庭守と庭守と夜の巣箱
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閑静な住宅街を縫うように、なだらかな坂道が続いている。
勾配が緩いので、徒歩ならばさして問題はない。
自転車でも立ち漕ぎするほどではないだろう。
だが足の不自由な祖父が買い物帰りに歩くには、少しきついのではないだろうか。
そこまで考えてから、サンジは一人で首を振った。

なんでそんな、暴力クソジジイの心配なんざしなきゃなんねえんだ。
クソだろ、クソが!

心中で汚い言葉を吐きつつ、ポケットに手を入れてぶらぶらとウロつく。
この街は、どこもかしこも小奇麗すぎる。
隠れて煙草を吸う場所も、見つからない


坂の途中で立ち止まり、振り返る。
小高い場所から臨む景色は、まさに絶景だった。
湾曲した小さな入り江には数隻のボートが係留していて、日差しを受けて輝く水面に浮かび、揺れている。
薄いグリーンから濃い青へと見事なグラデーションを描く海は、次第に薄い水色に変化しながら彼方にある水平線へと繋がっていた。
薄墨色の空に筋雲が浮かび、海鳥は羽ばたくことなく飛んでいく。
長閑だ。
実に穏やかで、平和な光景だ。

「美しさ」に心動かされることに嫌悪を覚えながら、サンジは少しでも日陰を求めて樹木が生い茂る場所を目指した。
ここはなにもかもが眩しくて、居心地が悪い。



サンジがこの地で暮らすようになってから、そろそろ一週間が経つ。
辺鄙な片田舎だが、最近宅地開発が進んでいるようで真新しい建物が目につく。
それでも、一歩路地に入れば古い家屋も存在していて、軒を重ねるようにして建つ家並みが醸し出す雑多感に少しほっとした。
とはいえ、つい先週まで夜な夜なたむろしていた盛り場の薄汚さには程遠く、落ち着いてしゃがむ場所すら見つからない。
平日の昼間から一人でウロウロしていたら、どうしたって人目に付くだろう。
今にも崩れそうな石の階段を登り、樹の枝が視界を遮るほど繁った場所に身を潜める。
綺麗に整地された住宅街の中、なぜかここだけ緑が多い。
神社か何かでもあるのだろうか。

サンジはしゃがんでポケットを探り、煙草を取り出した。
未成年の身で、煙草を手に入れるのには苦労する。
前までは仲間に分けてもらえていたけれど、こっちに越してきてからはそのツテもない。
これが最後のひと箱だと思うと、吸うのが勿体なくなった。
とはいえ、ここらで一服したい誘惑には抗えない。
口に咥えてから、何の気なしに垣根を見上げた。
この辺は冬でも雪が降らないそうだが、今日は春のような日和のせいか葉っぱも艶々として輝いて見える。
まるで新緑のような瑞々しさだ。
生垣の緑と、その後ろに繁る緑はわずかに色合いが違った。
その奥に、別の形の葉っぱが繁り、さらにその奥にも違う形の枝が伸びる。
そのどれもが緑でありながら、ちょっとずつ色や形が違うのが面白い。

―――――どんだけ、緑みどりしてんだ。
小学校の時遠足で山に登ったりしたけれど、こんな風に繁々と緑に見入ったことはなかった。
ぱっと見単なる緑の山なのに、なぜか気になる。
なんとなく、違う気がするのだ。
なんだか、こっち側ではない…そんな気がする。

サンジはいったん咥えた煙草を、箱に戻した。
大切にポケットに仕舞い、身を低くしながら立ち上がる。
誰にも見つからない場所でも、煙が上がったら見とがめられるかもしれない。
誰にどう非難されようと怒られることには慣れているから何ともないが、それでも新しい地でのもめ事はなるべく避けたかった。
いろいろと、何もかもが面倒くさい。
生垣の間に、隙間があった。
明らかにそこが入り口ではなさそうだが、入れないことはない。
サンジは身体を横にして、すっとその隙間に滑り込ませる。




