庭守と庭守と夜の巣箱
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うす曇りの空の下、なだらかな坂道をゆっくりと登っていく。
この道を歩くのは、実に3年ぶりだった。
いつでも徒歩で来れる距離だったが、あえてずっと避けていた。
そもそも閑静な住宅街なので、用事がなければ赴くこともない場所だ。

ほんの数日通っていただけの道だが、覚えのない駐車場に気付くと、ここは以前何が建っていたのかと考えてしまう。
たった3年、されど3年。
どこもかしこも少しずつ、変化している。

―――大人になるまで、待っていて。
そう約束した日から、大人になるのを指折り数えて待っていた。
が、実際「大人になる」のはいつだろう。
そう考え出すと、あまりにも曖昧な定義で判然としない。
具体的な日時と場所も定めないで、ただゾロと交わした口約束だけを信じて努力してきた。
いざ、「大人になったよ」とゾロの元を訪れるのは、いつがいいのか。
あれこれと考えあぐねて、結局今日に決めた。
3月2日、自分の誕生日だ。

本当は、ゾロの元で誕生日を迎えたかったから前日の1日にしようかとも思ったが、「大人になって」から会うと約束したのでやはり2日は超えていないといけない。
妙に堅苦しい思考をしていると自分でも思うけれど、その辺の線引きはきっちりとしておきたかった。
なにもかも、自分本位な考えでしかないのだけれど。

ゾロにはなにも連絡していない。
そもそもメアドも知らないしラインも登録していない。
スマホを持っているかさえ定かではない、ほんの数日間の交流でしかなかった相手だ。
今日がサンジの誕生日だなんて、ゾロは知らないだろう。
突然訪ねていったってあの庭にいる保証はないし、事務所か現場で仕事をしている可能性の方が高い。
今日は、会えないかもしれない。
それでも、それでもいいから足を運ぶ。
会えたらラッキー、その程度の期待値で。

早生まれのサンジは、まだ19歳の時点で成人式を迎えた。
まったく交流のなかった世代の成人式に呼ばれても、居心地が悪いだけだろう。
そう思って臆していたが、せっかくだから出席して来いとゼフ達に背中を押され、これも大人への儀式だと勇気を出して参加した。
誰一人知り合いがいないはずの式だったが、意外にもそれなりに楽しかった。
学生生活を共に過ごした友人はいなくとも、カフェの客だったりバイト先での知り合いだったり、案外と世間は狭くて顔見知りがそこそこいた。
女の子達の華やかな振り袖姿も目の保養だったし、新たに知り合った同士で連絡先などを取り交わして友人も増えた。
ウソップのお陰で一緒に卒業できた高校生活も充実していたし、今通っている専門学校はとても楽しい。

サンジは無意識にポケットに手を入れ、なにもないことに気付いて掌で布地を擦った。
成人を機に、禁煙にもチャレンジしている。
自分を大切にするのも、大人の責務だと思ったからだ。

少しずつ変わった自分を、ゾロはどう思うだろう。
変わってないと、言うだろうか。
相変わらずガキ扱いで、歯牙にもかけてもらえないだろうか。
そもそも自分を、覚えていてくれるだろうか。

ポケットの中で握り締めた拳に、じわりと嫌な汗が浮く。
考えまいとしても、どうしても不安の方が先に立った。
3年間、片時も忘れないでずっと思い続けているのは自分だけかもしれない。
ゾロはさっさと先を行き、仕事に打ち込み私生活も充実して、もしかしたら家庭を持っているかもしれない。
もしそんな気配があったなら、静かに身を引こうと思っている。
約束を交わしたゾロを疑う行為だとも思えて後ろめたいが、様々な可能性は先回りして考えておくべきだ。
それも、大人となった今の自分の自衛策と言える。





閑静な住宅街の一角に、鎮守の森かと思えるほど緑濃い場所がある。
その印象は、今もまったく変わっていない。
3年前より樹が増えたのかもしれないが、どちらにしろ緑みどりしているので違いはわからなかった。
ただ、あの時あった平屋建ての家屋はもうない。
門柱も取り払われたか、形だけのアーチからすぐに庭へと続いていた。

