庭守と庭守と夜の巣箱
-6-


石板には茶色い汚れや緑色の苔がまだらに着いていた。
それを、デッキブラシでゴシゴシと擦る。
滴る雨で面白いほど綺麗に落ちて、気持ちがいい。
小さなサイズの石板や細かな溝は、しゃがんで小さめのブラシで丹念に擦った。
汚れたものが綺麗になって行くのはちょっとした快感で、夢中になって作業を進めていく内に身体はどんどん温まっていった。
じんわりと汗が滲むほどに体温が高くなっているのに、それとは真逆に指先が冷えて凍える。
「…さっび―…」
大きめの合羽を着こんでゴム手袋で完全防備していても、芯から冷えが沁み込んでくる。
氷雨のような雨水に打たれているから、なおさらだ。
動いて汗を掻いた分だけ冷えに覆われて、暑いんだか寒いんだかわからない。
指先と、長靴の中の足指だけがかじかんで感覚がない。
そして結構、体力を使う

―――くたびれたから、もう止めようかな。
洗うべき石板はまだ何枚も積まれている。
綺麗にしたら重い石板を持ち上げて、水を切るように壁へと立てかける。
そしてまた、泥に汚れた石板をブラシで擦る。
さっきからそれの繰り返しだ。
落としたり倒れたりして割らないように、気を遣って慎重に扱った。
なるべく大きなものから片付けていったからどんどん作業は楽になるのだけれど、まだ終わりが見えない。
けれどもう、随分と疲れてしまった。
なにより寒い。
こんなにくたくたになるまで手伝わなきゃならない義理はないはずだが、引き受けたからにはやり遂げないとならないとの強迫観念がある。
なにより、ゾロに「任せた」と言われたから――――

「おい」
かじかむ手で小さな石板を丁寧に立て掛けていたら、背後から声が掛かった。
「飯にするぞ」
「へ?」
振り返れば、ゾロが台所の小窓から顔を出して何か言っていた。
だが強くなった雨音でよく聞こえない。
しゃがんで雨に打たれているサンジに、ゾロは大きく手招きをする。
でかい手だなあと眺めてから、腰を上げた。

いつの間にか昼前の時間になっていた。
途中から我を忘れて熱中していた感はあるが、随分と早く時間が経ったものだ。
長らく同じ姿勢でしゃがんでいたせいで、身体中がギシギシ軋む。
「うっわ、寒―・・・」
俄かに寒さを感じ取って、サンジは濡れた合羽の中で震えた。

室内に入ると温かな空気と湿気、それに食欲をそそる匂いにムワッと襲われる。
「いい匂い」
髪の水気だけ拭いて台所に入ると、ゾロが一つしかない丼に湯を注いでいるところだった。
「飯だ」
「…ども」
炊き立てのご飯にインスタントラーメンという、限りなく炭水化物なラインナップだったが、冷え切った身体にはものすごいご馳走に見える。
「えっと、これ貰っていいの?」
「ああ、俺はこっちでいい」
ゾロは手鍋に直接麺を入れて、まだ火も通っていないのにガシガシと箸で突いている。
「せめて卵落とそうぜ」
「食わねえと伸びるぞ」
「あ、うん。いただきます」
これ以上手を加えることは諦めて、大人しく食卓に着いた。

卵も葱も入っていない麺だけのラーメンだが、一口啜ると箸が止まらなくなった。
美味い。
冷えた身体に温かさが染みて、ただのラーメンなのにものすごく美味い。
「あっつ、うっま・・・」
濡れた前髪から滴が落ちるのを、手で拭いながら麺を啜る。
寒かった分だけ頬が逆上せて、顏だけが熱い。
ゾロは漬物や梅干しも置いてくれたので、適当に摘まんでご飯もお代わりしてしまった。
ただの白米がこんなにも美味しいなんて。

