庭守と庭守と夜の巣箱
-5-


遠足前の子どもかと揶揄されそうなほど、昨夜は寝つけなかった。
ろくに寝た気もしないまま、ぱちりと目が覚める。
部屋の中はまだ暗い。
早く目が覚めちゃったのかと、寝返りを打ってスマホに触れた。
時刻は6時30分。
全然早くない。
いつもの起床時間より、やや遅い。
なぜこんなに暗いのかと思ってから、雨音に気付いた。

カーテンを開けると、外はまだ夜が明けきらぬほど薄暗く雨に包まれていた。
「・・・雨かー」
今日もゾロの手伝いをすると約束したのに、雨が降ったりしたらあの綺麗な庭が楽しめない。
いや、雨の日はそれでまた違う顔を見せてくれるんだろうか。
あの庭なら、雨に濡れていても綺麗かもしれない。
そう思うと、いても立ってもいられなくなってきた。

他所様のお宅を訪問するには、時間が早過ぎる。
でもすぐにでも行きたい。
楽しみ過ぎて、昨夜眠れなかったくらいなのだ。
ワクワクしてじっとしていられない。
しょうがないので、サンジはキッチンへと降りて行った。
この時間なら、ゼフはまだ寝ている。

昨夜、思いがけず早い時間に自宅に戻ってしまったサンジは、自分の夕食を作りがてらゼフ用にもおかずを二品ほど準備しておいた。
ゼフが戻るのはレストランが閉店した後だ。
賄いを食べているだろうけれども、遅い時間ならちょっと小腹も空くかもしれない。
プロを相手に随分と大胆な行為だと思うけれど、気に入らないなら食べなきゃいいと思う。
あくまで、ゾロに作ってやるための試作品だ。

そう思って軽い気持ちで用意しておいた惣菜は、二品とも空になっていた。
食べたのかな・・・と思う。
あのゼフが、いくら気に入らない子どもが作ったものとはいえ料理を捨てるとは思えないし、夜も遅い時分に誰かに食べさせるとも思えない。
ということは、やっぱり食べてくれたのだ。

サンジは片付けられた小鉢を見て、むにゅむにゅと唇を動かした。
別に、嬉しくなんかねえからな。
そう思うのに、胸の奥から湧き出るホワホワが止められない。

「ま、いいけど」
区切りをつけるために独り言を呟いて、勝手口から外へ出る。
馴染みのパン屋でバゲットを買って来て、適当に見繕った具材をタッパーに詰める。
ゾロは朝食も米派かもしれないけれど、持って行くならサンドイッチの方が楽だ。
鶏肉、むき海老、トマトにレタスにアンチョビにレバーペースト。
なにが好みかはわからないけれど、これだけ種類があればなにか食べられるだろう。
確かゾロん家の冷蔵庫には、卵もハムもチーズもあった。
そう当たりを付け、荷物をまとめた。
ゼフが起きて来る前にと、足音を忍ばせて家から出る。



早朝の街は雨に煙っていた。
土砂降りではなく静かにしとしとと降り続いていて、肌寒いというよりぶっちゃけ寒かった。
傘を肩に凭れさせ、コートのポケットに手を突っ込んで首を竦ませながら歩く。
春の気配が近づいてきたと思っていたのに、冬へと逆戻りだ。
住宅街にはいつにもまして人けがなく、晴れた朝とは雰囲気が全然違う。
サンジにとっては、この薄暗さの方が心地よかった。

雨水がエスカレーターのように段を作って流れ落ちる坂道を、水たまりを避けながら歩く。
樹々に覆われた、緑なすロロノア家が今日は全体的にグレーに染まって見えた。
壊れた雨樋の端から、バタバタと音を立てて雨水が滴り落ちている。
樹木にばかりかまけていないで家の修繕もすればいいのにと考えて、そういえばもう取り壊すんだと思い出す。
形ばかりに閉じた木戸を勝手に開け、玄関の扉に手をかけた。
鍵はかかっていない。
やっぱりと半分呆れながら、引き戸を引いた。

