庭守と庭守と夜の巣箱
-7-


ゾロの思い出語りに誘われるように、サンジは奥の部屋に足を運んだ。
想像していた通りに、雨の午後でも庭の眺めは素晴らしい。
濡れた樹木の緑は色濃くなり、苔むした石畳も生き生きと輝いて見える。
ところどころ配置された石の窪みに雨水が溜まり、流れ落ちる様に目を奪われた。

老いてなお仲の良いおしどり夫婦に、二人を見守る心優しい家族。
自分の境遇とは真逆の、絵に描いたような美しい家族像に最初は反発も覚えた。
だがここまで突き抜けていると、いっそ清々しくて嫉妬心さえ湧かない。
別世界の夢物語だ。

「愛するおじいさんに見守られて、おばあさんは幸せに旅立ったんだろうなあ」
そう呟いてから、待てよと思い直す。
今この部屋にいないだけでもしかしたら入院していたり、もしくは施設に入ったりしているかもしれない。
勝手に感傷的になって、故人のような物言いをしてしまった。
「…あ、えっと」
慌てて言い繕おうと振り返ったら、ゾロはパソコンに視線を落としたままコーヒーを啜っている。
「それが、順番が逆になってな」
「え?」
「じいさん、園芸用品を買いに外に出て倒れて、そのままポックリ逝っちまった」
「えええっ?!」
なんてこと、と思わず口元を押さえる。
「あんまり急だったんでばあさんに知らせるタイミングを逃して、結局、言わずじまいだ」
「そんなんで、バレなかったの?」
ずっと二人暮らしだったなら、とても誤魔化せそうにないのに。
「その頃には日がな一日寝て暮らしてて、たまに目を覚ましてじいさんのことを聞くと、庭で草むしりしているとか買い物に行ってるとか、そう答えとくと安心してまた寝てだな」
おじいさんが亡くなってから、家族が交代で泊まって様子を見ていたという。
伴侶の死を知らぬまま、ちょうどひと月後、おばあさんも息を引き取った。
「その時は俺と姉がいたんだが、うとうとしていたばあさんが急にはっきりとした声を出した」
――――おじいさん。
「あまりにもしっかりとした声だったから、よそから誰か来たのかと思ったぐらいだ」
祖母はベッドに仰向けで横たわったまま、瞼を開いていた。
夜は更けていたが月が明るく、寝室のカーテンは開け放してあった。
青白く梢が伸びた樹影を指さし、微笑みを浮かべる。
『おじいさん、ほら、鳥が――――』
そう言ってすうっと息を吐き、そのまま手を下ろして目を閉じた。
それきりだった。


「知らずに逝って、よかったと思っている」
「――――・・・」
なんと言っていいかわからず、ただ胸を詰まらせる。
幸福な最期だと言えなくもないけれど哀れさも感じ取れて、でもそう思ってしまう自分がおこがましくて感情がない交ぜになった。

サンジはふと、顔を上げた。
降りしきる雨のせいで鬱蒼とした空に、樹の枝が幾重にも重なって影を落としている。
その中の、目を凝らさなければ見えないような暗い場所に巣箱があった。
その巣箱の真上の枝が、かすかに揺れた気がした。
雨のせいでも風のせいでもなく、その一枝だけが。

