にょろにょろろ  -2-


「ねェか?」
「え…ああ、いや。そりゃあ…てめェがそんな殊勝なコト言うんだ。ありがたく何か頼むケドよ。でも…なんでだ?大体、風呂場に軟禁状態にしといて聞く事か?」
「他の奴らに聞かれっと照れくさいじゃねェか。…良いから早く言え」

 なんなのだろうか。突然《敬コック精神》に目覚めたのか?今日は勤労感謝の日か?でも、《して欲しいこと》を尋ねるだけで照れてしまって恥ずかしいなんて、サンジはゾロにとってどういう存在なのだろうか?

「じゃあ…俺の名前呼べ」
 
複雑な心中を反映してか、思わず、一番気にしていた核部分の欲求が飛び出してしまって、慌てて口元を覆う。

「名前?」

 驚いたように問われて、余計に泣きたくなった。こいつは改めて問わなければならないほど、サンジの名前に無頓着だったのか。

「……言いたくなかったら、別にいいぜ。てめェは…俺の名前なんて、覚えてもないのかも知れねェしな」
「そういうわけじゃねェ。ただ…照れくさいだけだ」
「…元は敵だったビビちゃんや、ロビンちゃんの名はあっさり呼ぶのに、なんで俺の名前だけ恥ずかしいんだよっ!!」

 あんまりな台詞に、サンジは爆発してしまう。
 ああ…もう、大嫌いだこんな男。無神経で無遠慮で、勝手に心の中に踏み込んで繊細なサンジの心をぐしゃぐしゃにしておいて、興味が無くなったらプイッと何処かに行ってしまうのだ。
 サンジといることなんか《恥ずかしい》と切り捨てて…。

「恥ずかしいんじゃねェっ!照れくさいって言ってんだろうがっ!!耳腐ってんのかてめェっ!素直に汲み取れよクソコックっ!」
「…っ!」

 いつもの罵倒なのに、《して欲しいこと》を問われてなお繰り返された渾名に、とうとうサンジの瞳からは涙が溢れてしまう。蒼い瞳を子どもみたいに潤ませて、ぼろぼろと涙を零していたら、ぎょっとしたようにゾロの手が伸びてくるけれど、思いっ切り撥ね除けてやった。

「もう…二度と名前なんか呼ばなくて良い!バカっ!あほ…っ!てめェなんか、俺だって大嫌いだっ!!」

 泣き喚くサンジは歪んだ視界の中に、ぴょこぴょこと懸命に地を這ってくる緑色の塊を見つけた。浴室の扉にはゾロとサンジの喧嘩や戦闘によってついた傷が沢山あるから、その一つから入り込んだらしい。

「ニョロ、ダメだぞ。こんなとこ来ちゃ。踏み潰されたり、水で流されちまうっ!」
「虫なんかどうだって良いだろうが!」
「うっせェっ!てめェみてーなロクデナシに比べたら、ニョロの方がずっと優しくて可愛いぜっ!」
「む…虫けら以下だとっ!?」

 まあ、文字で顕すとそうなる。
 けれどサンジにとってニョロはもう、ただの虫ではないのだ。無神経にサンジを傷つけたゾロに比べれば、どうしたって株が上がってしまう。

 ニョロはその事が分かっているかのように、嬉しそうに頭を擡げると、《きゅーきゅー》と存外可愛らしい声を出してサンジに呼びかけた。《抱っこして》とねだる幼児のようだ。

「お〜よしよし。ニョロ。ラウンジに戻ろうな?今日は俺が添い寝してやるよ。でも、コンテナから出ちゃダメだぞ?俺の顔が見えれば安心だろ?」

 掌に大事そうに載せて、いつものようにチュッとキスをしたサンジだったが、この時…瞳から零れた大粒の涙が、そのまま頬を伝っていることに気付かなかった。

 …ポチャン

 水滴状になった涙は落下して飛沫を上げ、そして…急速にニョロの身体を変化させていった。

 ずののののの……っ!!

