Oath -4-


サンジはラウンジの壁に凭れた格好で目を覚ました。
明かりが煌々とついている。
ゾロの姿はない。時計を見ればまだ夜明け前だ。
ゾロは見張り台にいるか、男部屋で眠っているのだろう。
身体が鉛のように重い。
腕を上げようとして、痺れて思うように動かせないことに気付いた。
縛っていたロープは切り離されて床に落ちている。
床に投げ出したままの腕はまるで自分のものではないように感覚がない。
筋を傷めてしまったのかとひやりとしたが、圧迫から開放されてまだそれほど時間が経っていないせいだとわかりほっとした。

ゾロは、夜中中サンジを弄んでいた。
縛りつけ自由を奪い、あちこち噛み付いては、痛みに苦しむサンジを見て笑っていた。
笑いながら歯を立てて、犯しながら傷つけた。そのことを思い出して、今更ながら恐怖に竦み上がる。
サンジの腕には幾重にも巻かれた縄の痕が痣となって残っている。
袖に引っ掛けただけのシャツの下は、噛み痕だらけだ。
すぐに目に付く腕の内側の傷は、ゾロの歯並びそのままに綺麗な歯型がついて血が滲んでいる。
それらがそこかしこに、それこそ身体中に遺されていた。
乳首は、片方が半分切り込みを入れたかのように裂けて血が流れている。
もう少しで噛み千切られていたと、改めてぞっとした。
今は合わせた足の間にも、いくつもの跡が残されているのだろう。
見えないけれど臀部にも、背中にもあるはずだ。
痛みと恐怖に意識を失う間際、垣間見たゾロの口元からは血が滴り落ちていたから。
その形相が脳裏に甦って、サンジは叫びだしそうになった。
恐ろしい。
ゾロが、恐ろしい。
人に対して恐怖を感じたことなどなかったのに・・・
これほどまでにゾロが恐ろしいと、サンジは改めて身に降りかかった事実に打ちのめされ、その場から動くことさえできなかった。


やがて空が白みはじめ、風が吹いて船を心地よく揺らす。
その頃にはサンジはなんとか身を起こして、立ち上がることができた。
当分仲間たちは船に帰っては来ない。
ゾロも寝てしまったら起きてこないだろうから無理に急がなくてもいいけれど。
それでもこの痕をすべて消してしまいたかった。
どこが痛いんだからわからないくらい、どこもかしこも痛む身体を引き摺って、シャワー室に入る。
冷たい水が傷に沁みたが、すぐに感覚が麻痺して痛みがマシになった気がした。
チョッパーには後で何か理由をつけるとして、ともかく薬をつけてしまおう。
早く、治してしまわないと。
誰かに気付かれる前に。
誰にも気付かれないように。
まだ血が滲む胸を押さえてタオルで水分だけ拭き取る。
髪を洗うとき酷く沁みて、頭まで噛まれたことを思い出した。
無茶苦茶だ。
ゾロは、狂ってしまったのだろうか。
とても正気とは思えないゾロの行動が不可解でならない。
なんで、どうして。俺たちはこんなことになってしまったのか。
考えても埒が開かず、いっそあれは夢だったのではないかと馬鹿げた考えまで頭を過ぎる。
だが鏡の中の自分の姿は夢で片付けられないほど惨憺たる有様だった。
自分で気付いていた以上に傷跡が多い。
正面から写しただけで、ぎょっとして目を引くような噛み跡がこれ見よがしに刻み付けられていた。

ここまで噛んだら顎だって疲れるだろう。他人事のようにそう思って、そんな自分が滑稽で顔を歪める。
泣きたくないけど、泣きたい気分だ。
どうにでもなれと、半分自棄になりながら傷薬を塗った。
塗りながらも、サンジの頭の中は疑問だらけで落ち着かない。
どうしたって、ゾロが豹変する理由が思いつかない。

