楽園 -3-


「おかえり、お早いお戻りだな」

テーブルに着いて復習をしていた俺は、もうそんな時間かと驚いて携帯を見た。
デジタル表示は夜の9時を回ろうかとしているところだ。
打ち上げで飲みに行ったにしては、随分と早い帰宅になる。

「早々に何人か潰れてな、お開きが早かった」
この秋に二十歳になるゾロは、まだ飲ませてもらえない。
それでも付き合いだけはよくて2次会3次会にまで残るから、いつも午前様だ。

ゾロは風呂場にビニール袋を置くと、洗面所で手と顔を洗ってキッチンに入ってきた。
これは俺の教育の成果だと思う
「なんだ、飯まだなのか?」
ジャーの蓋を開けたらほかほかの湯気が上がったのを見て、ゾロは足を止めた。
「実習で結構食って帰ったからな。待ってた訳じゃないぞ」
やや言い訳めいてるなと思いつつ、炊きたてご飯の真ん中をそっと掬い小皿に取った。
「はい、お供えよろしく」
「おう」
飯を炊く度に仏壇に供えるのはゾロの役目だ。
座敷からリンを鳴らす音が響いて、その音が止むまで俺もじっと動きを止める。

ゾロはどうだか知らないが、俺の中で母さんと親父は、死んでしまってからよりその存在感を増してしまった気がする。
死んだ子の年を数えるなと言うけれど、時折、俺は勝手に逆算して、今頃ちびは伝い歩きをする頃じゃないかなんて想像してしまうのだ。
病院に着く前に事故に遭ったから、生まれるどころか本当にできていたかどうかも怪しいことなのに、俺の中でちびは勝手に生まれ着実に育っている。

「お茶漬けでいいのか?」
「おう」
のそりと入ってくるゾロに慌てて背を向けて、俺は自分の夕食を食卓に並べた。
「着替え、風呂に入れといたから後で洗う」
「ああ、飲みに行く前に着替えたのか。それなら、飯食ったら兄さんが先に入れば?」
「おう」
ゾロの台詞は必要最低限の単語で成り立っているから、いつも端的で素っ気無い。
その分俺が余計に喋ってるみたいで、なんだか不公平だ。

ゾロはそうでなくても早飯食らいだから、差し向かいで食事をしていてもなんだかゆっくりした気分になれない。
今だって、さらさらと調子よくお茶漬けを流し込んで、もう終了しそうな勢いだ。
「よく噛んで食え。お代わりは?」
「もういい、ごっそさん」
行儀よく手を合わせて、思い出したように湯飲みに手を伸ばした。
ずずっと茶を啜るゾロを引き止めるつもりはないけれど、なんとなく俺は面白くなくて話題を探す。
「こんな時間に解散ってことは、一次会だけで終了したのか?」
「ああ」
「どっかの居酒屋でとか?」
「ああ」
俺はモグモグと咀嚼しながら頭の中で次のネタを探した。
つうか、なんでこんなに会話が続かないんだ。

「みんな潰れたって、結構酔っ払ったのか」
「まあな。疲れてたのと、イベントが無事終わってハイになってたのとあるんだろうな」
お、結構長く喋った。
「酔っ払いの相手は大変だろ」
「そうでもないぜ。俺はそういうの嫌いじゃねえし。普段固い人ほど砕けるし、面白れえ」
「兄さんは無愛想に見えて、結構面倒見のいいところがあるからな。職場の人もわかってきてんだろ」
「かもな」
空になった湯飲みに、熱い茶を注いでやった。
こうやってとりとめもないことを話しながら食事をするのが、俺は好きだ。
家族って感じがするじゃないか。

実際、寝る時間を差し引くと俺よりも数倍職場の人たちの方がゾロと一緒にいる時間が長い。
一見すると強面で気難しそうなゾロが、案外気さくで屈託がないことは理解されて来ているようだ。
「嫌な人とかいねーの?小うるさいとか、威張ってるのとか」
「別に。クセのある人は多いけど基本的に悪気がないからな。俺は嫌じゃねえな」
ずず・・・と茶を啜る音が響いた。
俺もなんとなく湯飲みに手を伸ばし、冷めたお茶を飲み下す。