 見る間にむくむくと巨大化していくニョロに、サンジは愕然としてしまう。吃驚して取り落としそうになったのだが、相手はやはり大事なニョロだ。びくびくしながらも手の上に乗せたままでいたら、とうとう持ちきれないくらいの大きさになってきたので、そっと床に降ろして様子を見守った。

「しまった…。ニョロは体液を被ると興奮するんだった!」
「いや、こりゃあ興奮とかいうレベルじゃねェだろ?思いっ切り変態してんじゃねーか」
「ニョロに変態たァどういう言いがかりだ!」
「アホっ!よく見ろっ!繭作ってんじゃねーかっ!」

 なるほど、丸まるとした身体はしゅるしゅると吐き出される糸によってあっという間に取り巻かれ、コロンとした大きな繭を構築してしまう。蚕のような習性があったのか。

「綺麗な糸だな〜。糸巻き車があったら、トンカラリと紡いで絹糸みたいなのがとれるかもしんねェ。凄ェぞ、ニョロ!」
「しかしよ、こいつ…こんなにでかくなったんじゃあコンテナに住めねェぞ?」
「う…」

 それは確かに困る。幾ら何でもナミにばれてしまうだろう。《ちゃんと世話するから飼わせて!》とおねだりするしかないだろうか?なんだか捨てられていた子犬を拾ってきた子どもの気分だ。

「蜜柑畑とは隔てて、ニョロ畑を作ってやる」
「この繭から出てきたら、姿も変わるぞ?そもそも、土に住まなくなるかも知れねェ。更に気色悪くなった上に、役立たずになったらどうする。」
「…ニョロはニョロだ。愛せるように努力する」
「愛…ねェ」

 呆れたように鼻で嗤うこいつが嫌いだ。
 こいつは《愛》という言葉そのものを軽視している節がある。だから、サンジがやたらと《愛》だ《恋》だというので嫌っているのかも知れない。

「てめェにとっちゃ、バカバカしいコトなんだろうな…。だけどよ、俺にとって誰かを愛しいと思ったり、可愛いと思うことは凄ェ大事なことなんだ」

 そっと繭を撫でながら思う。この中から出てくるニョロがどんな姿であっても、無事に成長してくれれば良い。泣いているサンジを慰めようと駆け(?)寄って来てくれたニョロには何の咎もないのだから、誠心誠意大切に育てたい。

「俺はさ…誰かを好きだって気持ちで笑うし、嫌われたら泣くんだ。良いとか悪いとかじゃなくてさ、そういう男なんだ。そういうのがどうしても嫌なら、もう俺に関わるなよ。気になってる奴に嫌われるのって、結構辛いんだぜ?」

 如何に自分が辛いかを説明しようとして、サンジは殆ど何も考えずに本音を語っていた。予想外の速度で《気になってる奴》が食いついてくるとは思いもよらなかったのだ。

「おい、《気になってる》ってのはどういう意味だ?」

 両の手首を乱暴に掴んで迫られると、ドンと繭に当たってしまう。逃れようと藻掻くと自動的に繭を潰しそうになるから、狭い浴室ではあまり大きな動きが出来ない。せいぜいそっぽを向くことしかできなかった。
  
「そのまんまだ。特に意味はねェ…っ!」
「んな訳あるかっ!言えっ!!」

 手首が折れそうなほどの力でガクガクと揺さぶられていたのだが、突如響いた《敵襲!》というウソップの声を聞くと、目線を見交わして小さく頷く。一時休戦だ。仲間の危機を前にして、痴話喧嘩もどきなどしている場合ではない。

 サンジにとっては《助かった》という気持ちもある。
 うっかり本音の部分が出てしまったせいで、よりによってゾロの前で情けなく泣き喚き、《気になってる》なんてホモ疑惑をかけられそうな発言までしてしまったのだ。あのままではどんな追求を受けるか知れなかった。

 甲板に飛び出していくと、夜襲を掛けてきたガレオン船が至近距離まで詰めていた。どうやらヤクモ島からメリー号をつけてきたらしい。今この船には空島で得た金塊がたんまりと載っているから、それに気取られたのだろうか?

 しかもこの敵は用意周到だった。甲板に飛び出してきたルフィ、ロビン、チョッパーを見て取ると、正確な狙いで投網を仕掛けてきたのである。網に捕らえられた3人は見る間に動く力を失っていたから、おそらく海楼石を仕込んだ網に違いない。

「クソ…っ!」

 海楼石の網はちょっとやそっとでは破れない。硬度自体も極めて強靱だからだ。サンジはラウンジ前から跳躍して、網の上から押さえようとしていた連中にパーティーテーブル・キックコースをお見舞いすると、網の端を掴んで能力者達を引きずり出そうと試みた。
 
 だが…その作業にはどうしたって危険がつきまとう。無防備になった背中に斬りかかられ、避け切る事が出来なかった。いつもなら背中合わせに闘っているゾロは、敵の剣士が手練れであったせいか庇う余裕がなかったらしい。

「……っ!!」

 背中が焼け付くように熱いが、どれくらいの傷なのかは分からない。咄嗟に回し蹴りをお見舞いして敵を倒すと、また仲間の救出を続ける。チョッパーを網から引き抜いて放り投げ、ロビンの手を掴んだところで背後に敵が殺到してきたのだが、撃退しようと振り返ったその視界には剣を構えたゾロがいた。敵の剣士は倒れていないが、隙を突いてサンジを庇いに来たらしい。