「どうした?」
窓ガラスに手を当て斜め上を見つめるサンジに、ゾロが声をかける。
「いや、なんでも」
横顔だけで振り返り、サンジは窓から離れた。

「なにか、手伝うことねえ?」
「もうねえよ、お疲れさん」
草々にお払い箱を宣言され、がっかりする。
「なんでー、俺結局、午前中しか仕事してねえし」
「思ったより捗ってんだ。あとは俺も事務所でやるし」
「事務所?」
ちょっとびっくりして、大きな声が出てしまった。
「え、事務所あんの?」
「ああ、いくら自営業でもこの家だけで仕事回してる訳じゃねえぞ」
「えーそうなの?」
立派な樹木がたくさん植わっているし綺麗な庭もあるし、倉庫に機材がたくさんあるからてっきりここが自宅兼仕事場だと思っていた。
「そういや、うちも店舗兼住宅だけどもっと広いな」
考えてみればここは単なる平屋建てで、仕事をするには狭すぎる。
「ああそうだ、頼みたいことがある」
サンジの台詞でなにかを思い出したように、ゾロが唐突に口を開いた。
「え、なに?」
「お前んち、フレンチレストランだけど確か手土産用の菓子とかも扱ってるよな」
「ああ、シスターアンコーの焼き菓子はちょっとした評判だぜ」
強面のいかつい大男が作っているとはとても思えない、繊細な味と可愛らしいラッピングが女性達に受けている。
「この家を解体するのに、隣近所に挨拶しときたいんでな。頼めるか」
「そりゃ勿論!」
喜んで、とその場で飛び跳ねたくなった。
見かけはともかく、パティが作る焼き菓子は絶品だ。
ゾロがそれを求めてくれるなら、張り切って飛び切りのを用意してもらおう。
「まずは予算と個数、それにいつまでに必要だ?」
急に商売っ気を出したサンジに苦笑しながら、ゾロは指を折りつつ数える。
「大体こんくらいだ。知り合いの工務店に頼んで手っ取り早く済ませてもらうから一日で終わるはずだが、天気にもよる」
「そんなに早くできるのか?壊すのはあっという間だな」
この家に出入りするようになってわずか二日のサンジでも、すこし寂しいと感じる。
「じゃあ、頼んだぞ」
「わかった、任せといて」
体よく追い払われたような気もしないでもないが、サンジはお使いを言いつけられたのでそのままお暇して、自宅にまっすぐ帰った。




ぎりぎりアイドルタイムだったので、店舗の勝手口から入る。
パティかカルネ辺りにこっそりと頼むつもりだったのに、最初に出くわしたのがゼフだったのでキョドってしまった。
「あ、た、ただいま」
うっかり口をついて出てしまったセリフに、一人であたふたとする。
「おかえり、早かったな」
ゼフはさらっと自然に応えて、サンジの前を通り過ぎトイレへと向かった。
住居地でもろくに会話しないのに、店舗内で挨拶を交わすのは初めてでなぜかドキドキする。

「おうどうした、こっちに顔出すのは珍しいな」
ひょっこり顔を出したパティの、ざっくばらんな喋り方に救われた気分になる。
「あの、お使い物を頼まれたんだ。手土産用の詰め合わせ、お友達価格でできねえかな」
「そんな設定はねえ」
「そう言わず、スタッフ割引とか」
「お前、スタッフじゃねえじゃねえか」
からかうパティの横で、カルネがまあまあと口を挟んだ。
「ちびナスがよそから注文受けて来るなんてこたァ、初めての事じゃねえか」
「わァってる、からかっただけだ」
“ちびナス”呼ばわりで子ども扱いされるのは心外だが、二人と話をするのはサンジにとっては一番気安い。
「なんだったら、今日皿洗いをしたらスタッフ扱いしてやってもいい」
パティの提案に、サンジは驚いて目を見張った。
「やって、いいの?」
店を覗くことはおろか、厨房に立ち入るのも遠慮していた。
自分のような素人がウロウロしても邪魔になるだけだし、ましてや札付きの不良となれば店の評判にも関わる。
ゼフに直接そう言われたわけではないが、この家に引き渡される際、前もって言い含められていたので余計、よそよそしく接していた。
「皿を割るなよ、どん臭いことしてたら蹴り飛ばすぞ」
「割らねえよ、ちゃんと洗える」
しかし、そんなことをパティの一存で決めてもいいものか。
躊躇うサンジに、ゼフはコックコートを纏いながら唸るように言った。
「手伝うんならそれなりの支度させろ」
「へい!ちびナス、このエプロン使え」
「靴も代えないとな」
なぜかスタッフ達の方が嬉しそうに、いそいそと支度を手伝う。
「うちにいてコックの真似事でもしてえなら、まずは賄い食って味を知ることだ。青菜を煮過ぎたり、煮魚に最初からみりん入れるんじゃねえ」
「え、そうなの?」
サンジは驚いてから、じわじわと嬉しさがこみ上げてきた。
ということは、ゼフはやっぱり昨夜置いておいた総菜をちゃんと食べてくれたのだ。
その上で、アドバイスしてくれている。
「うちはフレンチレストランだが、和食でもチャーハンでもなんでもできる」
ゼフはそっぽを向いたまま、独り言のようにぶつぶつと続けた。
「目で見て舌で盗むぐらい、勘弁してやる」
ふんっ!と鼻息を吐いてから、足を引きずり厨房へと向かった。
その背中にぴょこんと頭を下げ、サンジはやや大きめのエプロンと長靴を履いてパティを見上げた。
「よろしく、お願いします!」
「しょうがねえな」
「キリキリ働けよ」
古参のスタッフ達に頭を小突かれ背中を叩かれ、サンジはゼフと同じように「ふん!」と鼻から息を吐き気合を入れた。


