野分 -5-


シモツキ村の正午は、「シモツキ音頭」が知らせてくれる。
村内のそこかしこに設置されたスピーカーからのどかなシモツキ音頭が流れてくるのを聞いて、サンジはさてとコンロの火を止めた。
程なくして、表に車が止まる音がする。
複数のエンジン音が聞こえたから、やっぱりなと一人でニンマリ笑った。

「おかえり」
「ただいまー」
ゾロより先にヘルメッポが我が物顔で入ってきた。
「あ、今日はカレーですね!」
続いたコビーも嬉しそうに鼻をヒクつかせる。
「やっぱりみんな来たな」
「飯だっつったら勝手についてきやがった」
ゾロは仏頂面で入ってきて、外へ促すように顎をしゃくった。
「後でスモーカーも来るから、たしぎとすゑさん用になんか持たせてやってくれって」
「了解、そんなことだろうと多めに作っといた」
さすがあと背後から歓声が上がる。
ヘルメッポーはもう勝手に皿を出して、自分の分をよそっていた。
コビーは甲斐甲斐しくみんなの分の皿を用意している。

「お邪魔します」
遠慮がちに顔を覗かせたカヤに、サンジはへにょんと眉尻を下げて両手を広げた。
「いらっしゃいカヤちゃん!小さい家だけど、どうぞ」
「ありがとうございます」
にっこり笑って玄関に入る後ろで、ウソップらしき影がゆらりと揺れた。
サンジは火の点いていない煙草を咥えたまま、ん?と改めて向き直る。
「どうしたウソップ、なんか顔色悪いぞ」
「そうなんです、お店に迎えに来てくださった時からなぜか元気が無くて」
「・・・や、大丈夫。ちょっと車に酔ったかな・・・ははは」
カヤの背後で引きつった笑いを浮かべるウソップは、なんだか妙な表情をしていた。
顔面蒼白という訳ではないが、変な血色だ。
「まあ、上がって落ち着け」
せっかく遊びに来てくれたのに、具合が悪くなっちゃカヤちゃんが気の毒だ。
サンジはそう言って、さっさと中に入った。


「はい、これが地元の名水」
冷蔵庫で冷やしておいた水をピッチャーに入れ、卓袱台の真ん中にでんと置いた。
それとは別に、ウソップとカヤのために水を汲んだグラスを手渡す。
「美味いぞ。水だから無味無臭なんだけど、なんか美味い気がする」
「・・・ほんとう、美味しい」
カヤは神妙な面持ちでグラスに口をつけ、一口含んで表情を緩めた。
「冷たくて、とても美味しいです」
「そりゃ冷蔵庫に入ってたからだ」
ヘルメッポに突っ込まれ、照れたように笑う。
いつもなら突っ込み役のはずのウソップは、水を入れてグラスが曇るくらい大きなため息をついて勢いよく飲み干した。
「ああ美味い、もう一杯!」
「CMかよ!」
ゲラゲラ笑い声が響く中で、少しは顔色も戻ってきたようだ。
サンジは横目で確認して安堵し、スモーカーのためにテイクアウト用のカレーを準備した。



「美味い、サンジのカレーは絶品だな」
「でもこれ、夏に試食したものとちょっと違うようですが」
「これは海軍カレーだ」
「なるほど〜」
「違いがわかんのかよっ」
「とても美味しいです」
すぐにやってきたスモーカーに4人前のカレーを渡し、残る6人で卓袱台を囲んだ。
メニューはカレーとサラダにゆで卵、漬物各種。
シンプルだがお代わりは自由。
ゾロと2人でゆっくり食べる昼食も楽しいが、やはり人数が多いと楽しさ倍増だ。
「お二人さんはいつまでここにいられんだい?」
「明日までです、もう一泊して帰ります」
カヤは話しかけられる度に生真面目に手を止めて、質問者へと顔を向け丁寧に頷く。
「あの山の上のホテルか、俺らも一度泊まってみてえなあ」
「誰とだよ」
「そこ突っ込むなよ!」
ベタなボケと突っ込みに、コロコロと笑っている。
隣のウソップは、やはり口数が少ない。
けれど食欲は旺盛なようだから、心配は無用だろうか。

