螺旋の向こう6


来たときと同じように、暗闇の中をなだらかな坂が続く。
今度は左側に傾きながら、ゾロの手を引いて慎重に昇って行った。

「てめえが帰ったら、みんな喜ぶぞ。」
「みんな?他にも仲間がいるのか。」
「ああ、いるさ。」
暗く丸く柔らかなトンネルの中を、静かな声が響く。

「船長は大喰らいの馬鹿だが、すげえ美女が二人もいる。あと鼻の長いのとトナカイがいるぞ。」
「・・・」
「ナミさんの悲しむ姿は辛かった。早くみんなにてめえを会わせてえ。」
「・・・」
「おい?」
返事がないので、立ち止まってうっかり振り返りそうになってしまった。
いかんいかん。

繋いだゾロの手を確かめるように握ってみた。
ゾロは握り返してこない。
俄かに不安になったが、サンジはそれを無視してまた早足で歩き始めた。
ゾロはついてきているようだ。

「てめえみてえな、昼寝と鍛錬しか能のねえ役立たずでも、死んじまったら皆悲しんだんだ。ありがてえと思えよ。」
物言わぬゾロを連れて、黄泉の坂をひたすら昇る。
大丈夫、ついてきている。
手を繋いでおいて本当によかった。

繋いだ手の感触がほんの少し変わってきた。
サンジの背中を冷たい汗が浮いて流れる。
ゾロの手がするりとすべり落ちそうで、握る手に力を込めた。
さっきまであんなに暖かく弾力のあった手が、やけに固い。
そして氷のように冷たくなっていく。
「なんだゾロ、てめえ冷え性か。」
冷え性の剣豪ってちょっと笑えるけど、だから腹巻愛用してんのかな。
そう考えるとおかしくなった。


不意に空気が揺らぎ、足元から風が吹き上げた。
サンジは思わずう、と唸って息を止めた。

臭え―――
なんとも言えぬ、嫌な匂いだ。
後ろから漂ってくるこれは、明らかに腐臭。
サンジはゾロの手を握り直した。
さっきまで人形のように固かったそれが、ぐにゃりと手の中で形を変える。

「・・・!」
親指で押した部分にそのまま指が減り込んだ感触がする。
腐臭は益々強くなり、サンジは込み上げる嘔吐感に必死で堪えた。
繋いだ手にうっかり力を入れると、その分だけゾロの手の面積が減っている。
まるで粘度を握り潰すような感じで、しかもなにかがちろちろと這い回る感覚もある。

振り向いちゃ、いけねえ。
立ち止まって確認することはできない。

だが、今サンジの片手にはあきらかになにがが蠢いている。
小さくて細かな、恐らくは虫のようなものがうぞうぞと這っている。
想像するのさえ怖くて、サンジは前を向いたまま殆ど駆け足になっていた。
それでも、ゾロの手は決して離さない。
その手を伝って恐らくは何十匹もの蛆虫がサンジの腕を遡ってこようとも、この手は絶対に離さない。


また後方から吹き付ける風に乗って、不気味な声が届いた。
『置いていけ』
「ああ?」
サンジは前を向いて走りながら、大声で返事する。
『置いていけ、その男の代わりに』
「ああ?何をだ?」
返事はない。
ただ『置いていけ』の声が、いくつ重なっては木霊のように何度も何度も鳴り響く。
そういえば、自分の大事なものと引き換えとか何とか言っていたっけか?
サンジは片手で胸ポケットを探って、タバコを取り出した。
「これで勘弁してくれ。」
後ろに向かってぽいと投げる。
途端、声は途切れた。
「・・・タバコで、いいのかよ。」
ほっとして、少し歩を緩めた。

降りてくるときも相当の距離を歩いたのだ。
昇りもかなり先は長そうだ。
しばらく歩くと、また下から風が吹いてきた。
『置いていけ』
「・・・またかよー・・・」
今度は何を置いていけばいいのか。
前を向いてひたすら歩きながらライターでも取り出そうかとしたとき、がくんとバランスを崩した。
誰かが、サンジの右足首をいきなり持ったのだ。
転倒は免れたが、それ以上動けずに膝をつく。
「離せよっ」
振り向いて蹴りつける訳にはいかない。
『置いていけ・・・』
サンジは舌打ちすると、身体を起こした。
「わあったよ、くれてやる。」
すると足首を握った感触が消えた。

躊躇いながら足を踏み出すが、右足の感覚がまったくなくなってしまっている。
歩けないことはないが、早く歩くことはできない。
「くそったれ・・・」
それでも進めないことはない。
サンジは足を引きずりながら、ひたすらに上を目指した。


どれくらい昇っただろうか。
ほんの少し左へ傾斜しながら昇っているはずなのに、昇っているのか降りているのかわからなくなってくる。
ちゃんと真っ直ぐ昇ってんだろうな。
もしかして、また黄泉に降りてるんじゃねえだろうな。

たまらなく不安になった。
来た道を確かめたいが振り向くことはできない。
振り向けば、きっと終わりだ。

「くそったれ・・・」
気が遠くなるほど長い時間が歩いた後に、目の前に緩くなだらかなカーブがほんのり浮かび上がってきた。
光だ。
もうすぐ、出口だ。
不意にざあっと風が吹く。


『置いていけ。』

またしても足が止められた。
どうしても身体が動かない。
もう少しで出口なのに、ゾロを生き返らせることができるのに。

『置いていけ・・・』
「なにをだよっ」
『その男を、置いていけ。』
それはできない。
ゾロを連れ帰るためにここまで来たのだ。
『その男を連れ帰ったところで、お前とのことは覚えていないぞ』
「なに?」
声が、初めて意図を持って話しかけてきたので、サンジは思わず聞き返した。
『生き返ったら黄泉でのことは忘れる。お前は覚えているだろうが、その男は忘れる。せっかく伝えたお前の想いも、全部なかったことになるだろう。』
サンジは前を向いたまま鼻で笑った。
「そりゃあ好都合だ。」
『そうではなかろう。やっと伝えた想いをこの男に受け入れられて、お前はあんなに悦んでいたではないか。』
カッとサンジの頬に赤みが差した。
何もかも知られているようで、腹立たしい。
「うっせえ、てめえに関係ねえ。」
『どうせなかったことになる気持ちだ。それを置いていけ。』
「なに?」
うっかり振り向きそうになって慌てて視線を戻す。
声が後ろから覆い被さるように届く。
『この男の代わりに、この男を想う気持ちを置いていけ。この先それは、お前の枷となろう。』
サンジは前を向いたまま、唇を噛み締めた。
サンジの手の中で、ゾロの腕は細く固く尖り、カラカラと乾いた音を立てている。
もう一度、あの力漲る腕で刀を振るうことができるなら、恐れを知らぬ瞳で敵に立ち向かう背中を見ることができるなら―――

俺の想いなんて、なんの価値もない。



「いいだろう、くれてやる。」

途端、目も眩むような光に包まれた。
サンジは目を閉じて、光の中に足を踏み入れた。


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