かつて家屋があった場所は均されて、何本もの苗木が植えられていた。
芝生の中に配置された飛び石は昔のままで、その位置で辛うじて家屋の跡地がわかった。
こうして見ると、家屋部分は随分と狭い。
「もっと広くなるかと、思ったのにな」
家屋がなくなったので、隣家の塀がすぐそばに見えた。
初めて訪れた時はどこまでも奥深く見える庭に圧倒されたが、平地になったせいで見通しが良くなり一望できてしまう。

それでも、庭石の配置や足元を飾る花の可憐さに目を奪われた。
この季節、今の時期の庭しかサンジは知らない。
これからは、春夏秋冬を楽しむことができるだろうか。

春を迎えるとはいえ未だ肌寒い空気の中で、芽吹いたばかりの枝々が重なり合っていた。
あの背が高い樹の名前はなんと言ったか。
底のない巣箱が、中腹に括り付けられしなやかに揺れている。
風もないのに?


「――――あ」
繁みの中から、黒い地下足袋が覗いた。
ドクンと、心臓が派手に脈打つ。
脚立も使わないで手足だけでまるで猿のようにするすると降りてきたゾロは、呆けた顔で立つサンジに気付いて「お」と言った。

「来たな」
「・・・うん」
まるで子どものようにコックリと頷き、サンジは改めて胸を反らす。
「久しぶり」
「ああ」
ゾロは片手に持った丸頭鋸を腰に差し直し、首に掛けたタオルで額の汗を拭った。
「元気そうだ」
「―――うん」

会えたら、いっぱい話そうと思っていたのに。
いざ顔を合わせると、言葉が全く出てこない。
気の利いたセリフどころか挨拶もろくにできないで、これではとても「大人になった」と言えないじゃないか。
そう思いつつも、ついポケットに手を突っ込んだままモジモジとしてしまう。
あれほど会いたかったのに、照れが先に立ってゾロの顔をまともに見られない。
まさかここに来てすぐに、ゾロに会えると思ってもいなかったから。

「でかくなったな」
「え?」
その声に釣られ、顔を上げた。
真正面で、ゾロと目が合う。

確かに、以前はゾロを見上げていた。
なのに今は、ほとんど目線が同じだ。
ここ数年でサンジはぐんと背が伸びて、体つきもがっちりとした。
けれど、こうしてゾロと向き合うと首の太さや肩幅は全然違う。
ただ、目線が同じくらいになっているのはなんだか嬉しい。
「同じくらい、だな」
「ああ、でかくなった」
気安く頭を撫でられないのだろう、代わりにニカッと笑うゾロの目尻の皺にキュンと来る。

――――あれ?ゾロってこんな顔だったのか。
思い出の中では、もっとこうくたびれたオッサンの印象があった。
無口で不愛想で強面で、でも静かに寝息を立てている無防備な横顔は意外なほどにシャープだったとの記憶はある。
が、いま真昼間に正面から見た顔は、サンジが覚えている以上に端正だった。
…え、マジやばいかも。

今さら、一層ドキドキしてきた。
急に頬を赤らめてモジモジし始めたサンジを、ゾロは物珍しそうに見つめている。
「どうした」
「え、あ、いやー」
「こんだけでかくなったんだ、俺に言うことあんだろうが」
促され、ハッとして顔を見つめ直す。
そうだった、大人になったら伝えたいと約束したのだ。
その前に、勝手にゾロに惚れ直していたなんてとても言えない。

サンジはゴホンと咳払いして、仕切り直すつもりでいったん視線を外した。
「えーと、お待たせしました」
「おう」
やっぱり、待っていてくれたんだ。
そう思うと、ドキドキが止まらなくて喉の奥から心臓が飛び出そうだ。
「俺、今日が誕生日で」
「ほう」
「20歳になった」
「おめでとう」
うん、めでたい。
ものすごくめでたい。
よくこの年まで生きていたと、自分を褒めてやりたいくらいだ。
大人になることを目標にしてこなければ、どこかで折れていたかもしれない。
無意識に手を握り締めて、意を決して顔を上げた。

「大人になったので、言うぞ」
「おう」
すっかり待ち構えている感じのゾロが、若干癪だ。
自分にだけ言わせようとしているようで、なんかずるい。
でも、先に「言う」と約束したのは自分なので仕方ないか。