「午後はどうすんだい?」
「また、たしぎさんのお店のお手伝いをさせていただこうと思っております」
「急に忙しくなって、大変だったろう」
「いえ、でもお待たせしてしまって申し訳なかったです」
今日は平日だからさほど客もいないだろうと言っていたはずなのに、昼前から急に村内の客が増えた。
たしぎがツイッターで「お店に似合う美女なう」と呟いたからだ。
携帯もろくに使えないおっさん達はツイッター機能だけマスターして日々の情報収集に余念が無く、カヤのことも情報を得た者から口コミで瞬く間に村内に知れ渡った。
結果、鼻の下を伸ばしたおっさん達が入れ替わり立ち代り和々を訪れ、思いもよらぬ商売繁盛と相成った。
たしぎの商魂は、ゾロが知るナミのそれといささかダブる。
お陰で朝卸したケーキも数が少なくなり、サンジの方にも昼前に追加注文が入っていた。
午後にカヤを送り届けるときに一緒に持っていけるよう、すでに準備されている。
「平日に追加注文なんて、珍しいよな。カヤちゃんって福の神かもしれないね」
なんてことを暢気に話し合うサンジとカヤの間で、真相を知るヘルメッポ達とゾロは沈黙を守った。

「じゃあさウソップ、午後は俺と一緒にレストランに来てくれよ」
サンジが勢い込んで言ったからか、ウソップは条件反射的に身体を引いた。
「昼までに店の飾り用を結構作ってくれたんだろ?」
「ああ、まあ・・・なあ」
確かに、自然素材を使って色々作っては見た。
緑風舎に寄って南瓜もいくつか手に入れたし、今日にでもレストランに飾り付けないと明日はそんな時間が取れるかどうかもわからないし。
つまり、今行った方がいいことはわかってはいるが、ウソップとしてはこの流れでサンジと2人きりになるのはなんだかまずいような・・・
「な、ゾロ。俺と一緒に送ってくれよ」
「ああいいぜ」
ゾロは済ました顔をして頷く。
2人の間でさっさと取り決められて、ウソップは助けを求めるようにカヤへと視線を流した。
カヤはヘルメッポとコビーの会話に耳を傾け、楽しげに笑うばかりだ。

―――カヤ、俺もう帰りたいんだけど・・・
ウソップの無言の念など通じるはずもない。





「それじゃ、午後も頑張ろう!」
たらふくカレーを食べて満腹満足のまま、意気揚々とそれぞれの現場に戻った。
サンジはウソップとカヤと共に、ゾロが運転するバンに乗り込む。
先にレストランで卸して貰って、ケーキはそのままカヤに運んでもらうことにした。
「じゃあカヤちゃん、よろしく頼むね」
「お任せください」
レストランの前でウソップと2人降り、後部座席のカヤに手を振る。
サンジのひょろ長い痩身を後ろから眺めながら、ウソップは溜め息を吐きながら車から降ろした飾り付けの諸々を手元に纏めた。
「なんだよおい、随分元気がねえなあ」
どうしたんだと、生真面目な顔付きでサンジが振り返った。
「お前がそうだと、カヤちゃんも心配するだろ?俺でよかったら相談に乗るぜ」
いや、お前にできる相談じゃねえし。
そう呟きそうになるのを堪え、ウソップは引き攣った笑顔を返す。
「なあに、ちと体調が悪かっただけだ。けどさっきの美味いカレーで治った。ありがとうよ」
さあって、飾り付けすっかなーと元気に声を張り上げたウソップを見て、サンジもよかったと笑顔になってお勝手の鍵を開けるべく裏に回った。
「どこ弄ってもいいからよ、適当にやってくれ。俺、先に外回りの掃除してくる」
「ああ、先にできたらそっちも手伝うぜ」
午後からは天気が良くなってよかったなあと、独り言みたいに呟いて足取りも軽く表に出て行く。
隅まで綺麗に磨かれた窓の向こうに、箒を手にしたサンジの姿が見えた。
鉢植えの花殻を摘む姿さえ、随分と楽しげだ。

