俺専食堂 1

会社から歩いて5分の好立地にその食堂はあった。
ビルの立ち並ぶオフィス街の一つ路地裏、ビルとビルの隙間に建てられたような、けれど実際には最後まで踏ん張った下町の名残だ。
鰻の寝床のように奥に長い二階建て。
昔老夫婦が細々と営んでいた飯屋は、今一人の若者が切り盛りしている。

ゾロがその食堂に立ち寄ったのは偶然だった。
オフィス街に多々ある店舗を食べ歩き、その内どの店の味にも飽きて、ついでに飯を食うのも面倒臭くなってきた頃、ふと美味そうな匂いにつられて路地に迷い込み辿り着いたのがこの店だった。


「らっしゃい!」
暖簾を潜れば、見た目よりさらに狭い店内はむさ苦しい男ばかりごった返していた。
お代わりだのお水ちょーだいだの声が飛び交う喧騒の中で、一際目立ったのがカウンター向こうでキリキリ動く若い男。

「水なら勝手に入れろ!お代わりはこっちまで来い!」
接客も何もあったものじゃない。
あまりに騒がしいからこのまま出て行こうと後退りするゾロの後ろから、またどやどやと客が入ってきて結局押されてしまった。

「あんた初めてか?」
勝手がわからず突っ立ったゾロに、頬袋を一杯に膨らませた男が座ったまま声を掛けた。
「そこにご飯茶碗伏せてあるだろ。あれ持ってってよそって貰って、後は戸棚に料理が入ってるから好きなだけ自分で取って食うといいよ。あ、先に場所押さえとかないと立ち食いになるぜ。相席は当たり前だ。あ、オレの前で食う?」
何故かてきぱきと仕切られて取り合えず前の席に荷物を置くと、トレイを持ってカウンター前の列に並んだ。
網戸の嵌った戸棚を開けて、皆適当に小鉢を載せている。
どれもどこかで見たような、けれど実際には滅多に口にしないような惣菜ばかりだ。
メインに魚といくつかの和え物を適当に入れて、列のまま移動する。
カウンターの中で金髪に割烹着と言う実にアンマッチながら妙にしっくりくる若い男が、咥え煙草でご飯をよそって味噌汁を添えていた。

「ほい、今日もいっぱい食えよ。」
「緑モンの小鉢をもう一品足せ。」
「もっとバランスを考えて食え。」
一人ひとりにあーだこーだと声を掛けながら、手際よくよそっていく。
ゾロが目の前に来ると、おっと目を丸くして見せた。
「新顔だな、いらっしゃい。たんと食えよ。」
そう言って何も言わずに大盛りをよそってくれて、ゾロはどこか狐に化かされた気分で席に戻った。

その飯を一口食って、ゾロは開眼する。
食い物って、こんなに美味かったのか。
食べ始めれば止まらない。
あれもこれもと勝手に箸が動き口が求める。
最初に取った小鉢だけじゃ足らなくて、お代わりをしてもいいかと改めて顔を上げた。
さっき色々と親切に教えてくれた男はもうすでにおらず、別の男が黙々と食べていた。
それでもゾロの無言の視線を悟ってくれたのだろう。
やけに鼻の長い縮れ毛の男はああ、と声を上げて箸を持ったまま戸棚を指差した。
「足らなきゃ勝手に小鉢取ってくればいいぜ。皿の横に料金が書いてあるだろ。後であれを計算して金を置いていけばいい。」
「自分で勘定するのか?」
さすがに驚いて声を出した。
「ああ、なんせ店主は忙しいからなあ。ここは完璧セルフの店だぜ。料理を選ぶのも運ぶのも、勘定するのも全部客。あいつはずっと美味い飯を作り続けてんだ。」
そう言って笑う男の後ろで、食事を終えたらしいサラリーマン達が、それぞれ金をレジの中に支払っている。

・・・勝手にレジを、打ってる?
さすがに目が点になったゾロの前を、客達は引っ切り無しに行き交っていた。
信じられねえ・・・
このせちがらいご時勢に、こんな店ってありなのか。
セルフサービスはともかくとして、料金計算客任せ。
レジも勝手に開かれて金入れられて・・・さっと盗まれたらどうする気なんだ。
それ以前に誤魔化しとかネコババとか・・・最終的に計算が合わねえだろうが。
考え出したら気になってしょうがない。
けれどそれよりなにより、飯の美味さが気に入った。
どれもなんてことないメニューなのに、喉の奥が引っ張るようにものすごい勢いで平らげてしまった。
しかも安い。
自分のペースでできるから、早い。

とりあえず満腹になってひと心地付いた後、改めて小鉢を見て料金計算をすれば、なるほどほとんど定額×皿数で大よその計算はできるようになっていた。
・・・けどこれって、かなり適当なんじゃあ・・・
店の先行きを勝手に案じながら、ゾロはレジの横に札だけを置いてその店を後にした。