「…ゾロっ!」
「下手うちゃあがって!」
「うっせェ…っ!」

 やっぱり嫌いだ。
 《背中の傷は剣士の恥》だとこいつは言うが、サンジはコックだ。ドラムに引き続いて、背中に傷を受けたって別に恥じるところはない。
 そう思うのに…悔しくて恥ずかしくて、余計に動きが鈍ってしまう。

「ロビンちゃん…ルフィ…早く、逃げろ…」

 出血が結構酷いのだろうか?あるいは、刀に何か塗ってあったのか。頭がくらくらして上手く動くことが出来ない。網からロビンを引き抜こうと腕を伸ばしたまま、がくりと横倒しに倒れてしまった。

「…コック!」

 ダメだ。ゾロが呼んでいるのは分かるがもう動けない。予想外に多い出血はだくだくと甲板を紅く染め、その中に浸されるようにして身を転がすしかなかった。
 その間に、ゾロが再び敵の剣士と斬り合いになったが、その姿も次第に薄れていった。

『ゾロ…』

 雄々しく骨太な生き様が眩しかった。
 何かと言い訳の多い人生を歩んできたサンジだったから、余計に自らに対して恥じるところのないゾロが羨ましかった。

『ホントは…もっと、喋ったりしてさ…てめェがナニ考えてんだとか知りたかったな。やっぱ人間だから、悩むこともあったのか?俺のことも…少しは仲間だと思っててくれたら…嬉しかったのにな』

 そうだ、ニョロが風呂場で繭を作ってしまったのも、あのままにしておいてくれるだろうか?ナミは嫌がって海に捨てたりしないだろうか?

「ぞろ…にょろ…」

 よく似た響きの名前を二つ呼びながら、サンジはほろりと涙を零す。 
 すると…突然、ドォン…っ!と巨大なものが壁にぶつかるような音が響いたかと思うと、敵の海賊達が絶叫を上げた。

「うわっ!な…なんだありゃあっ!?」
「化け物…っ!!」
「きゃーーーっっ!!」

 合わせてナミの叫び声も聞こえてくる。すばしっこく逃げ回って闘っていたのか。



*  *  * 



「こいつは…」

 ゾロには、《こいつ》が何者か分かるような気がした。出てきた場所が、メリー号の風呂場だったからだ。

「てめェ…あの虫かっ!?」

 色はよく似ている。ゾロの髪色にも似た若草色だ。
 しかし、大きさと形状は全く違っていた。甲殻類とも昆虫ともつかぬ鋭角を為す身体はがっちりとした殻に護られ、怯えた敵海賊が銃撃を集中させても悉く弾いてしまう。

 ニョロはサンジの姿を目にすると、《キシャァァア……っ!》と咆吼を上げて怒りを表した。そう、ニョロはサンジを血まみれにした連中に怒り狂っていたのだ。兜のような形状の頭部には、小さかったときには見られなかった目がついているのだが、それが血のような色に染まって光りを放っている。
 その姿はまさに怪獣。状況も忘れてルフィとチョッパーが瞳を輝かせていた。

 ニョロは高々と身を上げたかと思うと、全長2mを越える硬い蛇のような身体から無数の触手を伸ばし、甲板の上を高速で張ったり、空中を飛来させて、次々に海賊達を捕らえて締め上げていく。《ゴキ…》《バキ…っ!》と各所で鈍い音を立て、敵が動きを止めたと見るや、ポイポイとゴミのように海に投棄していった。大した力だ。

『コックはこいつが護るか?』

 ゾロは異常事態に素早く適応すると、意識を集中させてなかなかに手強かった敵の剣士を斬り倒す。この男以外は大した敵ではなかったので次々に蹴散らしていくと、ニョロの活躍もあってメリー号の上に立っている敵海賊はいなくなった。
 そこで漸く落ち着いてきた仲間達も、改めてニョロという異常な存在に触れてきた。

「な…何なの?この化け物は一体…!?」

 ナミが叫び声を上げる中、血まみれのコックはニョロの触手に包まれて、衣服を剥がされ、背中の傷を検分されていた。次第に興奮が醒めてきたのか、ニョロの瞳は攻撃色を思わせる紅から哀しげな蒼に変わり、触手もいたわるような動きでイソギンチャクのように優しくコックに触れた。

「ちょ…サンジ君、食べられちゃうっ!?」

 ナミは助けに行こうとしたが、幾分躊躇している。触手部分の動きが怖いのだろう。ウソップは虫の類は平気だし、遠隔攻撃も出来るからパチンコに火薬を仕込んで撃ち込もうとするが、ゾロはそれを手で制した。