「・・・あいつ、幸せなんだな」
しみじみと、そう思う。
ここに来てから、ウソップはサンジの笑顔しか見ていない。
ゾロとの会話は聞いてるこちらがくすぐったくなるほど信頼しあってる感が滲み出ているし、たしぎやヘルメッポ達といった同年代の仲間にも恵まれているようだ。
初対面のウソップでも、ここはとても居心地がいい場所だって思える。
相当田舎で不便だったり窮屈だったりすることもあるだろうが、サンジはとても生き生きとして見えた。
なにより誰も見ていなくても自然と零れる微笑みが全てを物語っている。
「ゾロの気持ちは、本物だしな」
それは、ウソップにもイヤと言うほど伝わった。
とんでもない相談を持ちかけてはくれたが、とにもかくにもゾロは真剣だったのだ。
心から深くサンジのことを想い、気遣うからこそ生じた悩みだとも理解している。
理解してはいるが、あんなこと面と向かって尋ねられて即答できる奴がいたら会ってみたいというのが本音だ。
サンジが自慰行為をしたことがなかった、と言う事実はウソップにとっても衝撃だった。
当然通るべき道から、明らかにズレている。
確かに保健体育の授業も、男同士の稚拙な猥談からも距離を置いていた感はあったが、そこまで根が深いとは思っても見なかった。
それでは不純異性交遊も未経験だったろうし、チャレンジもできなかっただろう。
サンジ自身はそれで不便を感じなかったようだが、世俗を捨てた坊さんならとともかく身体的に健康な男子がそのまま成長できるとは驚嘆に値する。
そんな歪なままの思春期と青春を過ぎ、サンジはようやくゾロと出会った。
そうして初めて、本来自分で放つべき行為を教えられて・・・

「一体どこで間違ったんだろう」
ゾロが頭を抱えた問題に、ウソップもまた首を捻った。
特に聞き返したわけでもないのに、ゾロは非常にこと細かくそこに至った経緯を語ってくれた。
途中、いやもういいですから。
そこまでお聞きしなくてもわかりますから。
と遮りたくなったことは2度や3度じゃなかったが、結局ウソップは始終沈黙を守りすべてを聞き終えた。
ここまで話を詰めたからには、ちゃんと把握しておかないと答えられないと思ったからだ。
すべてを余すことなく聞き終えて、結果的に答えは出なかったのだけれど。
だってこれはもう、どうしようもない。
「ともかく今から矯正は無理だと思う。今後サンジが自分一人の時にするかどうかは、あいつ自身に任せろ。そう言うのこそ、自発的に行った方が自然だろうが」
すかんと晴れた青い空の下、そよぐススキの原に男二人が膝詰めに座って、一体なにを話しているのか。
我ながら信じがたくて狐にでも摘まれたような不思議な心地に浸りながら、ウソップも真剣に考えて答えた。
「お前は、そういうのは一人でするもんだと一度言ったんなら、それでいいだろ。一人ですることに対してまでお前が指導するこたねえよ。大丈夫だって、これから一生ずっと同じ夜を過ごす訳じゃねえんだし、お前だってどっか1泊や2泊で出かけることもあるだろう。サンジだって一人でどっか行くこともあるだろうし。そういう時に、ああこうやって過ごすんだなって自分でわかりゃそれでいいんじゃねえの」
「わかるだろうか」
「わかんなきゃそれでいいよ。だって今まであいつはそうして来たんだろう。自分がしんどいと思わなきゃ、無理にさせることもねえ」
一体なにを無理にさせるというのか。
「けど憶えたからにはいいらしいな。ものすごく嬉しそうにするんだぞ、俺の前で」
ウソップはああ〜と頭を抱えた。
「それはまあ・・・そのう、やっぱ最初の頃って夢中になるっつうか、なあ?」
わかるよな、と言えば、わかるとゾロは生真面目に頷いている。
「猿みてえなもんで、毎日でもヤリてえもんだ」
身も蓋もないが、まあそれが普通だ。
だからサンジの気持ちもわからないでもないが、だからってそこまでゾロに見せるってのは心を許したとか言う以前の問題のような。
「あいつは、お前とすることには抵抗がねえんだろ?」
そう聞けば、ゾロは憮然とした表情になった。
「・・・もしかして、最後までしてねえの?」
「ああ」
「それはゾロのが悪いだろう」
ウソップはきっぱりと言い切った。
話を聞いている限り、すべてにおいてゾロがリードする立場のようだ。
だったらそのまま勢いで押してやらなければ、サンジが受け入れるのを待っていては先に進まないと言うか・・・
「お前、そこまで気ぃ遣うのは逆にダメだと思うぜ」
サンジの過去にどんなトラウマがあろうと、そのことでお前が及び腰になってどうする。
つい発破をかける形になったが、勢いでそう主張した。
「男同士だとかサンジに辛い過去があるとか、確かにそういうマイナス面はたくさんあったって、結局はお前ら惚れ合ってんだろ?だったら繋がんのが自然の形じゃねえか。なのに、肝心のお前が躊躇ってどうするよ」
「やっぱりそうか?」
「おうともよ」
「お前が俺の立場でも、やはりそうか?」
問われて、うっと詰まってしまった。
俺とサンジが・・・いやいや、例えばカヤがサンジの立場だったら、確かに俺は強く我を通すことができるだろうか。
たっぷり考えてから、ウソップは観念したように恨みがましい目つきでゾロを見上げた。
「・・・難しいかも」
「だろ?」
なぜか勝ち誇ったみたいに笑い、ゾロは肩の力を抜いて背伸びした。
「ああ、喋っただけでなんか気が楽んなった。ありがとうよ」
「いいのか?」
「ああ、もとより答えを欲しいとは思っちゃいねえ。それは俺が見つけるもんだからな。ただ、誰かに聞いて欲しかったってのはある」
それは確かに、気持ちはわかる。
聞かされる方の身にもなってもらいたいもんだが、切実に気持ちはわかる。
「言うだけ言ってすっきりした。忘れてくれ」
「おう」
ここまで聞かされて忘れろもクソもないだろうが、ウソップは晴れやかなゾロの表情に釣られて一旦は笑顔になったのだ。
とは言え、なかなか衝撃は薄れない。
それどころか、仕事を終えて和々に迎えに行く道中にもどんどんとウソップの中で重みを増していった。
自分が想像していた以上のサンジの傷の深さとか、ゾロの想いの強さとか、だからってそりゃあんまりだろう的2人の営みとか。
色々考えて、遣る瀬無いような気恥ずかしいような居た堪れないような気分で胸がいっぱいになって、漏れるのは溜め息ばかりになったのだ。
そんな時に――――