「…おはよーございます」
遠慮がちに声をかけながら、玄関から顔を覗かせる。
昨日まとめた荷物がそのまま、廊下の隅に山積みになっている。
しんと静かな廊下は薄暗いというより真っ暗だ。
雨戸を全部閉めて、寝こけているらしい。
「お邪魔しまーす」
早い時間すぎると自覚しているので、むしろ起こさないように声を潜めながら後ろ手に戸を閉めた。
勝手に庭に入っても怒られなかったからいいよな、と自分の中で言い訳を並べ立てる。
昨日だって、留守を任されていたし。
今日も来いって言われたし。

足音を忍ばせ、軋む廊下を歩いた。
寝室は奥にある、あの庭を見渡せる部屋だろう。
ただ、電動ベッドは使われている形跡がなかった。
どこで寝てるんだろうかと居間の襖を開けたら、ソファからにょっきりと足が伸び出ていた。
どうやら布団を敷かず、転寝の状態で寝入っているらしい。
「…おはよー、ございます」
寝起きでドッキリみたいな声の潜ませ方で、サンジはそろそろとソファににじり寄る。
室内はひんやりと冷えているのに、ゾロは胸元から膝下にまで毛布を一枚かけたきりで、両手足を伸ばして熟睡している。
目を閉じて仰向いたまま、スピスピと鼻息が漏れていた。

「…よく寝てるな」
足元に布団が落ちていた。
一瞬ためらったが、起きたら起きた時だと開き直ってそうっと上からかけてやる。
ゾロは相変わらず太平楽な寝顔のままで、起きる気配はない。
――――かわいい
一瞬浮かんだ単語に自分自身が驚いて、あわてて首を振った。
何考えてんだオレ。
相手は、むくつけきおっさんだぞ。
おっさんだよな、おっさんだと思う。
勝手におっさんだと思ってたけど、いったい幾つぐらいなんだろ。
もしかして、ギリ「お兄さん」ぐらいの年齢なんだろうか。

サンジはまじまじと、眠るゾロの顔を見つめた。
揉み上げから頬にかけてうっすらと無精髭が浮いている。
顔立ちは整っていて精悍だ。
イケメンと呼んでやっても、まあまあ許容範囲だろう。
すっきりとした眉毛は、手を加えている風でもない。
肌にも張りがあり、もしかしたら最初の印象より若いのかもしれない。
けれど、自分で造園業を営んでるってことはそれなりに経験もあるんだろうし。
庭師の修行って、あるんだろうか。
調理師専門学校的な過程が、庭師にもあるのかな。

つらつらと考えていたら、突然パチッとゾロの目が開いた。
数秒見詰め合ってから、ふわっ?!と慌てふためく。
「あ、あ、あ…おはよう?」
なぜ疑問形なのか。
「…おはよう」
ゾロは片目を擦ってから、両腕を伸ばしてクワアと大あくびをした。
「…早ェな」
「あ、うん」
サンジはどぎまぎしつつ、平静を装った。
「玄関で声かけたんだけどよ、返事なかったから勝手に上がってきちまった」
「構わん」
仰向けで頭の後ろに腕を組み、また目を閉じる。
「朝飯、食うだろ?」
「ああ」
また眠りに落ちそうなゾロを横目に、サンジは台所に立った。
家主の許可が下りたのだから、遠慮なく朝ごはんの準備に取り掛かろう。


冷蔵庫の野菜を適当に切って、くつくつと弱火で煮る。
顆粒のスープの素で味を調え、ゆで卵に焼いたベーコン、ハムなどを皿に盛り付ける。
「そろそろ、起きろよー」
やっぱり二度寝したゾロに、遠慮がちに声をかける。
コーヒーサーバーからいい匂いが漂い出して、ゾロが目覚めるより先にぐうと腹の音が鳴った。
「朝飯、だぞ」
「…おう」
寝汚く何度か寝返りを打ち、ようやくゾロは起き上がった。
頭頂部に寝癖が付いていてかわいい。
いや、かわいいってなんだよ。
内心で自分突っ込みをするサンジを置いて、ゾロは顔を洗いに行った。