「あいつは…コックを喰ったりはしねェ。…筈だ」
「筈ってゾロ…お前ェ、あの化け物を知ってんのか?」
「ありゃあ、コックがコンテナで飼ってた虫だ。元はちっさいモンだったんだが、コックの涙を浴びて繭になってよ、ものの数分であんなにでかくなっちまった」
「つまり、不思議生物だなっ!!」

 網から救い出されたルフィは瞳をきらきらさせながら感動している。すぐに駆け寄って触ろうとしたが、ニョロはビシッと触手の鞭で打ってきた。敵だとは思っていないのだろうが、それでも、コックに触れさせたくないらしい。
 幼子を全身でくるむ母のように触手をコックに絡み付かせると、《オォン…》《クォオン…》と切なげに鳴く。コックが怪我をしていて、意識を取り戻さないことが哀しいのだろう。

「おい、なぁ巨大虫〜。サンジは大丈夫なのか?」
 
 あまりに哀しげな様子に、ルフィもよほどコックの具合が悪いのかと不安そうな表情になる。動けるようになったチョッパーも同様だ。

「む…むむ…虫ィ…っ!お、俺…医者なんだっ!サンジを渡してくれっ!治療をしたいんだっ!」
「斬るか?」

 気持ちは分からんでもないが、このまま虫に抱きつかれている内に手当が遅れて死なれたのではかなわない。ゾロは三代鬼徹を抜こうとしたが、当のコックがそれを止めた。触手の間から腕を伸ばして、ゾロを制している。

「斬る…な…」
「おい、コック!無事なのか?」
「おう…」

 瞬きして少し身体を動かしたコックは、自分の背に手を回してごそごそやっている。横でハラハラと見守っていたチョッパーが驚いたような声を上げた。

「サンジ!背中の傷治ってるぞ?」
「マジか?そういえば痛みがねェ…」

 確かにそうだ。傷跡自体はピンク色の盛り上がりとして残されているが、もう出血はしていないし、本人にも痛みはないようだ。

「ニョロ…お前、俺を助けてくれたのか?」
「くー」

 誇らしげに頷くニョロはすっかり面変わりしていたが、巨大な甲殻類を思わせる姿は、鎧を纏った騎士にも似ている。色白で金の髪を持つコックを抱えていると、微妙に中世絵巻のような光景にもなる。

 ただ、コックが意識を取り戻したことで嬉しくなったのか、わしゃわしゃと触手を蠢かせ始めた様子は、はしゃぐペットのようだった。コックはそんなところも可愛いと思うのか、《よせよ、くすぐったい》とは言いながらも、怒ったりはしなかった。それどころか感極まったように涙を零している。

『クソ…泣き虫め』

 コックの傷が治ったのはありがたいが、こうも虫とコックの仲睦まじさを見せつけられては、ゾロとしては面白くない。さりとて力づくで引き離すのも躊躇われて、結局敵前逃亡ともとれるような形で背を向けた。

 しかし…その背後で、コックが妙な声をあげ始めた。

「ちょ…ニョロ、ニョロ…っ!?よ、よせって…どこ触ってんだっ!?」

 くすぐったそうにしていた声が急に切羽詰まったようなものに変わった。不審に思って振り向いた先では…コックの両腕はバンザイするような形で手首を拘束され、白い肌に濃い若草色の触手が這い回っている。妙に興奮したようなニョロの瞳は、蒼からピンクに変わっていた。

「てめェ…っ!また虫に涙を掛けたんじゃねーのかっ!?」
「あっ!」

 血液では別に変化を起こしはしなかったのに、涙にはえらく反応するらしい。前回は身体が変態したが、どうやら今度は性格の方が変態になってしまったのか。仔犬のようだった無邪気な動きはどこか淫らな色を含んで、うねりながらコックの身体を嬲っていく。

「いや…ゃ、ヤダ…ニョロ…だめ…っ!」

 押し殺したようなハスキーな声は、明らかに男のそれだというのに、演技が入ってないぶん、商売女の嬌声よりも遙かに滾るものがある。あの色気とは無縁なルフィでさえ、股間を押さえてオロオロしていた。

「ど…どどど…どーしよっ!?サンジのヤツ気持ちよさそうだけど、止めた方が良いのかな!?」
「気持ちよく…なんか……ぁんっ!」

 思わず零れた嬌声に、ウソップも陥落した。鼻血で顔の下半分を染め上げて蹲っている。片手は股間に添えられているが、扱いてしまいそうなのを必死で食い止めているらしい。

 これは大変なことになってきた。




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