物をもってしても換え難き 
無ニの花

ひと目見れば 城を傾け
ふた目見れば 国を傾ける

城を失い、国を滅ぼしたとしても
手に入れたい――――


ノースの夏は短い。
秋の訪れを待たずに、すぐに冬がやってくる。
実際「秋」と言うものをあまり知らないで、サンジは過ごして来た。
空を見上げれば夏より遠く青が輝いて見える。
これが「秋」だと、その程度の認識だ。

直に降って来るな。
吐く息の白さに目を細め、サンジは両手を擦り合わせた。



木枯らしが、急激に枯れ行く木々の合間を通り抜けて行く。
ふと、軽快な馬の足音を聞いて、サンジは水を汲む手を止めて顔を上げた。
屋敷の私有地である並木道の向こうから、黒い影がゆっくりと近付いて来る。

今日は、来客の予定はなかったはずだが―――
だが、屋敷内に入るには正門を潜るか高い塀を飛び越えるかしなければ無理だ。
サンジはフードをそっと持ち上げて目を凝らした。



黒い馬だ。
どこにも斑がなく真っ黒な毛足に漆黒の鬣の、恐らくは相当大きな馬。
時折ぶるると首を震わせ揺らしながら、ゆっくりと近付いてくる。
艶やかな胴回りや背中からは、湯気が立ち上りそこだけが白く煙って見える。

猛々しい馬の背に、男が一人乗っていた。
薄汚れたコートを羽織り、やはり体躯から湯気を立ち上らせでもいるかのような堂々とした姿勢でこちらを
真っ直ぐ見ている。
客人では・・・ない。

サンジは咄嗟に立ち上がり両手を広げた。
「誰だてめえ、止まれ。」
夢中で声を張り上げたが、語尾がかすかに震えた。
知らない人間と対峙するのは、初めてだ。

男は素直に馬の足を止め、太くなだらかな首筋を片手で撫でて、軽やかに飛び降りた。
拍子に肌蹴たコートの隙間から刀が見えて、ぎょっとして立ち竦む。
男はコートを身体に巻きなおすと大股でサンジへと近付いてくる。
ここで引き下がっては負けだと、サンジは必死の思いで踏ん張って睨み返した。

「なんの用だ。」
「ちと尋ねてえ、ここはどこだ?」
「はあ?」
男の問いが理解できず、サンジは目を見開いたまま間抜けに返す。

「多分ノースに入ったと思うんだが・・・一向に街らしいとこは見えて来ねえ。ここはどの辺りだ。」
男は胸元を探ると古びた地図を出して来た。
サンジは訝って男と距離を取りつつその身なりに目を走らせる。
人ん家に入り込んでここはどこだと聞く辺り、単なる迷子か強盗か・・・
見た目は後者に近いのだが・・・

よく見ればコートの下から覗く腕に血の筋が伝っている。
サンジは益々警戒して、ほんの少し後ずさりした。

「てめえ・・・なにやらかしてきた・・・」
「あ?」
サンジの問いに普通に顔を上げる男の顔に、凶悪さはない。
よく日に焼けた褐色の顔立ちは精悍で、目つきはきつそうに見えるが瞳の色は柔らかな鳶色だ。
珍しい、若草色の髪をしている。

「その・・・血・・・」
サンジは知らない人間に見られるのも初めてで、フードを目深く被ったままおずおずと指をさし、また少し後ずさった。
ああ、と男が気の抜けた声を出す。

「大丈夫だ、オレの血じゃねえ。ケガしてるんじゃねえよ。」
そう言いながらコートの合わせを外したから、サンジはまた仰天してしまった。
白い半そでのシャツによくわからない緑色のものを腹に巻いた変わった出で立ちだが、その胸から腰にかけて、べっとりと血糊がついて全身朱に染まっている。
「お、おま・・・」
「山を越える時に山賊にあってな。ちょっとやりあってきた。」
なんでもなくそう言って、また地図を掲げる。
どうやら道を尋ねたいらしいが、サンジとしてはそれどころじゃない。