「ふー・・・食った」
さすがにお腹がいっぱいになって、綺麗に空にした丼を前に手を合わせる。
ゾロは小鍋から直接ラーメンを啜り、大盛りによそったご飯に生卵を割り入れて何杯も食べていた。
ワイルドで美味しそうだったが、そこまではとても真似できない。
汗だか雨の滴だかわからないものがこめかみを伝って、服の袖で拭う。
ゾロは自分の頭に巻いていたタオルを取って、手を伸ばしサンジの頭を擦った。
「まだ濡れてんぞ、ちゃんと拭け」
「汗臭ェ」
文句を言いつつ、されるがままに頭を差し出した。
乱暴な力強さが心地よい。

「着替えるか?」
「やだよ、ゾロ臭いジジシャツなんて」
「サイズが小さかった新品があんだよ」
そう言って出してきたのが「フランキー工務店」なんてレトロなフォントのロゴが入った、明らかな貰い物のシャツだった。
普段のサンジなら絶対に手にも取らない代物だけど、ここでならまあなんでもいいやと思う。
「新品なら、借りる」
「現金な奴だ」
合羽のお陰で濡れはしなかったけれど、湿気でシャツもアンダーウェアも気持ち悪かったのだ。

居間へ移動してソファの影で服を脱いだ。
別に隠れて着替えしなくてもよいのだけれど、食卓の前で服を脱ぐのは抵抗がある。
ゾロに背を向けてシャツを脱ぎ、Tシャツも脱いで新品のシャツを羽織る。
室内は温かいから、一枚でも寒くはない。

「ここに掛けといたら、乾くかな」
「ああ」
午後も外仕事となると寒いが、その時は他になにか着る物を借りればいいだろう。
そう思って服をハンガーに掛け、ホッとしてソファに座った。
着替えを済ませると、さっぱりした気分になる。
「そこで休んでろ」
「・・・うん」
ゾロが、食べ終えた皿を洗ってくれている。
上げ膳据え膳で悪いなあと思いつつ、ソファに深々と腰掛けている内に睡魔が襲ってきた。
年寄り世帯だったせいか、シンクの高さは随分と低い。
やや猫背なゾロの背中を見つめ、肩幅広いなあと思っている内に意識が飛んでしまった。





雨音に誘われ、ふと覚醒した。
見覚えのない天井に、古びたカーテン。
薄暗い室内で、片側から光が差し込んでいる。
――――あれ、寝てた?
驚いてソファから身を起こした。
掛けられていた毛布が、肩からするりと落ちる。
柱に掛けられた時計は、15時過ぎを示していた。
ラーメンを食べたのが12時前だったから、3時間ぐらい経ってしまっている。
「俺、寝ちゃってたか」
昨夜は寝付けなかった反動か、随分ぐっすり寝入ったようだ。
頭はスッキリとして、気分も悪くない。

サンジが眠っていた居間は灯りが落とされ薄暗かったが、隣の台所には電気が点いていた。
テーブルに資料を広げ、パソコンに向かっているゾロの背中が見える。
「起きたか?」
気配に気づき、背凭れに肘を乗せて振り返った。
「ごめん、俺すっかり寝てた」
毛布を畳んで、ソファから降りる。
「あんたの寝床、借りちゃって」
「別にいい」
パソコンに向き直ったゾロの背後へと歩み寄る。
「なんか、手伝うぞ」
「そうだな…」
ゾロは持っていたボールペンのキャップで頭を軽く掻いて、サンジを見上げた。
「ならコーヒー煎れてくれ、美味いやつ」
「オッケー」
任せろと、シンクに向かう。