まだふらつく足取りで男部屋に戻ると、恐る恐る戸を開けた。
中に人の気配はない。
ならばゾロは、見張り台で眠っているのか。心底ほっとして、とにかく服を身に着けた。
首の横や、恐らくは真後ろにも歯型が残っているだろう。
シャツのボタンを留めてネクタイをきっちりしめても、赤い痕はちらちらと見えてしまう。
いっそスカーフを巻くかとも考えてたが、神経質になっても仕方がないと、ともかくきちんと服を着てラウンジへと戻った。
扉を開けて、その場で立ち尽くす。
思いもよらず、先にゾロが来ていた。
蒼白のまま立っているサンジを見て、ゾロは気安く笑いかける。
「なんだ、相変わらず早起きだな」
その笑顔は、夕べ見せた酷薄なそれでもなく、愉悦に歪んだものでもない。
まるで親しい友人に投げかけるような邪気のない笑み。
そのことが余計サンジを戦慄させた。
「男部屋でゆっくり休んでるといい。ここは俺が掃除しておく」
手にしたモップで、ゾロは床を拭いていた。
夕べサンジを陵辱した痕跡が、ゾロの手で消されていく。
サンジは身震いして、その場で後ずさった。
その気配を察して、ゾロが顔を上げる。
「それとも、飯を作ってくれるか」
素朴な問いかけだ。見つめる視線に他意はない。
脅迫も快楽も、揶揄も嘲笑も。
サンジはまた後ずさって、ラウンジから出た。
「・・・俺は、街に帰る」
「そうか、気をつけてな」
ゾロはそれきり興味をなくしたようにまた掃除に没頭し始めた。
手際よく、床が綺麗になっていく。
そのことが恐ろしくて、サンジはそれきり振り返らずに船を後にした。

早朝のまだ人気のない街を、足を引き摺るように歩いた。
怪我をしているわけではないが、あちこちが痛んで真っ直ぐに体勢を保てない。
心臓がどくどくと鳴って、額から汗が滲む。
息が荒くなって喉の奥に熱が篭もっているのがわかった。
夕べ取っておいた宿に入るとサンジはベッドに倒れ込み、そのまま熱を出して寝込んでしまった。
夢の中に、何度かゾロが現れて笑いながらサンジに噛み付いた。
ゾロの歯は牙に変わり、サンジの皮膚を食い破って鮮血を迸らせる。
肉を千切られ骨を砕かれる感触に叫びながら、実際には掠れた声を上げて、サンジは何度も覚醒した。
そうして夢であることを確認して、また浅い眠りへと落ちていく。
それを何度か繰り返しながら、サンジはひたすら恐怖と戦っていた。
実質的な痛みよりもより長く辛かった飢餓の記憶を取り戻そうと、夢がその状況を呼び戻す。
けれど夢の中の痩せ衰えた自分はゾロの手で掴み上げられて、骨まで噛み砕かれ無くなってしまうのだ。
痛くて苦しくて、助けてと叫んでも誰も来なくて―――
それでも、目を覚ませば夢だと知れて、安堵より哀しくなって、涙を流しながら熱に浮かされて眠り続けた。

そうして三日も経つ内に、サンジは一人でそれを乗り越えた。
元来打たれ強い上に、自己治癒力が高く鷹揚な考え方を持つお陰で、一度切り替えてしまえば立ち直るのは早い。
あれは悪酔いの結果だと、そう思うことにした。
ゾロも自分も酔ったのだ。酔った上で、常軌を逸した行動に出たのだお互いに。
この期に及んで、ゾロに酷いことをしたと詰ろうとは思わなかった。
ゾロを受け容れた時点で自分も共犯だと思っていたから、ゾロ一人を悪者にする気はなかった。
どうにかしていただけだ。
人間だから、過ちはある。
その証拠に、ゾロは翌朝何一つ悪びれたところがなかったじゃないか。
ゾロの態度が変わらないなら、俺もそれに合わせればいい。
どうしてゾロがこんな行動に出たのかなんて、真相には目を瞑ってサンジはそう思い込むことにした。