「山賊とだとお?てめえ、あの山越えて来たのか?」
「ああ、なんか3日ほどかかったがな。」
男が指差す山は、この国への一番の近道だが峠に山賊が棲み付いている為すっかり交通が遮断された道だ。
そこを通って来て無傷だなんて、信じられない。
いや、無傷と言うより山賊のが返り討ちにあったんだな。

サンジは改めてぞっとして、目の前の男をまじまじと見た。
男はどこかきょとんとして、サンジを見返している。
「お前こそ、なんでそんなもん被ってんだ。まだ雪は降ってねえだろ。」
そう言って手を伸ばしてくるから、思わす思い切り叩き返す。
ぺちんと思いのほか大きな音が立ったが、男は別段驚くでも痛がるでもなく、太い腕をそのまま素直に引っ込めた。
「街への道さえ教えてもらえりゃ退散する。」
サンジはなんとなくバツが悪くて、伸ばした腕を隠すように袖を引っ張ってまた後ろに下がった。

「そんな格好で街行ったら、大騒ぎになんぞ。」
どうもこの男は身なりに頓着していないようだ。
それが気になってつい余計なことを言ってしまう。
「脱がなきゃわからねえだろ。」
「そうでなくとも、よそ者は目立つ街だ。面倒ごとになるぞ。」
男は初めて困ったような顔をした。
ぐるりと辺りを見回し、井戸に目を留める。

「なら、ちょっとここで身体を洗わせてくれ。」
「なんだとお?」
またサンジは目を剥いた。
この寒空に、井戸で身体を洗おうと言うのか?

「ちょっと水を貸してくれりゃいい。すぐに済ませる。」
「濡れたままどうするつもりだ。」
「着てりゃ乾く。」
「・・・お前、馬鹿か?」
サンジの了解を待たずに男は馬を置いて横を通り過ぎた。
慌てて追いかけ捕まえようと手を伸ばし、引っ込める。
知らない人間に、触れたこともない。

「待てよ、てめえ・・・」
男は小屋の横に設えられた井戸から勝手に水を汲み、コートを脱いだ。
朱に染まったシャツも脱ぎ、バシャバシャと手荒く濯ぐ。
腰に巻いた緑色のものも、どす黒く汚れてあちこちが鉄錆色だ。
一体いつから洗ってないんだろう。

後ろでウロウロするサンジに頓着せず、男は乱暴にシャツを絞ると、そのまま裸の身体を拭き始めた。
馬と同じように、背中から太い首、腕から脇、引き締まった腰にかけて拭われる度、さっと湯気が立ち上る。
思わずそれに見蕩れて、サンジは慌てて我に返った。

男はまたじゃぶじゃぶシャツを濯ぐと、ぎゅうと絞ってパンっとはたく。
そのままそれを着ようとしたので今度こそ本気で止めた。

「待て、いくらなんでも風邪を引く。乾かしていけ。」
言いながら男の横を通り過ぎ、小屋の扉を開けた。
「中、入れ。馬はちゃんと繋いでおけよ。」
男の顔を見ずにそう言えば、黙って後ろからついて来た。








小屋の中は綺麗に片付けられ、ベッドや机が備え付けられている。
暖炉には赤々と火が熾っていて暖かな空気が頬を撫でた。
男は目を丸くして、サンジを追い越しぐるりと見渡す。

「驚いたな、家みてえだ。」
「家だよ、俺の。」
サンジは男に近付かないように遠回りして暖炉に向かうと、火かき棒で軽く掻き混ぜる。
「ちゃんと全部洗ってここに持って来い。すぐ乾くだろう。」
男は無言で頷くとまた大股で外に向かった。