「粗方きれいにしてくれたから、もうすることないぞ」
「えー、なんかねえの」
午前中はなかなかにハードな手伝いだったが、ゆっくり休んだせいか気力体力ともに、漲っている。
もっとなにか、手伝いたい。
「あれだ、夕食の準備しようか」
「いいって」
ゾロは苦笑しながら、差し出されたカップを受け取った。
ブルーライトが、ゾロの顔半分を照らし出している。
「なにしてるんだ?」
人のパソコン画面を覗くのは躊躇われたので、ゾロの向かいに座ってコーヒーを啜った。
「設計」
「庭の?」
「ああ」
ゾロの答えは、いつも端的だ。
わかりやすいけど、話が続かない。
だからサンジが質問を続けるしかなくて、尋ねるばかりじゃうざいかとも思ってしまう。
「――――・・・」
わざと黙って見つめたら、ゾロは画面から視線を上げてチラッとサンジの顔を見た。
ゾロはゾロで落ち着かなさそうなそぶりを見せたので、つい笑みが零れる。
「じゃあ、この家の庭もゾロが設計したの?」
「いや、あれは祖父が作った」
そうだ、そう言っていた。
この家はもともと、ゾロの祖父母の家だ。
「奥の部屋にばあさんが寝ていて、部屋からでも庭を楽しめるようにとじいさんが適当に作った庭だ」
「そうか」
サンジは納得して、カップを両手に抱いてテーブルに置く。
「だから、あんなにも綺麗なんだな」

もしかしたら緻密な計算とか施されていなくて、ただ単に部屋から見たら綺麗だからここに花を植えようとか、樹を植えようとか。
そんな風にいろいろと試してみて、何度も部屋から庭を眺め、時にはおばあさんの希望を聞いて飾っていったのかもしれない。
誰のためでもない、愛しい妻を楽しませるためだけの庭。
「おばあさんにとってはただの綺麗な庭だけじゃない、おじいさんが庭仕事をする姿を眺められる庭でもあったんだな」
ゾロは手を止めて、サンジを見つめる。
「じいさんを、眺める?」
「ああ、自分のためにせっせと庭を作ってくれる姿を眺められるのって、贅沢じゃね?」
「…そうか」
サンジに指摘されて、ゾロは初めて気付いたようだった。
「なに、そう思わない?」
「いや、そう言われればそうだったのかもしれねえ」
首の後ろに手を当てて、短く刈られた襟足を自分で撫でた。
「そりゃあ、うちじゃ誰も気付いてなかったかもしれねえな」
「そうか?あ、いや、全部俺の勝手な憶測だけど」
そうだったんじゃないかなあと、ふと思っただけだ。

ゾロは肘を着いて、少し考えるように中空を見つめた。
「ばあさんは、晩年は寝たきりになって樹の梢ぐらいしか見られなくてな」
「…そう、だったの」
「あの、巣箱があるじゃねえか。あれに鳥が巣を作ってるとか言ってな」
「ああ、でもあそこに鳥はいないって」
言っていたのは、ゾロだ。
「あれは俺の兄貴がガキん時に作った巣箱で、その時はこんくらいの高さにあったんだ」
目の高さぐらいで、掌を翳してみせる。
「それが、巣箱の形をしてはいるが底がなくてな」
「はい?」
「あれ、屋根と壁に丸い入口はあるけど、底がねえんだよ」
それじゃ、巣が作れないんじゃね?
「だから、鳥は居付かない」
「なるほど」
夏休みの宿題で作ってはみたものの、底を嵌めるのを忘れたらしい。

「枝の間でそれらしい格好で収まってるのを写真に撮って、それで提出を終えたとかでお払い箱だ。それがあのまま、樹だけが大きくなっていっぱしの顔でくっついてる」
「だから、せっかくの巣箱なのに役目を果たしてないってことか」
なるほどと納得しつつ、先ほどのゾロの台詞を思い出した。
「え、でもおばあさんは鳥が巣を作ってるって、言ってた?」
「ああ」
「あ、でも。巣を作らなくても鳥の止まり木ぐらいにはなってたんじゃね?」
「ああ、それはあり得る。この辺も、もうちょっと暖かくなってくるとうるさいほど鳥が集まってくる」
「じゃあ、底がなくてもそれなりに役目ありそう」
鳥が囀り花が咲き、蝶が舞う庭はきっと賑やかだろう。
「それなら、音とか空気とか香りとかで寝たきりのおばあさんも楽しめたんじゃないかなあ」
「ああ、そうだな」
ゾロはどこか懐かしそうに目を細め、微笑んだ。












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