ネクタイの結び方がわからない
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もう三日も雨が降り続けていた。
秋の長雨とはいうが、まるで梅雨時のようにジメジメとして湿気が多い。
しかも一雨ごとに寒さが募り、そうでなくとも殺風景な部屋が余計しんと冷えて見えた。
サンジが、いないからだ。

ゾロは洗面所の鏡に向き、寝ぐせを撫でる。
サンジがいたなら霧吹きとドライヤーを使って手早く直してくれるのだが、見よう見まねで同じように試みても全くうまくいかない。
早々に諦めて、買い置きしてあるパンを齧りながらネクタイを締めた。
まっすぐに整えているつもりなのに、なぜか曲がる。
以前はこんな風でもなかったはずだ。
もしくは、サンジと暮らす前まではネクタイの曲がりなど気にも留めていなかったのかもしれない。

サンジがいなくとも、遅刻だけはしないようになった。
しとしとと降りしきる雨の中を、傘を差しながら速足で歩く。
信号で足を止め、鈍色の空を見上げた。
そうして、ソロは心に決めた。





「サンちゃん、いないの?」
開口一番、エースはそう尋ねてきた。
驚きが顔に出たのか、雀斑が浮いた顔にニヤンと笑みを浮かべる。
「なにビンゴ?俺って、鋭いでしょ」
「まあな、一週間だけだ」
「え、いま何日目?」
「六日目」
「じゃあ、明後日には帰って来るんじゃん」
待ち合わせた居酒屋で、それぞれ好き勝手に注文しては平らげていく。
ゾロは主に酒を飲み、エースはひたすら食べるばかりだ。
「なんで、いないってわかった?」
当然の問いに、エースはリスみたいに頬袋を膨らませながら視線を上げた。
「なんってえの?ショボくれてる」
「は?」
「ってえか、くたびれてるってぇか、生気がないっていうかしょげてるってぇか」
ゾロは、無精髭が浮いた顎を無意識になぞった。
「そんなに、わかりやすいか?」
「そりゃもう、一目で。オーラが違う。寂しい?」
ストレートに聞いてくるエースに、ゾロは口をへの字に曲げたまま顎を引いた。
「まあな」
「素直だなあ」
笑いながら追加注文をするエースの横顔を、ゾロは恨めし気に見やった。
そんなにあからさまなのかと、ちょっと反省もする。
なぜなら職場でも、似たようなことを言われたからだ。

サンジと出会って、2年余りが過ぎた。
1年ごとに出向先が変わるゾロは、ロンリン企画の翌年にはIT企業の下請けで1年働き、今は本社の営業に勤めている。
その間に、サンジは調理師専門学校で学び無事卒業した。
春にはバラティエGL支店で採用され、下働きから始めている。
皿洗いと芋の皮剥きばっかだ!と家ではボヤいているが、実際にはとても楽しいらしく生き生きと輝いていた。
バラティエ本店で研修があるからと、出かけていったのが先週のこと。
たかが一週間、されど一週間。
一人で待つゾロの方が、寂しさに心折れそうになっている。

「笊なのは知ってるけど、サンちゃんが留守中に一度でも遅刻なんかしちゃ面目が立たねえから、それくらいにしたら」
すいすいと調子よく飲んでいたらエースに釘を刺され、ゾロはそれもそうかとジョッキを持つ手を下ろした。
「明日は、東海に行く」
「は?出張?」
「いや、半休取って」
1年ごとに派遣先を転々とするからどこに行っても新人扱いのゾロだが、それなりの適応力を発揮して入社半年でも中堅どころの貫禄は備えていた。
今までも可能な限り、有休を活用している。
「休んで東海行くって、もしかして我慢できないでサンちゃんに会いに行くの?」
エースは驚き半分興味半分で、目を見張りつつも口元を綻ばせている。
「まさかね…」
自分で言っておきながら、ゾロが否定しないことにうろたえているようだ。
「いやー、まさかゾロがまあ。さすがサンちゃんというか、なんというか」
「別に、単に会いに行くだけじゃねえ」
ゾロは残りのビールを空けてから、熱燗を頼んだ。
「ちいと、先方に挨拶もしときてえと思ってな」
「ああ、サンちゃんの恩人ってえオーナー」