「おう、さすがあ」
不意に声を掛けられ、ウソップは木の実で作ったリースを持ったままビクンと飛び上がった。
「綺麗にできてんじゃね、ハロウィンらしく賑やかだー」
いつの間に入ってきたのか、サンジはカウンターの中でエプロンを身に着けている。
「悪い、さっさと片付けて表手伝うっつったのに」
「いいよ、こんなにしてくれてすげえありがて」
コーヒーでも飲んで一服しようぜ。
そう誘われ、ウソップは壁にリースを掛けると手を洗ってカウンターに腰掛けた。

いつの間に作ったのか、コーヒーと一緒にケーキを乗せた皿まで出て来る。
「木の実とドライフルーツのケーキに洋ナシのソルベだ」
「おう、いただきます」
コクのあるコーヒーの香りが鼻腔を擽る。
静かなレストランのカウンターで、こんな風にほっと一息つけるなんてなんて贅沢な時間だろう。
「いいな、こういうの」
「あ?うん」
サンジは煙草に火をつけてゆっくりと吹かすと、満足そうに目を細め天井を見上げた。
明り取りの窓から、青空が見えている。
「いいだろこの店。なんか、俺が言うのもなんだけどほっとできんだよ。すげえ安心感」
「あるな、それ」
「お客さんがいても賑やかなんだけど、こうして一人でいてもなんか安らげる」
「店が休みの日は、こうやって掃除して一服してんのか?」
「ああ」
「ゾロと?」
「ああ」
こくりと、素直に頷く。
ほ赤く染まった頬が幸福に輝いて見える。
「幸せだな」
何気なくそう呟けば、サンジはそっと頷きかけて慌てて顔を上げた。
ボボボと音がしそうなほど、その顔が赤く染まった。
「馬鹿言え、お前らほどじゃねえや」
「いや、お互い様だろ」
はははーと笑いながらカップに口を付けた。
そのタイミングで、サンジはそっと上目遣いにウソップを見つめる。
「ところで、折り入って相談があんだけどよ」

キタ――――
ウソップは叫びたい衝動を押さえ、代わりに熱いコーヒーをごくりと飲み干した。





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