螺旋の向こう8


翌朝、村人たちに別れを告げてGM号はランドラインへ漕ぎ出した。
海賊旗をはためかせ、洋々と青い海原を進む。
ほんの昨日まで激しい慟哭に包まれていたラウンジは今、賑やかな声で満たされていた。

誰も口にこそ出さないが、取り戻せた日常の喜びを噛み締めている。
いつもと変わらぬ単調な鍛錬を続けるゾロの後ろ姿を見て、ナミは深く溜め息をついた。
「本当に、グランドラインって何でもありね。」
「あの島が特殊だったんでしょう。あの島で、でなければこんな奇跡は恐らくは起こりえない。」
ナミはテーブルの上に広げた海図の中に、その島を記さなかった。
『死』さえも特別ではないあの島は、後世に伝えるべきではないと思ったからだ。
それがいいと、ロビンも賛成した。


最初に異変に気付いたのはチョッパーだった。
じっと医者の目で観察して、1対1では誤魔かされると判断してか、夕食の席でそれとなく話題に出す。
「サンジ、右足どうしたんだ?」
給仕する手を止めて、サンジはああと軽く返事する。
「ちょっと捻ったみてえだな。たいしたこた、ねえんだ。」
「なんだって?なんでそれを早く言わないんだ!」
チョッパーが涙目になって怒り出したので、サンジは手を翳して曖昧に笑った。
「いんや、ごめん。本当にたいしたことじゃねえんだ。後で診てもらおうと思ってた。ほんとだぞ。」
その場ではそう言ったがチョッパーに診察して貰うつもりはない。
自分で触れてもわかるくらい、右足から温度がなくなっている。
見た目は変わってないし動くことは動くので、ある程度誤魔化し遂せるかとも思ったが、やはり気付かれてしまったようだ。
なんとかチョッパーをやり過ごし給仕を再開したサンジに、今度はルフィが爆弾を落とした。

「なあサンジ。お前の飯が前より美味くねえぞ。」
ガシャン、と派手にレードルを取り落としてしまった。
この発言にはさすがにクルー全員が硬直する。
「ち、ちょっと何言い出すのよっルフィ!」
「んー、だってナミはそう思わないか?」
「思わないわよ、美味しいじゃない!」
ウソップもぶんぶんと頷き、ゾロは何事かと箸を止めて成り行きを見ている。
「美味いぞ。美味いのは美味いけど、前ほどじゃねえ。なんでだ?」
素でそう聞かれて、サンジは戸惑った。
別に手を抜いている訳ではない。
「ほんとかルフィ・・・味が、違うのか?」
馬鹿なこと言うんじゃねえ!と普段なら怒鳴るところだが、ルフィの素朴な物言いがかえってサンジを不安にさせた。
俺の腕が鈍ったっていうんだろうか。

「ごめんなさいねコックさん。実は私も感じていたの。」
仰天して今度は一斉にロビンに注目が集まる。
「なんだって、ほんとかいロビンちゃん。」
さすがにサンジも真っ青になった。
「一体いつから―――」
「今朝からよ、正確にはコックさんが黄泉から帰ってから、作った食事。船長さんの言うとおり美味しいの。
 とっても美味しいのだけれど・・・」
なにかが足りないの、とロビンは遠慮がちに言った。
「味付けや調理方法と言った単純なものじゃないと思うわ。今この食卓を見ても、以前と違うでしょう。」
「何が・・・」
改めて全員が手元に目をやった。
一体何が違うというのか。
「同じなのよ、全員のお料理が。」
どきんとサンジの胸が鳴る。
蒼褪めたサンジの隣で、ナミは躊躇いがちにあれこれと見比べた。
「同じって、いつもそうじゃないの?確かに今日はルフィの分もみんなと同じ分量だけど、それはお代わりすればいいんだし・・・」
「同じメニューでも、コックさんはそれぞれに微妙に味付けを変えていたと思うわ。例えば私や航海士さんのドレッシングはカロリー控えめとか、剣士さんには蛋白質や鉄分を多めに、船医さんは薄味に・・・」
チョッパーが帽子の下からそっと上目遣いにサンジを見る。
「ごめん、黙ってたけど確かに今日の食事、俺には辛い。」
「あ・・・」
まるで今気付いたという風に、サンジは口元に手を当てた。
「おい、大丈夫か。」
ゾロが席を立ってサンジを支えようと手を伸ばしたので、皆が更に驚く。
その手を軽く払い除け、サンジはくしゃりと笑って見せる。
「悪い、俺あどうもぼうっとしてたらしい。チョッパー今すぐ作り直すから・・・」
「いいや、いいよ。水を多めに飲んでゆっくり食べる。だからそんなに気にしないで。それよりサンジ、ちょっと休んだ方がいいぞ。」
まるで貧血を起こして卒倒しかねない顔色の悪さだ。
ナミにも促されて、サンジは大人しくラウンジを出た。


力のない後ろ姿を見送って、全員が無意識に詰めていた息を吐く。
「サンジ君、相当ショックを受けてるわよ。」
「ごめんなさい。はっきり言い過ぎたかしら。」
「俺は全然気付かなかったなー。言われてもまだわかんねえよ。」
口々にフォローしながら食事を再開する。
ゾロは腕組みをしてじっとなにか考えているようだ。
「サンジ君が変わったってことはないと、思うんだけど・・・これも黄泉へ行った後遺症なのかしら。」
「いや変わったぞ、あいつは・・・」
ぼそりと呟くゾロに、ナミはぎょっとしたように振り向いた。
「てめえら気付いてねえのか。あいつ昨日から・・・少なくとも俺が目覚めてからずっと、タバコ吸ってねえ。」
「あ!」
全員が声を上げて、サンジが立ち去ったラウンジの扉を見つめた。


―――参ったな。
潮風に煽られる前髪を撫で付けて、サンジは一人ため息をついた。
料理の味を、よりによってルフィに指摘されるなんざ、末代までの恥だ。料理人失格だ。
腕が落ちたとは思っていない。
だが、ロビンに言われて原因に思い当たった。
味付けや調理方法云々じゃない、食べてくれる皆に対する愛情がなくなっているのだ。
嫌いなものは少しでも気付かれないように食わせたい。
栄養が偏らないように、美容にいいように・・・
そうやってあれこれと細やかに気遣っていた「気持ち」が、今のサンジには失われている。
正直言って、ロビンやナミに対しても仲間以上の感情がない。
同じ船で暮らしているからこその愛着のようなものはあるが、それ以外は基本的にルフィやウソップに対するものと同等だ。
そのことが、またサンジに衝撃を与えていた。

記憶を失くしたわけではないから、サンジはすべてを覚えている。
ナミの笑顔に心ときめいたり、ロビンの知性にメロリンとなったりした気持ちは覚えているのに、
それが今は湧いてこない。
そう言えば村にいたあの娘も相当な美少女で、隣でお酌までしてもらったのにそのことを特別嬉しいとは思わなかった。
これはちょっと、まずいだろう。
せっかくホモから更生するチャンスだと思ったのに、これでは恋もできない。真っ当な恋愛すらできないんじゃないだろうか。
サンジは悶々と考えたが、失くしてしまったものはもう仕方ないのだ。
料理に対する愛情を失っても、不味いものを食わせるわけじゃない。
今まで無意識にやっていたことを、意識してすればいいだけのことだ。
右足の感覚が無かったって、戦闘時に邪魔にならないように気をつければいいだけのことだ。

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