不遇な少年時代を過ごしたサンジを、一時保護してくれたフレンチレストランのオーナーだ。
サンジにとって「親代わり」といっても過言ではない。
「知ってるんだろ、ゾロのこと」
「ああ、2年前に顔を合わせたきりだから一度ちゃんと、筋を通しておかなきゃなんねえな」
ゾロの気真面目な顔に、エースも表情を引き締めて焼き鳥の串を置いた。
「サンちゃん、喜ぶよ」
「…そうか?」
「照れ隠しに、まず蹴ってくると思うけどね」
「違いねえ」
くくっと笑って、店員が持ってきたお猪口で改めて乾杯した。





11月11日の金曜日。
自分の誕生日に店を予約するなんて真似は、今までしたことがなかった。
前日に思い立って電話を入れて、一人分とはいえ席が取れたのはラッキーだ。
サンジからは、日付が変わった頃にLINEで「おめでとう」メッセージが入った。
明日も仕事だろうから早く寝ろと、素っ気なく返事を返したきりだ。
そうしていま、東海へと向かう電車に揺られている。
バラティエは、最寄り駅から徒歩15分。
午後4時には駅に着いたが、15分歩いても店には着かなかった。
結局2駅分ほど歩いた後に、諦めてタクシーを拾う。
20分ほどで、店に着いた。
駅から徒歩15分なんて、大ウソじゃないかと思う。

店にたどり着いたのが午後6時。
想定の範囲内だ。

ちょうどディナータイムが始まったところだった。
早めに着いて先に挨拶を済ますつもりが、一番忙しくなる時間帯に差し掛かってしまった。
仕方なく、客として店に入る。
「いらっしゃいませ」
思いもかけず、出迎えたのはサンジだった。
「ご予約のロロノア様ですね、お待ちしておりました」
真っ白なシャツに、黒いギャルソンエプロン姿だ。
腰の細さが強調されて、手足の長さとしなやかな動きに改めて目を奪われた。
こいつは、やばいかもしれない。
「どうぞこちらへ」
眉間に皺を寄せたゾロを、サンジはそつなく案内する。
そうして前を向いたまま、小声でささやいた。

「驚れえたぞ、平日なのに店に来るなんて」
「お前、コックなんじゃねえのか」
「今日はホール担当なんだよ。日替わりでいろいろ経験するんだ」
ならば、毎日こうして客を相手にしているのではないのかと少し安堵した。
こんな目立つなりをして、よからぬ客に目を付けられでもしたら大事だ。
「いらっしゃいやせ、イカ野郎!」
顔なじみのパティが、どら声を投げてきた。
ゾロは軽く会釈を返した。
そういえば、こいつらがいたんだと思い直す。
それなら、安心かもしれない。

「後で、ジジイが挨拶に来るって」
席に着いたら、サンジがそういったのでゾロは首を振った。
「いや、俺から挨拶をしたいと思ってな。店が引けてから、ゆっくりとお目にかかりたい」
「え、そうなの?」
「駅前のホテルを取ってある」
「そうなんだ」
サンジは納得したように、深く頷いた。
「せっかくの誕生日だもんな。俺が祝えなくて悪いけど、ジジイの料理を目いっぱい味わってくれよ」
ゾロが、自発的に己の誕生日を祝うためにここまでやってきたと、思っているようだ。
だが誕生日だからというのは口実で、目的はサンジ本人だ。
「お飲み物は」
「任せる」
「畏まりました」
メニューを差し出す仕種も、水を注ぐ手つきも流れるように美しい。
少し襟足が伸びた髪は、蜂蜜色の輝きをまとって白いシャツに淡い影を落としていた。
綺麗な生き物だと、つくづくと思う。

ずっと会いたかったのだ。
たった一週間。
まだ6日しか離れていなかったのに、こんなにも恋しく愛おしい。
「少々、お待ちください」
サンジはそう言って席を離れようとして、足を止めた。
なに?と言いたげに、小首を傾げて見せる。
ものを言わずとも、ゾロの表情になにかを感じ取ったようだ。

「会いたかった」
ゾロは声を落として、静かに言った。
「お前に、会いたかったんだ」

開店したばかりの店内に、まだ客は数人だった。
落ち着いたジャズの調べと穏やかな会話の中で、ゾロの言葉もまた賑わいに紛れる。
ただサンジの耳には届いたようで、取り澄ました頬がほんのりと赤みを帯びた。
「…俺も」
それだけを言って、踵を返す。

見慣れたはずの、だが何度見ても見惚れてしまう後ろ姿を見送って、ゾロは水が入ったグラスを手に取った。


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