それ以来、毎日毎日通っている。
メニューに代わり映えがある訳でもない、特別凝った料理でもないのに何故か毎日食べても飽きなかった。
昼休みになると足早に店に向かい、暖簾を潜ると何故かほっとする。
いつも同じ時間にテーブルに着いている男の前に鞄を置いて、適当に今日の料理を見繕い、黙々と食った。
食っているうちに向かいの男は入れ替わっていて、鼻の長いのはあれこれよく話しかけてくるから適当に相槌を打つ。
そうして食い終わったら自分で勘定してレジの横に置いて帰った。
なんとなく釣りを貰うのは躊躇われて、いつも切りのいい札払いだ。
暖簾を潜る前に振り向けば、白い湯気の向こうでキンキン光る頭が忙しなく動き回っている。
勘定を終えて出る時に声の一つも掛けられない事が寂しいと、ふと思ってしまった。



なんとなく匂いにつられて店に入っていたから、店の名前が「薔薇亭」だってことにも長い間気付かなかった。
毎日決まった時間に通ってくる常連が多くて、言葉を交わさずとも大概顔見知りになる。
最初から最後まで陣取って店中の品を食い尽くす勢いの欠食貧乏学生は、最初にゾロに声を掛けてくれた
男の弟らしい。
兄と同じく口中に一杯頬張ったまま、毎回飯の美味さを絶賛している。
「なんへ、ふまいしやふいし、ほほのへひははいほーはあっ」
意味不明のまま力いっぱい誉めそやす。
隣で鼻の長いのがしたり顔で頷いた。
「みんなサンジの飯が目当てで通ってくんだよなー。なんつーの?癖になるってか・・・ここで飯食っとくと身体の調子もいいんだよ。」
それは理解できて、ゾロも咀嚼しながら頷いた。
元々食に気を遣うタイプではなかったが、なんとなく体調がいい・・・と言うか、残業続きでも深酒しても、どこか力が漲るようだ。
「飯だけが目当てでもないでしょ〜」
いつの間にか、向かいに大食漢の兄が陣取り味噌汁を啜っていた。
「なんつーか、みーんな鼻の下伸ばしてサンちゃんの言いなりに動いてるしね。だからこの店成り立ってんだよなあ。」
言われて見ればなるほど、常連達は揃いも揃って両手に大事そうにトレイを抱えて行儀良く並んでいる。
はいはいと手際良く給仕をする店主の姿は、食堂と言うより配給もしくは幼稚園の給食みたいだ。

このサンジと言う男、とても商売とは思えないほど口が悪くがさつだが、作る料理は美味いし愛想はないのに愛嬌がある。
どんな客でも結果的に言うことを聞いて自ら動く、店の流れを自然に作っていた。

「見てて飽きないしね〜vサンちゃん可愛いなあ。」
寒いことを臆面もなく言う兄はそういうキャラだと置いておいても、くるくると良く動く金色頭は確かに
見飽きない。
「ありゃあ、地毛か?」
肌の白さも顔立ちも、この食堂には違和感ありまくりの外見だ。
「多分ね。まだ確認させて貰ってないけど。」
確認する気かよ。
内心の突っ込みをよそに、兄はいつもどおり高速で飯を書き込んで、勝手にレジに勘定するとまたね〜♪
と大声で叫びながら店を出て行った。

「エースな、わざわざサンジの飯食うためにS区から自転車飛ばしてきてんだぜ。車だと渋滞するからって。」
「S区?遠っ・・・」
長っ鼻が呆れて絶句し、さすがのゾロも顔を顰めた。
「そりゃあなにか?野郎も飯だけが目的じゃねえってのか?」
「大いにあるな。エースは自由奔放だしな。」

ざわざわと犇く店内は全員が男ばかりだ。
早い安い美味い上に量が多いから、必然的にそうなっているんだろうと勝手に解釈していたが・・・
「サンちゃん、今日も可愛いよなあ。」
寒い呟きが、当たり前のようにサラリーマンの間に漂っていて、ゾロは無意識に首を竦めた。

俺は違うぞ。
飯が美味くて早くて安いから通ってるんだ。
それだけだ。
誰に聞かれたのでもないのに己自身にそう言い聞かせ、ゾロは内心で一線を引いた。

いくら美味い飯を食わせるとは言え、野郎相手に熱を上げるのは異人種だと、わりと頑なな偏見を
ゾロは持っていた。
いたのだが――――




いつの頃からか。
会社から距離が近いのをいいことに昼のチャイムが鳴ると同時に飛びこんで、終了ぎりぎりまで入り浸る日々が続いている。
回転第一の店であることはわかっているが、いつの間にか時間が経っているのだ。
決して意図的ではないと思う。
ただセルフで料理を選んで空いた席で食事をとって、咀嚼する合間に店主の動きを眺めているだけだ。