「そう言えば、今日は面白いことを聞かれた」
「え、なに?」
ゾロから話を振って来るなんて珍しいから、つい勢い込んで尋ねる。
あからさまに嬉しそう過ぎないか、俺。
「事務仕事のが得意で、割と固いタイプの先輩なんだけどよ。30代前半くらいで、妻子持ち」
「ふんふん」
「ちょっと酔いが回った感じで俺の隣に座り込んで、仕事のこととか家のこととか、割と喋ってたんだ。
 その人にしては珍しくよく喋った」
「へえ。酔っ払ってたんだな」
俺の相槌に、ゾロが口端を上げて頷いている。
端から見るとそうは見えないだろうが、これは機嫌のいい証拠だ。
「んで、急に喋るの止めるからどうしたのかと顔上げたらよ。じーっと俺の顔見てんだ。しょうがないから俺もきつくならない程度に見返したら、あっちが先に視線逸らして・・・」
「うん」
「俺みたいなのは好みじゃないのかと聞いてきた」
「・・・・・・」
―――は?

「あ?え?」
「俺がゲイだってのは、みんな知ってっからな」
「・・・あ、ああ」
そう言えばそうだった。
こいつはこともあろうに、歓送迎会の席上で堂々とカミングアウトしたんだった。
そこでお偉方がドン引きしても後の祭り。
ゲイを理由に採用取り消しなんてできないし、むしろあまりに潔い態度だったので叱責も注意もできず
・・・無論、冗談にもできなくてその場が飽和状態になったって話だ。
ゾロから聞いただけだけど、多分現場は俺の想像以上に凄いことになっていたんだろう。

「んで、なんだって?」
「先輩が、俺がゲイだからって、自分に興味があるのかないのか、真面目な顔して聞いてきたんだよ」
そう言うゾロの顔は、面白がっているように見える。
対して俺は、なんとも不愉快な気分になった。
「なんだよそれ。ゲイだからって、なんでもかんでも野郎ならイけるとか、思ってんのか」
「まあ、一般的にはそう思うんだろうな」
冗談じゃないと本気で腹が立って来た。
異性同士でも、好みのタイプとかがあるのだ。
ゲイだから男全般OKだなんて、誤解も甚だしい。
「それで、なんて答えたんだ」
「残念ですが、好みではありません」
「当たり前だ」
俺が憤然として言うと、ゾロの切れ長の目がくりっと丸くなった。
「なんでそんなこと、お前が知ってんだ」
「それは・・・野郎の好みなんて、俺が知るかって言ってんだよ」
ゾロに突っ込まれて、つい支離滅裂な返しをしてしまった。
何言ってんだ、俺。
「お前が怒るなよ、おかしな奴だな」
ゾロはそう言って喉の奥でちょっと笑って、ご馳走さんと再び手を合わせた。
食器を持って立ち上がるとシンクに置き、そのまま風呂場に向かう。
ドアを開けて湯を張る音を聞きながら、俺は残りの食事を手早く掻き込んだ。

俺は、ちょっと変な反応をしてしまっただろうか。
でも兄貴の性癖を馬鹿にされたみたいで、むっとするのはおかしくないだろ?
これは家族として、当然の反応じゃないのだろうか。
まだ俺の中に残る腹立たしさは、ゾロが大切な家族だからだ。
俺達が、兄弟だからだ。

無理に自分に言い聞かせてることに気付いて、俺は言い訳めいた思考を空の茶碗と共に放棄した。
別に深い意味はない。
能天気なゾロの先輩の言葉にカチンときた、ただそれだけのこと。

―――俺みたいなのは、好みじゃないのか
そんなの、俺だって聞いてみたことがないのに。

冗談っぽく、軽い調子で。
何度も聞こうとして、未だに尋ねることができない。
そんなこと、口に出せるはずもない。
俺達は家族なんだから。








手早く洗いものを済ませたはずなのに、ゾロはもう風呂から上がってきた。
烏の行水にも程がある。
「悪い、洗ってくれたのか」
「いいよ、疲れてっだろ」
一応、家事・炊事は当番制だが、ゾロが忙しいときは俺が一手に引き受けている。
こっちは学生の身だから、できるだけ助けないとって意識が自分にはあるみたいだ。

「今度の土日は久しぶりに休みだ。来週はマラソンの出役入るけどな」
「そっか、土曜日はゆっくり寝てろよ。俺も夕方バイト入ってるし。けど日曜はフリーだぜ」
きゅきゅっと、壁に掛けたカレンダーにゾロがマジックで予定を書き込む音が鳴る。
左手で器用に書くけど、筆圧が高いのかゾロ用の緑のマジックは先が早く潰れるのだ。