開店すると同時に、厨房内は戦場のような雰囲気になった。
素早く荒々しく、それでいて見目麗しく優雅な皿が次々と生み出されていく。
荒くれ者の一団みたいなスタッフ達の、顔に似つかわしくない美技に見とれないように注意しながら、サンジはひたすら皿を洗い道具を片付け、また皿を洗った。
糸尻に汚れが残ってでもいたら、遠慮なく蹴りが入る。
うっかり無駄な動きをして動線を邪魔するとまた蹴られ、名指しで命じられた道具の名前がわからず聞き返すとまた蹴られた。
だが、このくらい乱暴な方がサンジの性には合っている。
優しくされるより厳しくされる方が、何百倍も心地が良い。

―――ゾロは優しかったのにな、なんでだろ。
ふと意識が逸れかけて、ゼフの怒号で我に返って気を引き締めた。
ゾロのことを考え出すと、すぐに手が止まってしまうのは悪い癖だ。
殺伐とした空気に飲まれないよう、サンジはひたすら皿洗いに専念した。


目的は、ゾロのために手土産を安く調達することだった。
そのために皿洗いを手伝い、ついでに翌日は早くに厨房入りして掃除と準備の段取りを覚え、そのまま成り行きで皿洗いを手伝って、休憩時にはみんなと一緒に賄いを食べた。
そうしてディナータイムも当たり前のように下働きを続けている。
あてもなく住宅街をさ迷っている時とは比べ物にならないくらい早く、時間が過ぎた。
「注文の品だ」
パティが、綺麗にラッピングされた手土産を準備してくれていた。
「明日、学校の帰りにでも届けてやるといい」
そう言われて、サンジは微妙な顔つきで紙袋を受け取った。
学校に、行っていることになっているのだ。
平日には毎朝一応、「行ってきます」も言わないで家を出ていた。
そうして、あてもなく住宅街をうろついていた。
ゼフは薄々気付いているかもしれないけど、パティ達は何も知らない。

「ありがとう、代金は―――」
「本人が直接店に支払いにくればいい。お前が現金を扱うことはねえ」
そう言われればそうかとも思う。
「じゃあ、明日行ってくる」
「おう、毎度ありっつっといてくれ」
この店にはランチに来たことがあると言っていた。
もしかしたら、自分が手伝っている間にも来てくれたりしなかったかな…と、ふと考えたりしてしまう。
「俺が洗った、皿なんだぜ」
不意に、そう自慢したくなった。
斜に構えて拗ねた生き方しかしてこなかった自分が、まさか店の手伝い程度でこんなにも気持ちが満たされるなんて思いもしなかった。
これも、きっかけはゾロの手伝いからだ。
そもそもは、ゾロの家であの美しい庭を見つけたからだ。

明日は、ゾロの家に行こう。
手土産を持っていくという口実ができて、サンジは自然と湧き上がってくる笑みを拳で隠した。








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