「ゾロ、俺な」
「ああ」
「一年遅れたけど高校行って、部活にも入って友達もできて、試験とかは散々だったけど文化祭とか体育祭とか色々あって、それなりに楽しかった」
「そうか」
「それに、友達と一緒にちゃんと卒業して、調理師専門学校に通ってるんだいま」
「ほう」
「そんで、休日はジジイの店手伝ったりして。大体掃除とか後片付けとか皿洗いなんだけど、ちょっとだけ下ごしらえ手伝わせてもらったり、味見させてもらったりしてる」
「そりゃあよかった」
「それで、学校行ったり店手伝ったり、あと接客業学ぼうとか思ってバイト掛け持ちしたりして結構おれ忙しい」
「うむ」
「毎日充実してるし、ずっと早く大人になりたいって思ってたけど割とあっという間に時間が経ったっていうか、今日おれ誕生日だしちゃんとハタチになったしもう大人だから言ってもいいかなあって思うから言うけど好き」
立て続けに発した告白はどさくさ紛れのようになったけれど、ゾロの耳にはしっかりと届いたようだ。
「よし」
「よしってなに?!」
想定外の返事に、サンジは目を剥いてゾロのシャツに手を掛ける。
「ゾロは?ゾロもちゃんと言え」
襟元を掴んで詰めよれば、ゾロは苦笑しながらサンジの背中に手を回した。
「ったく、変わってねえなお前は」
「ええっ?!」
これはショックだった。
自分的に、かなり変わったつもりだったのだ。
背だって伸びたし3年の月日は経ったし、立派な大人に育ったつもりだったのに。
「おれ、成長してねえ?」
不安を隠せない表情に、ゾロは眼差しを和らげる。
「ちゃんと成長した、そういう意味では変わったが本質が変わってねえ。俺が惚れた時のまんまだ」
「そう…って、え?」
こっちもさらりと言われたので、危うく聞き流すところだった。
なんだって?
惚れた、時?

「ゾロ、俺に惚れてたの?」
「ああ」
「いつから」
「さあなあ」
惚けるのかと襟元を掴んだ手に力を籠めると、ゾロはいなすように背中を軽く叩く。
「お前だって、いつから俺に惚れたのかわからねえだろ」
「あ…うー」
そう言われれば、そうかもしれない。
ゾロの寝顔を見た時からかもしれないし、自分が作った料理を美味そうに頬張るのを見た時からかもしれない。
もしかしたら、さっきみたいに樹から降りてきたゾロと目が合った瞬間だったのかもしれない。

「いつからとかどっちが先かとか、いらねえだろ」
すぐ前にあるゾロの目が、真摯な光を帯びている。
詰め寄ったせいで近付きすぎて、掴んだ襟元からゾロの匂いがした。
汗臭くて青臭くて、けど脳みそにじんと染み入るようで。
肌が泡立つ感覚と逃れようのない陶酔と、ほんの少しの恐怖を呼び起こす雄の匂い。

瞬時にさっと赤く染まったサンジの頬を、ゾロはどこか眩しそうに見やる。
「うん、いらねえ」
辛うじて呟いて、掴んでいた襟を離しおずおずとゾロの首に手を回す。
ふと気づいて、背後を振り返った。
奥まった場所にある庭だが、家屋が取り壊されたせいでじゃっかん見通しが良くなっている。
まだ充分に葉を茂らせていない枝の間から、お向かいさんの二階の窓が見える。
ゾロはサンジの腰を抱いて横移動し、大樹の陰に背中を付けた。
ゾロの広い背中の後ろには、大きな木。
それ以外、何も見えない。


こつんと額を突き合せ、しばらく無言で見つめ合った後、どちらからともなく顔を近付けた。
唇を合わせて一呼吸し、そっと離れる。
伺うようなゾロの表情にサンジはへにゃりと口元を綻ばせ、首の後ろに回した手に力を込めた。
「…もっかい」

分厚い雲の切れ間から、春の日差しが降り注ぐ。
足元を照らす木漏れ日の下で、二人はそっと口付けを交わした。






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