いつも暖かな湯気に囲まれて、白い手をくるくる動かしてさっき何か刻んでたと思ったらくるっと振り向いて鍋の蓋を取り、ちょいと味見をしたと思ったら今度は何かを引っくり返してまた包丁を握って・・・
まるでマジックみたいに小気味良く軽やかに、見蕩れている内に新しい料理が仕上がり運ばれる。
そんな感じだ。

ちなみに店主はカウンターの外から出ないから、出来上がった料理を運ぶのは手近にいる客である。
頭に巻いている三角巾は毎日違う、カラフルな柄。
逆に割烹着は常に白だが良く見るとデザインが微妙に違うから白い割烹着を何枚も準備しているのだろう。
いつも綺麗で染み一つ見えない。
身なりだけ見ているとこの店にまったくそぐわないのだが・・・
そもそも割烹着が似合うってのが妙なんだよな。
何もかもがちぐはぐで、どこかしっくり来る光景だ。

三角巾に割烹着を着た金髪の若い男。
古びた食堂はよく見れば綺麗に掃除されていて、古ぼけたテーブルも小汚い椅子も、不潔さはない。
男ばかりが犇く雑多な店内は常に活気に満ちていて、せわしない空間のはずなのに妙に心が和む。
不思議だ――――
そんなことをつらつらと考えている内に、あっという間に昼休みが終わるのだ。
わざとじゃない。


「ん、いらっしゃーいいvんナミさん」
いきなり店主が素っ頓狂な声を上げた。
カウンターの向こうでクネクネタコ踊りを始めたから、驚いて振り返る。
暖簾の向こうに若い女が立っていた。
普段OLを見慣れているはずのゾロにすらちょっと眩しく映るすらりとした美少女。
まさに掃き溜めに鶴だ。

「久しぶり、ランチちょうだい。」
「ん、まっかせて!」
常に無いテンションで動き出した店主を尻目に、女はヒールを鳴らしながら店のど真ん中を堂々と突っ切る。
男たちのあからさまな視線を物ともせず、ゾロの後ろまで来ると欠食児童の隣に当然のように腰掛けた。

「久しぶりだな、ナミ。」
「バイトで遠出してたのよ。前に言わなかったっけ?」
「聞いたかもな。」
親しげな会話からして、こいつの友人かなんかだろう。

「お待たせ!ナミさん専用スペシャルランチ、中華風だよv」
「あらありがとう。」
驚いた。
いつもは遠くでくるくる動いている店主がゾロの真横に立って恭しくトレイを掲げている。

近くで見るとすらりと背が高い。
ぶかぶかの割烹着の下は、黒のパンツを履いている。
丁度腰の辺りが目線に合って、尻の小ささに驚いた。
目だけ動かして下からそっと伺い見る。

鬱陶しい前髪は片方にだけさらりと掛かっている。
顎の下には申し訳程度にしょぼしょぼと産毛みたいな髭が生え、それも金色に光っていた。
同じく金の睫毛に、瞼に近い眉毛は・・・
渦が巻いている!!

思わず見上げたまま固まったゾロの顔を、店主はなんとはなしに見下ろした。
ばちっと視線がかち合う。
瞳の色は綺麗な青だ。
眉間に皺を寄せて煙草を咥えてないのに口元が歪んで見える。
まともな顔つきをしたら、相当綺麗なんじゃないのか・・・

「何ガンくれてんだ、おい。」
心地よいテノール。
いつもきゃんきゃん喚いてばかりだが、こんな声をしてたんだな。
うっかり一人ドリームに浸りかけたゾロだが、店主はふんと鼻を鳴らして顔を背けると「んじゃナミさんvゆっくりしてってね〜♪」とまたひっくり返った声を出してとっとと立ち去ってしまった。

後ろ姿を目で追いかけて、止める。
まだ空に留まったままの煙草の残り香がなんともいい感じだ。


「あんたいい度胸ね。」
いきなり正面の女が声を掛けて来た。
「サンジ君に睨み返すだなんて、アピールするなら逆効果よ。」
したり顔でそう言われて、ゾロはぱちりと瞬きをした。
そう言えば、さっきからずっと瞬きもしてなかったような気がする。
睨んだ、か?
呆然としている間にも女はさくさく珍しいメニューに箸をつけている。
ゾロは仕方ないと一人で諦めをつけて、食事を再開した。