―――おかしなことになった。
あの男は明らかに不法侵入だ。
さっさと追い出すにこしたことはないのだが、このことがお嬢さんの耳に入って怯えさせる訳にもいかないし。

仕方なく湯を沸かしていると、男がまた大股で入って来た。
バタンと後ろ手で扉を閉められて、不覚にもびくりとする。

「すまねえ、助かった。」
そう言ってまっすぐ近付いてくるから、サンジはそろそろと身体をずらして部屋の隅に立った。
「・・・お前、なんでまだそんなもん着てるんだ?」
男は腰に巻いていたものも洗ったらしい。
黒いズボン一枚で、バサバサとシャツを払っている。
水滴が飛んで、サンジは顔を顰めた。

「人の勝手だろうが、とっとと乾かせ。」
男が返事する前に、ぐーっと強烈な音が響いた。
「・・・」
なんとなく、二人黙って顔を見合わせる。
「・・・悪い・・・」
バツが悪そうに男は頭をかくと、くるりと背を向けて暖炉の前に蹲る。
でかい背中が丸まっているのを見て、サンジはそっと一歩近付いた。

「てめえ、腹減ってるのか?」
「ああ。」
「食って、ねえのか?金がねえのか?」
「金はあるが、街に着けなかった。」
そう言えば、山を越えるのに3日かかったって言ったたな。
普通に歩けば一晩もかからないのに、いくら山賊がいたからって、それは蹴散らしたみたいなのに、何で3日もかかってるんだ?

「お前、ずっと飯食ってないのか?」
問えばぐううと腹が答えた。
サンジはやれやれと首を振って、改めてフードを脱ぐ。
暖炉の明かりしかない薄暗い部屋の中で、鈍く光を放つ金髪に男が目を細めた。

「なんだってお前みたいなのが、こんなとこに住んでんだ。」
お前みたいなの―――
言われ慣れた言葉に、けれどサンジは胸を痛めて俯いた。
見知った相手ではない、初対面の者にさえ、自分はそう見られるのだ。

「うっせえな・・・俺がどこに住んでようが、てめえに関係ねえだろう。」
「物騒じゃねえか。一人かよ。」
物騒?
思わぬ言い回しに眉を顰める。
「何言ってんだ、ここは屋敷の中だぜ。本来なら家のもんしかいない場所だ。てめえみたいなおかしな迷子が迷い込まない限りは。」
ああ、と男は初めて合点が言ったように手を打った。
「そうか、さっき飛び越えた塀は屋敷の塀だったのか。」
「飛び越えただあ?」
なんてことをしてくれてんだ。
と言うか、あの高さを飛び越えたのかよ。
なんて奴だ・・・
いや、馬か?

「そうかそうか、でもなんでこんなとこで一人で暮らしてんだ。てめえの屋敷だろ?」
益々訳がわからなくて、サンジは目を丸くする。
「なんでそうなるんだよ。俺は使用人だボケ。」
「ええっ」
男の驚き方は尋常じゃない。
「お前、使用人で此処に住んでんのか?」
「そうだよ。」
「屋敷って、もっと遠いとこにあるんじゃねえのか。こっから見えねえじゃねえか。」
「外れに住まわせてもらってるんだ。ありがてえことさ。」
サンジは面倒臭そうに答えながらも、手早くフライパンを温め、ベーコンを焼き始めた。
肉の焼ける香ばしい匂いが部屋の中に広がる。
男はごくりと唾を飲み込んで、サンジの手元を凝視している。

「なんか食わせてやるから、乾かすのに専念してろ。」
「・・・ありがてえ。」
どこか上擦った声音に、サンジは薄く笑みを返して支度を始めた。





黒いコートを着たままてきぱきと料理をするサンジを男は不思議そうに眺めている。
こんな風に人にじろじろ見られるのは苦痛だ。
しかもまったく知らない男を。

サンジはこの屋敷に来てから、見知らぬ相手に会うことはなかった。
いずれも人を介して紹介されるばかりで、こんな行きずりの人間と言葉を交わすことなんてのも初めてで―――
恐れ半分、興味半分で小屋に休ませてしまったけれども、このことでお嬢さんに迷惑をかけることだけが怖い。
だからさっさと立ち去って欲しい。



next