「豪勢だな」
食卓に着いたゾロは、片方だけ目を見開いた。
まだ寝ぼけ眼ながら、視線は料理にくぎ付けになっている。
サンジ的にビジュアルを意識した朝食なので、この反応には大いに満足した。
「へへ、有り合わせだけどな」
野菜スープに、スティックサラダ、具がたっぷりのバゲッドサンド。
カナッペも好みのペーストで楽しんでもらうべく、ずらりと種類が並んでいる。
サンジは紅茶党だが、ゾロと一緒にいるときはコーヒーに付き合っている。
別に付き合う必要もないだろうが、なんとなく気持ちの問題だ。
砂糖は加えず、温めた牛乳でまろやかなカフェオレを味わう。
「いつも、休みの日は昼過ぎまで寝てんの?」
「まあ、休みとかないから適当だ」
そういえばそうだった。
ゾロは自営業だ。
「起こして、悪かった?」
若干申し訳なく思って聞くと、ゾロはコーヒーを一口飲んで頬を緩めた。
「お前が来ると思ってたから、起こされるのも想定内だ」
「え、うそ」
起こされる云々より「お前が来ると思ってた」のところで、激しく胸が高鳴ってしまった。
来ると思って、待っててくれたのかなとか思ってしまう。
実際には寝くたれていただけなのだけれど。
それでも、ゾロの頭の片隅に自分の存在があったと思うと、それだけで嬉しい。

「おれ、そんなに騒がしくしてねえぞ」
心臓がバクバク鳴るのを誤魔化すべく、悪態を吐いてみる。
「しずかーにしてたのに目が覚めるなんて、起きる時間だったんじゃねえか?」
「気配がした」
「野生動物か!」
じっと見つめていたのが伝わってしまったかと、余計にドキドキする。
動揺を誤魔化すべく、茹で海老とアボカドのサラダをスライスしたバゲッドに乗せて口に運んだ。
「んー美味!」
「自分で言うか」
「ゾロも食ってみろよ、ほら!」
カナッペを差し出したら、ゾロは大きく口を開けてパクンと食いついてきた。
驚いて、手を引く暇もなかった。
唖然としているサンジの前でゾロはモグモグとよく味わうように咀嚼する。
「うめエ」
「―――…」
サンジは宙に浮いたままだった手を泳がせて、へへっと笑った。
「だろ?」
さっき一瞬だけ、ゾロの唇に指が触れてしまった。



ゆっくりと朝ご飯を食べ終えても、雨は降りやまなかった。
それどころか雨脚が強くなっている。
気温が低くて、氷雨と呼んでもいいくらいに寒々しい。
「これじゃ庭仕事できないんじゃね?」
家の中は昨日片づけてしまった。
今日は手伝う用事なんて、ないだろうか。
そう思ったのに、ゾロは作業着に着替えてどこからか合羽を引っ張り出してきた。
「雨の日じゃなきゃできねえ仕事を、お前に任せる」
「お、おう」
任せる、とか言われちゃうと任されちゃう気になってしまう因果な性質だ。

ゾロに借りた合羽は若干大きかった。
それになんというか、相当くたびれていてゾロ臭い。
裾を捲り上げていると、それじゃ寒いからとゴム手袋を装着された。
裾を手袋の中に入れ、更に手首を輪ゴムで留める。
「なに、水仕事?」
「そうだ、これを履け」
これまたゾロ用の、恐ろしくでかい長靴でガッポガッポと歩く。
庭には回らず、反対側の倉庫へと連れていかれた。
そこには、どこから集めたのか大小様々な石板が無造作に並べられている。
「これで、これを洗ってくれ」
「…これ?」
手渡されたデッキブラシと、並べられた石板を交互に見る。
野ざらしのそれは、今は強い雨に打たれていた。
なるほど、雨の日じゃないとできない仕事だ。







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