生まれついての強面顔に無口、無愛想。
意図しているわけではないが無意識に行動すれば常に「怖い人」に位置付けられる人生だ。
可愛いはずの小学校時代も担任から一目置かれ、中学高校に掛けてはなぜかずっと一人だった。
特段仲間外れにされるでもない、だがどこか浮いた存在。
それが寂しいとか孤独だとか、そんな風に感じる感性も自分にはなかったからそのまま普通に過ごして来たつもりだが、周囲の友人達を見るにつけなんとなく壁のようなものは感じていた。
それは社会人になった今も変わらない。
男子社員をいつまでも平扱いして何かにつけ罵倒する上司も、ゾロには何故か小言を言わない。
同期の連中もタメ口をきかないし、女子社員に至っては半径2m以内に決して近付かず、給湯室やフロアを隔てた観葉植物の陰から時折ちらちらとこちらを盗み見ては何事かを囁いている。
それがわかるから、落ち込まないまでもゾロはつい暗澹たる気持ちになっていた。

そんなに俺は、人に嫌われるタイプなんだろうか。
虫が好くとか好かないとか・・・確かにそういったモノは存在するが、それにしても俺のどこがいけないってんだろう。
書類を渡すだけで、女子の手が震えているのもわかる。
先にエレベーターに乗っていると何故か一緒に乗り込んでこないから、極力階段を使うようにしている。
悪気は無いのに毛嫌いされる理不尽さを嘆くような気質でもないが、そんなことを思い出してふとゾロは哀しくなってしまった。

せめてもう少し、感情表現が豊かならばよかったのだ。
だがどういう訳か、顔面の筋肉は柔軟さに欠け、普通に笑うと言う動作ができない。
口端を上げ歯を見せてみても、何かを企んでいるような歪んだ笑みにしかならない。
微笑むなんて芸当は到底無理だ。
含み笑いに見られるのがオチだろう。
表情の乏しさを言葉でフォローできないものか。
これもゾロは結構努力して来た。
ありがとうとかすみませんとか。
そんな短い言葉でさえ、咄嗟に上手く出てこない。
なんとか声を絞り出せそうな時には、相手はとうに自分の前から遠ざかっている。
いつもタイミングを逃しては、内心で頭を下げるのが精一杯だった。

ずっとずっとそうやって生きて来た。
あまりに不器用すぎる所作の報いがこれなのだろう。
すべて自分の責任だ。
ゾロは飯を食べながら猛省していたが、周囲にはやはりそうとは取られていない。
眉間の皺が深くなり、口をへの字に曲げて黙々と食べ続ける姿は、向かいのウソップを怯えさせるに充分だった。




毎日同じ時間に店を訪れ、昼食を食べる。
本来なら単調なはずの繰り返しの生活が、妙に自分を浮ついた気分にさせるのがなんなのか、いくら鈍いゾロにもわかってしまった。
切っ掛けは、あのナミとか言う生意気そうな女の出現だった。
別にゾロの好みのタイプではないとは言え、10人見れば10人とも美人だと言い切るだろうあの女を目の前にしても、カウンターの向こうでくるくる回っている店主の方が可愛いと素で思ってしまった自分に気付いた。

あの、口が悪くて扁平な身体で、愛想のない男を。
そう、紛れもなくあいつは男だ。
なのに、その姿を見ているだけで胸が熱くなる。
三角巾の隙間から覗く、サラサラした髪に触れたいと思うし、その声をもっと間近で聞きたいとも思う。
思春期や学生時代にも抱いたことの無い淡い恋心を覚えて、ゾロは戸惑った。

これが餌付けってやつなのか?
この手でここにいる野郎共全員してやられているのだろうか。
いくら自問自答を繰り返しても自戒しても、胸のときめきは止まらない。

これほど内心では焦がれているのに、ゾロが店主について知っていることと言えば数える程度だ。
名前はサンジ。
料理が美味い。
口が悪い。
ヘビースモーカーで女好き。
それ以外何も知らないのに、こんなにも心惹かれるのはなぜなのか。
もっと奴のことを知りたい。
そう思い詰めても、引っ込み思案で極度の人見知りなゾロには、とても声を掛けるなんてできなかった。

目が合うだけで心拍数が一気に上がり、頭に血が昇って思考が真っ白になってしまう。
初めてのプレゼンでだってこんなに緊張しなかった。
きっとまともに目を合わせて言葉をかわしたなら、その時点で血圧が沸点を越えてどっかで毛細血管が破裂するだろう。
そんな危惧を大真面目に抱いて、ただ密かにその姿を盗み見る。
叶わぬ想いと知りながら、焦がれずにはいられない。
ため息を一つ吐きどんぶり片手にそっと目を伏せるゾロの姿は、本人のあずかり知らぬところで注目されていた。
淡い色した野の花が゙咲き乱れる草原に、一つだけ紛れ込んだアマリリスが゙でっかく根を張ったように、不自然で悪目立ちする情熱の恋の花だった。

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