「んじゃどっか行くか?映画とか」
「お。いいねえ映画。見たかったやつ、まだやってるかな」
俺は携帯を取り出して早速調べ始めた。
行動が早すぎるかと胸の隅でちょっと反省してみる。
そんなに嬉しがって見えちゃうだろうか。
内心ドキドキしている俺の手元を覗き込んで、ゾロはぼそっと呟いた。
「映画館はよく眠れるからな」
「寝るためかよ!」

見たい映画の上映時間を確認して、昼飯をどうするか考える。
「バラティエなら11時にランチ始まるから。そこで飯食ってから見ようぜ」
「ああ」
バラティエは、母さんと親父が始めてデートした思い出のレストランだ。
結婚した後、俺ら家族でもよく行った。
「あそこのランチは安くて美味いからな。あと、映画終わったらカフェ行こうぜ。今月オープンしたとこあるって、混むかなあ」
俺は携帯とにらめっこしながらブツブツとスケジュールを組み始めた。
どこかに出かけるときは、すぐに予定を立ててしまいがちだ。
ゾロはいつも行き当たりばったりみたいだけど、一人歩きをさせるとそのまま放浪に繋がってしまうから予定を立てようがないんだろう。

「任せるから、もう風呂入れよ。蓋開けてきたぞ」
「んー」
俺は生返事をして携帯を置いた。
2人で出かけると決めた時点でどうしたって心が浮き立って、それを顔に出さないようにするのが一苦労だ。




両親を突然の事故で亡くして、2人きりの兄弟になってしまってから、俺は女の子とデートした記憶がない。
卒業までは何かとバタバタしていたし、専門学校に通いだしてからは授業とバイトの両立が結構面白くて女の子にまで興味が向かなかった。
勿論、学校にもバイト先にも可愛い子はたくさんいて、話の流れでお茶したりデートに行きそうな雰囲気に
なったりもした。
けれど、「兄貴の飯を作ってやんなきゃならないから」って理由で俺が先に帰ってたりしちゃ始まるものも始まらないだろう。
そのうち「お兄さんによろしくね」なんてお決まりの台詞で持って、自然と消滅してしまう。

女の子との時間より、家族の時間を優先してしまう俺がおかしいんだろうか。
でも家族って大事だし。
俺らみたいに、他に身寄りがなくなった今、兄貴を大事にするのは当然のことだろう。
こうして休みが合う日には、一緒に連れ立って出かけるのだって、普通のことなんじゃないだろうか。

実際に兄弟がいなかったから、その辺の判断が俺にはつけ難い。
けど、ゾロだって俺と同じように、いや俺以上に家族を大事にしていると思う。
残業がない日は真っ直ぐに帰ってくるし(下手に寄り道すると帰って来れない事実もある)、予定のない休日も出かけないで、ずっと家でゴロゴロしてる。
俺が誘えばどこにでも一緒に着いて来てくれるし、ゾロは無口で会話が弾まないけれど側にいて苦痛に思えるような沈黙は感じないから、正直楽しい。

―――ゾロの方こそ、付き合いはいいのかな。
この場合、彼氏というのだろうか、そういうのは作らなくていいのだろうか。
ゾロ自身がゲイを宣言しているとはいえ、実際の行動を起こしているような素振りは見えない。
夜も早いし休みの日も家にいるし。
俺が心配するようなことじゃないけど、これでは出会いなんかもないんじゃないのか。
家にパソコンがある訳じゃないから、隠れて連絡を取り合ってることもないだろう。
ゾロはどうやって、欲求を発散させているんだろう。

一緒に暮らしていても、ゾロから性的な気配を感じたことがなかった。
ゲイだからと身構えて見ていたからかもしれないが、少なくとも女性とも普通に話すし、他の男よりもむしろ丁寧に接している気がする。
まあ女性に対しては、自分が過剰に反応しているだけかもしれないけれど。
そして、相手が男でもやはりその態度は変わらない。
ゾロの好みって、どこにあるんだろう。

思考が堂々巡りを始めそうになって、俺は足早に風呂に向かった。
ゾロが恋人を作る日は、遅かれ早かれ来るだろう。
その時、俺はこの家を出ればいい。
ここは元々、親父とゾロの家だ。
俺がここに居座って、ゾロが出て行くもんじゃない。
ゾロが連れて来る“恋人”がどんな人でも、俺は心から歓迎して、この場所を明け渡すんだ。
その時が来るまで、家族としてゾロの側にいるくらい許されると思う。


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