古ぼけた木の杭が、辛うじて境界を示す柵を形作っている。
緑が連なる奥には屋根瓦が見えた。
廃屋かもしれないと、遠慮なく足を踏み入れてはみたものの、どこもかしこも緑だらけだ。
木の種類なんてさっぱりわからないが、下草が綺麗に刈られ樹の一本一本が健やかに伸びているのがわかる。
素人目にも、よく手入れされた庭だ。
「――――――庭、か?」
空き家じゃないのかと慎重に歩を進めていると、いきなり鮮やかな色が目に飛び込んできた。
ピンクや赤、白にオレンジと、色とりどりの花がそこかしこに咲き乱れている。
いまが2月の下旬とはとても思えない、まるで春そのもののような花園だった。
山に分け入ったつもりでいたサンジは、あまりの光景に呆然として立ち尽くす。

白い踏み石が幾何学模様に敷かれ、部分的に玉砂利が敷き詰められている。
芝生を踏むことがためらわれ、足音を消してそっと石の上を歩いた。
明らかによその家の庭に迷い込んでしまったのに、まるで誘われるように足が勝手に動く。
木造の平屋建ての家屋には、人気がなかった。
不自然なほど大きな窓に、透明なガラスが嵌め込んである。
曇り一つなく、薄暗い部屋の中がよく見えた。
ベッドと机、古いタンスもあるが生活感はない。
他所のお宅を覗き見るのは失礼と思い、サンジはそこで足を止めて振り返る。
そうして、また瞠目した。

先ほどまで雑木林の中を歩いてきたと思っていたが、この位置から見るとただの樹木の連なりも計算され尽くしたものだとわかる。
まさに、ここから眺めるために造られた庭だった。
樹木の配置も、名前はわからないが美しい花の数々も一つの庭を形作るための大切なパーツだった。
「…すっげえ」
サンジは思わず、感嘆の声を上げた。
「綺麗、だ」

いつの間にか日が傾き、庭に満ちた空気も穏やかな黄金色を纏っている。
まるで夢のような光景に、サンジは瞬きも忘れてじっと見入っていた。
綺麗なものを「綺麗だ」と褒め、美しいものを「美しい」と認めることが、今まではできなかった。
サンジが綺麗だとか好きだとか、そう思うものはすべてバカにされてきたから。
言葉にして「美しい」「綺麗」だと褒め称えていいのは、女の子だけだった。
「―――――…」
サンジはその場にしゃがみ、うっとりと梢を見上げる。
本当は誰にも見つからない場所で一服するつもりだったのに、この場所ではとてもそんな気になれなかった。
次第に赤味を帯びる夕間暮れを、紫煙で汚したくはない。

白く細長い幹がすんなりと伸びていく先に取り付けられた小さな巣箱を見つけ、微笑ましさに目を細める。
あの巣箱の中に、小鳥が巣を作っているのだろうか。
もしそうなら、すごく嬉しい。

そう考えて一人でニコニコしていたら、その巣箱の隣の緑ががさりと動いた。
「―――――?」
辺り一面緑だが、そこだけなんかおかしい。
というか、緑の塊が揺れながら降りて…くる?

金属音に、サンジはハッとして目を落とす。
緑の下にあったのは、脚立だった。
足首に布を巻いて地下足袋を履いた足が、大股で降りてくる。
短い芝生の塊みたいなものが振り返り、目が合った。

「――――――・・・」
微動だにできず、固まったまま見つめてしまった。
サンジより年嵩だが、まだ若い男だった。
緑と見間違う色鮮やかな髪色の、強面の男だ。
顔立ちは整っているのに、白目が多くて目元がきつい。
だが、サンジを見据える瞳に険はなかった。

「…あ、ども」
一拍遅れて、サンジはぺこっと首をしゃくった。
明らかに人さまの庭に無断でお邪魔しているのだが、この場でいきなり走って逃げるのは悪い気がしてとりあえず挨拶をしたつもりだ。
それに、男も目礼を返す。
不法侵入を咎めるでもなく、男は脚立を抱えて隣の樹木へと移った。
こちらは随分と幹が太く、がっしりとしている。
その木の枝を、パチンパチンと大きな鋏みたいなもので伐り始めた。
どうやら庭師のようだ。