ログが溜まる集合の朝、早めに宿を出て市場へと足を運んだ。
ずっと寝てばかりで、ろくに食事もとっていない。
屋台で何か朝飯でも取ろうかとぶらついていると、潮風に煽られて危うく人にぶつかりそうになった。
横から突き出された手に引き寄せられて、転ばずに済む。
「あ、悪い・・・」
馴れ馴れしく肩を抱く男を振り返って、それがゾロだと気付いて硬直する。
いつの間に、傍まで来ていた?
「お前、なにふらふらしてんだ。具合悪いのか?」
なんでもない風に、ゾロが聞いてくる。
まるで親しい仲間に声をかけるように。
気遣いさえ伺わせて。
「あ・・・あ、いや・・・まだ飯を食ってねえから・・・」
「そうか、俺もだ」
そう言って、肩を抱えたまま大股で歩き出した。
歩調に引き摺られるように、サンジは危なっかしく連れられて歩く。
「お前、船は?」
「ウソップとチョッパーが早くに帰ってきた。お前を探しに来たんだ」
面と向かってそう言われて、思わず口篭ってしまう。
ゾロが俺を探しに来たって、なんで―――
「お前、出発の日は市場で買い出しするだろうが。荷物持ちくらいしようと思ってよ」
そう言うゾロの表情はあくまで屈託がない。
サンジにした仕打ちが嘘のように、曇りもなく晴れやかだ。
「・・・そりゃ、どうも」
仕方なくサンジはそれだけ言って、目に付いた屋台に入った。

二人で並んで朝飯を取り、ゆっくりとコーヒーを啜る。
頭の上は相変わらず青い空が続いていて、風もここちよい程度だ。
「出航にはいい日和だな。ナミは上機嫌だろうよ」
「・・・そうだな」
なんだって、二人仲良くお天気の話なんかしてるんだろう。
やっぱりあれは酷い悪酔いで、もしかしてゾロは自分がしたことなんて覚えてないんじゃないだろうか。
あんな痕が残っていたのに?
不意に、ゾロの手がサンジの首の後ろに触れた。
びくついて首を竦めるのに、がっちりとでかい手が逃がさないように掴んで引き寄せる。
「・・・な、なんだよっ」
見返す目が怯えないように、サンジは必死で表情を作った。
それでも間近まで顔を寄せたゾロの視線が恐ろしい。怖くて堪らない。
「まだ痕は残っているな」
言われてはじめて、そのことを思い出した。
ゾロに噛まれた痕はまだその色を薄めたくらいで、一目でわかる傷跡として残っている。
首の後ろの歯形を確認したのだろう。
「てめえ、どう言うつもりで・・・」
サンジはゾロを睨み付けて声を潜めた。
ここで声高に言い争うつもりはない。
「どう言うつもりってか?なに、単にてめえが他の奴と寝られねえようにしただけだ」
ゾロはそう言い切って、また鼻の頭に皺を寄せるようにして笑った。だがサンジはその答えに愕然とする。
「なんだって?」
「だから、そんな痕ばっかつけてたら、みっともなくて女と遊べねえだろうが。現にてめえ遊んでねえな。遊ぶどころかろくに飯も食ってねえだろう。もっと食えよ」
上機嫌に笑い、自分の分までパンを薦める。
だがサンジは拳一つ動かせなかった。
「それ以上痩せちゃなんねえぞ。ガリガリじゃあ抱き心地だって悪い。だがまあ、てめえのその骨ばってるところも、俺の好みではあるんだが」
ゾロは声を落としてサンジにしか聞こえないようにそう囁いた。
「今度は、その骨ごと噛んでやろうか」
心底ぞっとして、ゾロを見返した。
ゾロは相変わらず、澄んだ目でサンジを見つめ、笑っている。
その笑みに嘲りはない。
それどころか、どこか包み込むような慈愛に満ちいていて、優しいとすら感じる眼差しで・・・
「さっさと食わねえと、またナミに遅いとどやされるぞ」
そう促されて、サンジは差し出されたパンを齧った。
砂を噛んだような、味のない感触だった。




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