―――――家の人じゃないから、怒らないのかな。
サンジは勝手にそう解釈し、しばらく男の作業を見ていた。
どの枝を残してどの枝を切るのか。
多分、男の頭の中では決まっているのだろう。
迷うことなくパチンパチンと伐っていく。
男はいつの間にか、随分と高い位置まで登っていた。
サンジは高所恐怖症ではないから見ていても大丈夫だけれど、怖い人は怖いんだろうなあと思う。
あっという間に木がさっぱりとした。
男が降りてきて、脚立を畳んでサンジの目の前を横切って行った。
家の裏に回り、なかなか姿を現さない。
今のうちに逃げ出そうと思えばできるのだけれど、サンジはなんとなく気になってその場に座っていた。
男が剪定した木は素人目に見てもいい感じだし、伐られた枝はまだそこにあるから片付けに来るんじゃないかと思う。
そう思って眺めていたら、大きな笊みたいなものを抱えて男が戻ってきた。
やはり、伐った枝を片付けるようだ。

手際よく作業する男に、サンジは声をかけてみた。
「それ、なんて木?」
「クヌギだ」
男は振り向きもせず応える。
だが、どこの誰ともわからぬサンジの問いに律儀に応えてくれるのは嬉しい。
「じゃあ、さっきまでいた細い方の木は?」
「トネリコ」
「その隣は」
「ナラ」
折れた枝を集めて立ち上がり、男は振り返った。
「お前の横に咲いている花は、リナリア」
赤や白やピンクの、色とりどりの花が固まって咲いている。
「これ?」
「そう、その隣はプリムラ」
「へえ、可愛いな。じゃあこの青いのは?」
「ブルーカーペット」
「すげえな、なんでも知ってるんだな」
サンジは腰を浮かした。
むやみに草を踏んだりしないよう、気を付けて石の上を歩く。

「その巣箱、鳥が棲んでるの?」
トネリコの木を見上げると、男も同じように顔を上げた。
「いや、なにも棲んでない」
「そうなのか」
ちょっとがっかりして、サンジはポケットに手を突っ込む。
「勝手に庭に、入ってごめん」
「別に、構わん」
そりゃ庭師は構わないだろうけど、家の人は構うだろう。
戸惑うサンジの前で、男は窓の傍らにたくさんの蕾を付けた細長い花を摘んだ。
くるくるっとまとめて新聞紙にくるみ、差し出す。
「持って帰れ」
「え、いいの?」
「ああ、今年は気候がよかったせいか、早く咲きそうだ」

男に花を貰うのは、初めてだ。
だが悪い気分じゃなく、サンジは素直に受け取った。
蕾は白いものとうっすらと紫がかったものがある
「これ、なんて花?」
「アラセイトウ…ストックだ」
「へえ」
ほのかに、いい匂いがする。
「花が咲けば、もっと匂いが強くなる」
庭師なのに家に立ち入った不審者を追い出しもせず、ましてや勝手に庭の花を摘んで渡したりなんかして、大丈夫なんだろうか。
少し心配になったが、男に気を遣うことはない。
「…ども」
“ありがとう”とは口に出せず、けれど受け取った花を大切に胸に抱いて、サンジは庭の入り口らしき門から外に出ていった。

どうやら本当に、裏口からこっそり入った形だったらしい。
庭の門から家の敷地を示す門扉まで、結構な距離があった。
その間も敷石やしゃれたタイルで足元が飾られ、歩くだけで心が躍る。
門を潜る前にもう一度振り返ったら、緑に覆われた小さな家と広い庭が一望できた。
やはり、この家のためだけの格別な庭なのだ。

石造りの門には、「RORONOA」と刻んである。
「邸宅って、こういうのを言うのかな」
家自体は決して豪奢ではなくむしろ古風な佇まいの小さな家屋だ。
だが庭は素晴らしい。
公開するだけで、入場料を取れそうなほどの完璧さで。
「もしかして、観光用ガーデニング?」

サンジは一人首を傾げながら、ストックの花束を抱いてまっすぐに自宅へと帰った。
いつもなら夜中になるまでその辺を放浪するのだけれど、今日だけは切られたばかりの花を早く水に活けてやりたかった。






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